紅髪の少女
俺は息を大きく吸い込みながら、バッと目を覚ました。ベッドの上で上体を起こし、濡れた肌に冷たい風が当たるのも気にせず、室内を見回す。窓の雨戸を閉め忘れていたらしい。
軽く顔を覆い、深く、そしてゆっくりと呼吸を整える。
「悪い夢だったな……」と呟いた。
いつまでも引きずっている場合じゃない。やることは山ほどある。
朝日が昇り、今日という日が始まっていた。顔を洗い、濡れた布で体を拭いた後、いつもの服に着替えて部屋を出る。
朝食代わりに蜂蜜パンを一本かじりながら、図書館へ向かう。
開館の準備はそこまで大変じゃない。掃除して、蔵書をチェックし、机や椅子を整える。どちらかといえば、閉館作業のほうが面倒だったりする。
準備が終わると、「閉館中」の札を「開館中」に裏返した。
最初の客が来たのは、それから一時間後のことだった。
それまでの間、俺はカウンターに座りながら、あまり重要とは言えない事を考えていた……例えば、あの日から一週間経ったのに、カリが一度も姿を見せていないということだ。
冗談でからかっただけなのに、あれからぱったりと来なくなった。
授業のある日はともかく、それ以外の日は必ず来ていたのに。俺じゃなくても、彼女は読書のために足を運んでいたはずだ。だからこそ、姿を見せないのは不自然だった。
今日の図書館は妙に静かだった。
というか、退屈だった。まあ、カリが来ていないせいかもしれないが。
そんな俺の救いとなったのは、ナディーンさんの到着だった。閉館作業から解放されて、内心かなりほっとしたのは事実だ。
「そんなに嬉しそうな顔しなくてもいいのよ?」と、ナディーンさんは呆れたように目を細める。
「すみません」とだけ答えた俺は、そのまま出ていこうとして――ふと、足を止めた。
一つだけ、確認しておきたかった。
「ナディーンさん、カリって……最近ここに来てませんか?」
できる限り何気ない口調で尋ねたつもりだった。
「私がいた時には一度も見てないわね」
そう答えた彼女は、じっと俺を見つめてから、意味ありげにニヤリと笑う。
「もしかして……喧嘩でもしたの? あんた達、いい感じだったのに」
「まだ“いい感じ”になってねぇよ」と肩をすくめながら苦笑したが、その後に付け加えた。
「まあ……軽くやらかしたかもな」
「ふぅん」とだけ言い残して、ナディーンさんは再び図書館の奥へと引っ込んでいった。
結局、カリはここには来ていない。ナディーンさんの言葉を信じるしかなかった。
日が傾き始めた頃、俺は図書館を後にして、昼飯を買って腹を満たすと、自宅に戻って錠剤入りの袋を手に取った。
だが、今日向かうのは東門ではなく南門だった。
霊力の制御訓練のおかげで、今の俺は霊力を解放しても暴走することがなくなった。
それはつまり、次の段階――新たな訓練方法へと進む時が来たということだ。
今の俺が、あの「フラッシュステップ」などの霊術を使えるかどうか。それを確かめる必要がある。もし使えるなら、体も霊力もかなり回復した証拠だ。
もし無理なら――もっと制御を鍛え直すしかない。
南門までは馬車を使わなければならなかった。貴族街の近くを通るルートだったので、少し距離がある。およそ一時間後、俺は馬車を降りて門を通過した。
南門の外には、北門や西門のような深い森林はなかった。木々はまだ点在しているが、代わりに大きな岩や起伏の激しい地形が多く、歩きづらい場所が目立つ。
だが、それだけに開けた場所も多く、鍛錬にはもってこいの場所でもある。
特に大きな岩の周囲を歩いていたとき、ある音が耳に届いた。俺は立ち止まり、耳を澄ませる。
「ハッ! ハッ! ヒャッ!」
――掛け声だ。
激しい呼気とともに響くその声は、鍛錬中の者が放つものだった。
声の高さと調子からして、女性だとすぐに分かった。年齢も俺とそう変わらない。おそらく、今の俺の身体年齢と同じくらいだろう。
正直に言えば、俺は気になった。
ネヴァリアからこんなにも離れた場所で、他に誰が鍛錬をしているのか――単純な好奇心だった。
