カリの問題
「ここじゃない。上で話そう」
そう言って、俺は彼女の手を取り、階段を上った。
人気のない奥のテーブルへ案内し、誰にも聞かれないように気を配ってから席に着く。
カリも静かに腰を下ろした。
「何があった?」
俺の問いかけに、カリは小さく首を振った。
「……なんでもないの。ただ、少し悩みごとがあって」
「カリ……」
「お願い、エリック」
その声に、自然と動きを止めていた。
かつてのカリも、こういうときは同じ声のトーンを使っていた。
――自分だけで抱えようとする、俺には手出しできないと感じている時の声。
そして悲しいかな、彼女がそう判断する場合、たいていは正しかった。
「その悩みって……俺にはどうにもできないことか?」
「……今は、ね」
少しだけ迷ったように、彼女は口を開いた。
「いずれあなたの助けが必要になると思う。でも今あなたが関われば、余計に面倒が増えるかもしれない」
「なるほどな」
短く息を吐いて、俺は彼女の言葉を受け入れた。
「それなら今は引こう」
だが、納得したからといって心が落ち着くわけじゃない。
苦い思いを抱えながら、俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だが、助けが必要になったら……必ず俺に言ってくれ。いいな?」
蛍の光のように淡く、けれど温かな笑みが、カリの顔に浮かんだ。
「うん。約束するわ」
今は押すべき時ではないと判断し、俺は話題を切り替えることにした。
まだ聞いておくべきことがある。
「アルバートとヒンメル家について、もう少し詳しく教えてくれ」
「ヒンメル家は、いわゆる“若い”貴族家のひとつよ」
カリの説明が始まる。
「貴族の地位を得たのはここ50年ほどのことだから、今でも勢力は強くないわ。でも、当主の跡取りであるアルバート・ヒンメルは、私たちの世代でも有数のスピリチュアリストとして知られているの。彼はまだ25歳だけど、すでに二度、霊術師たちのチームを率いて魔獣山脈に挑んでるわ。そのうち一度は、Bランクの魔獣と戦って……彼自身がとどめを刺したらしいの」
「それは…まあ、なかなか大したものだな」
俺は正直にそう認めた。だが、本音を言えば、それほど大きなことだとは思っていなかった。前世でカリと俺が二十代前半だった頃――俺たちはすでに二人でBランクの魔獣を何体も討伐していたし、セクベイストの戦将どももまとめて叩き潰していた。
あの頃には、Aランクの魔獣さえも二人だけで討ち取ったことがある。
…ましてや、俺が年を重ねてからは、Sランクの魔獣を単独で仕留めたことも何度もあった。
「彼と戦う時は、慎重にね」
カリはそう言いながら、心配そうな目で俺を見つめていた。
「あなたなら勝てるって信じてるわ。そうじゃなきゃ、名誉決闘を勧めたりしない。でも…やっぱり心配なの」
「心配いらない」
俺はそう言って、左手をそっと彼女の右手に重ねた。
彼女の手は驚くほど柔らかくて、滑らかだった。
「俺は絶対に負けない。約束する」
その言葉にカリの肩から少し力が抜けた。
まだ不安そうな顔はしていたが、俺に向けて微笑んでくれた。
「うん。信じてるわ。あなたなら大丈夫」
その言葉が、俺の胸