声を頼りに、いくつかの岩を越えていくと、大きな開けた空間に出た。
そこにいたのは、まさに若い――少女だった。
年の頃は十六か十七といったところか。
彼女の髪は燃えるような赤――まるで炎のように太陽の光を反射していた。
その髪をなびかせながら、彼女は連続で拳と蹴りを繰り出していた。
雪のように白く、傷一つない肌が印象的で、爽やかさを感じさせる顔立ちだ。
着ているのは、長袖のチュニックにシンプルなズボン。そして、手には手袋。
肌はほとんど隠れているが、輪郭だけでも分かることがある。
彼女の胸はカリほどではないにせよ、明らかに豊かで、チュニック越しにもその膨らみが見て取れた。
腰に巻かれた帯からも細身であることが分かるが、パンツ越しでも分かる太腿のラインには、しっかりとした筋力が宿っていることが見てとれた。
遠くから見ていると、彼女の動きに少しばかり違和感を覚えた。
最初はただの不器用かと思ったが――すぐに気づいた。彼女は右足を庇っている。
さらに、左腕の動きもどこかぎこちない。
過去に大きな怪我をしたか、それとも今も傷が残っているのか――その動きは、負傷者特有の癖があった。
それでも彼女は、攻撃を舞いのように変化させていく。
霊力が高まっていくのが分かったが、その流れは鈍重で、何かに詰まっているような気配がした。
そして――
少女が両手を前に突き出した瞬間、霊力が手元に集まった……が、それはまるで見えない壁にぶつかったかのように霧散した。
「――あっ!」
膝をつき、地面に手をついた彼女の顔には、明らかな苦痛が浮かんでいた。
その表情を見た瞬間、俺の背筋に電撃が走る。
……あれは、霊路が詰まったときの症状だ。
怒りがこみ上げてきた。視界が赤く染まり、思わず叫んでいた。
「お前、何をやってるんだッ!」
岩陰から飛び出すようにして、俺は彼女の前へと出た。
「え、えっ?!」
少女は驚いて立ち上がろうとしたが、痛みのせいか腰を抜かして尻もちをついてしまった。
俺が近づくにつれて彼女の顔は青ざめたが、すぐに気を取り直して鋭い目つきで睨んできた。
「あなた誰よ?!ここで何してるの?!」
「それよりお前だよ!お前、何してるか分かってるのか!?」
「は、はあ?!何怒鳴ってんのよ、いきなり!誰があんたにそんな偉そうに説教される筋合いがあるのよ!父親か何かのつもり?!」
少女の困惑と怒りが入り混じった表情が目の前にあった。
俺自身、理性が薄れているのは自覚していたが、それでも怒りは収まらなかった。
俺は彼女の言葉を無視して膝をつき、左腕を掴んで袖を捲った。
――やっぱりだ。
手首から腕全体が黒ずんでいて、その毒々しい色は肩にまで及んでいる可能性があった。
あの不自然で硬い動きは、すべて霊毒のせいだったのだ。
「見ないでッ!」
彼女は反射的に腕を引っ込め、急いで袖で隠した。
その瞳には激しい怒りが宿っていた。
「女の肌を勝手に覗くなんて、どういう神経してるのよッ!無礼にもほどがあるでしょ!」
「無礼!?こっちのセリフだ!」
俺も怒鳴り返した。
「お前、自分が霊毒症だって分かってて霊技の修行してたのか?!正気か?!霊毒に侵された状態で霊力を流すなんて、自殺行為だぞッ!常識も知らないのか、このバカ女ッ!!」
目の前の少女は、まるで衝撃を受けたかのように俺を見つめていた。
言葉を重ねるたびに、その瞳がどんどん大きく見開かれていく。
俺はもう息が荒くなっていた。
だからこそ、彼女がなぜそんなに驚いているのかに気づかなかったのかもしれない。
「あなた…私の体に何が起きているのか、分かるの…?」
その声には、疑いと希望の入り混じったような不安な響きがあった。
「当たり前だろ」
俺は短く吐き捨てるように言った。
「目がついてりゃ、誰だって分かるだろ。お前の身体がどうなってるかぐらい…!」
普段はあまり口が悪くなる方じゃないが――今ばかりは怒りを抑えきれなかった。
霊毒を受けたまま霊技を使うなんて、愚かにもほどがある。
それがどれだけ危険か、知らされていないのか?
しかも、治療すらされていない。あの腕の状態から見て、すでに霊毒がかなり進行している。
普通の解毒薬じゃ間に合わない。高度な霊術マッサージを併用しなければ、命すら危ない段階だ。
少女は俺をじっと見据えた。慎重な目つきだった。
「…うちの一族の長老たちですら、私の病気の正体が分からなかったのに。どうしてあなたが…?」
「は?何言ってんだよ。霊毒だろ、誰が見たって一目瞭然じゃないか」
俺は当然のように返した。
「え…?」
「えっ…?」
しばしの沈黙。
お互いに顔を見合わせたまま、沈黙が流れる。
そして、ようやく――俺は気づいた。
これまでの会話を頭の中で反芻しながら、ひとつの答えにたどり着く。
まるで霊雷術でも喰らったかのような衝撃が脳裏に走った。
ネヴァリアは、時代に取り残されていた。
彼らの錬金術はまだ、霊毒を治療できる段階にまで達していなかった――つまり、それが何であるかすら知られていない可能性が高い。
この少女とその家族も、霊毒についても、治療法についても、何ひとつ知らないのだろう。
俺は地面に座り込み、脚を組んだ。
今得た情報を頭の中で整理しながら、しばらく少女を見つめる。
そして、ふうっと大きく息を吐いた。
「…悪かった。怒鳴るつもりはなかったんだ」
ようやく落ち着いた声で、俺はそう告げた。
「…別に、いいけど」
少女はそう呟いてから、唇を噛んだ。
「でも…あなた、さっき“霊毒”って言ったよね。それが、私の身体に起きてることなの?」
「もう一度、君の腕を見てもいいか?」
声の調子を落とし、できるだけ穏やかに尋ねた。
少女は一瞬だけ躊躇したが、やがて袖をまくり、黒ずんだ腕を俺に差し出した。
俺はそれをじっと観察する。
黒く変色した肌――間違いない。
霊識を使い、意識を彼女の霊脈に送り込む。
すると――完全に詰まっていた。霊力の流れが、どこにも見えない。
「やはり、霊毒だな」
小さく呟く。
「…霊毒って、何?」
少女の問いに、俺は一年前の記憶を思い出す。
あの時…第七界の大君主にカリが殺された直後、必死に情報を集めて学んだ知識だった。
「霊毒とは、自分自身の霊脈が霊力に耐えきれなくなった時に起きる現象だ。
霊脈が細すぎたり、身体がまだ対応できない霊技を使った時――あるいは、鍛錬のしすぎで起きることもある。
要は、お前の霊脈の中に、凝縮した霊力が詰まり始めているってことだ」
俺は眉をひそめ、さらに続けた。
「その状態で霊技を使おうとしても、うまくいかない。
それどころか、霊力が逆流して霊脈を傷つけ、症状を悪化させるだけだ」
少女の顔が青ざめた。
「そ、それって…そんなに悪いの?」
「悪いどころの話じゃない」
また怒鳴りそうになったが、なんとか感情を抑えた。
これが彼女のせいではないことは、すでにわかっていた。
「霊脈が詰まったままになると、霊力が身体を巡らなくなって、内部からダメージを受け続ける。
それが続けば、一生霊技が使えなくなる――最悪、命を落とすことだってある」
少女は震える手で口元を押さえた。
すでに青白かった顔から、さらに血の気が引いていくのが見えた。
「そ…そんな…うそでしょ…?」
「いや、冗談じゃない。完全に本気で言ってる」
俺ははっきりと言い切った。
「知らなかった…誰も…誰も教えてくれなかったのに…」
呆然とした様子で、少女は俺を見つめていた。
その瞳には、恐怖と混乱がはっきりと浮かんでいる。
「長老たちは、私の霊脈を無理やり通そうとしたの。でも、それで痛みがひどくなるばかりで…
自分でもどうにかしたくて…それで、ここに来て、練習してたのに…」
「けど、うまくいかなかったんだろう?」
俺が顔を軽く手で覆いながら言うと、少女は小さく頷いた。
「当然だ。霊脈の詰まりは、霊力でどうにかなるもんじゃない。
霊力を使えば使うほど、余計に詰まっていくだけだ」
言い終えた俺は一瞬黙り込んだ。
目の前の少女の状況を整理しながら、沈痛な気持ちを抑えきれなかった。
もう怒りは完全に消えていた。
今残っているのは、ただひとつ――同情。
この少女は、ネヴァリアではまだ知られていない“霊毒”という病に苦しんでいた。
この都市国家の錬金術の水準では、それを治すどころか、存在すら知られていない。
――誰にも、彼女を癒やすことはできないのだ。
――俺なら、癒せる。
「よし」と、俺は小さく息を吐いて決断した。「君を治してやろうか?」
その一言に、少女は目を見開いた。
「治せるの?」
「ああ。俺も昔、霊毒にかかったことがあるからな。治し方は知ってる」
少女の瞳に決意の光が宿った。
その強い意志を感じ取って、もしここで俺が彼女に出会っていなかったら、今頃どうなっていたのか――そんなことを考えてしまった。
「何をすればいいの?」
少女が問うた。
「まずは、必要な薬草を揃えてもらう」
そう言いながら、俺は足を組むのをやめて立ち上がった。
「今から必要な材料をリストにする。それが集まったら、俺の部屋に来てもらう」
「…えっ、あなたの…部屋に?」
少女は小さく声を上げた。
俺は眉をひそめた。
「何か問題でも?」
じっと見つめると、彼女の頬が真っ赤に染まり、視線を逸らしながら指先をもじもじといじっていた。
「い、いえ…その…女性が男性の部屋に行くって…その…ちょっと…」
言葉を濁す彼女の仕草は、いかにも育ちの良い令嬢という印象だった。
「できなくはないが、できれば避けたいな」
俺は素直にそう答えた。
「今は目立ちたくないんだ。君の肌の白さや柔らかさからして、君が貴族の出身ってことはわかる。正直、今の俺は貴族社会に関わる気はない。
それに、今回の治療法は…かなり踏み込んだ内容になる。だから誰にも見られない場所でやった方が都合がいい」
「そ、そう…ですか…」
彼女はまだ頬を赤くしたまま俯いたが、やがて真剣な表情に変わった。
その唇がきゅっと引き結ばれるのを見て、落ち着きを取り戻したことがわかった。
深く息を吸い、そして吐いてから――
「わかりました。あなたを信じます。治してくださるのなら、言うとおりにします」
俺はうなずいた。「ありがとう。それじゃあ、行こうか。材料を書き出さないといけないからな。早く買い揃えた方がいい」
「は、はい」
彼女が立ち上がろうとしたとき、俺は手を差し出した。
彼女は一瞬その手を見つめ、それからおずおずと自分の手を重ねた。
俺がその手を握って立たせると、俺たちはネヴァリアに向かって歩き始めた。
今日の修行は結局できなかったな――そんなことを考えていたとき、ふと大事なことに気がついた。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな」
少しだけ気まずそうに言った。「俺の名前はエリック・ヴァイガーだ」
少女は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐにうなずいた。
「私は…フェイです」
その声は柔らかく、音楽のように美しかった。
「フェイ・ヴァルスティンと申します」
今、この章を投稿しているのは、ランドリーが乾くのを待ちながらです。実は、今朝洗濯しなきゃいけなくて…だって持ってきた服が二週間分しかなくて、もう全部汚れちゃったから(笑)
さて、ついに新しい女の子を登場させました。フェイ・ヴァルスティンです!アメリカではファンにとても人気のあるキャラクターなので、きっと皆さんにも気に入ってもらえると嬉しいです。
今回も読んでくれてありがとうございます!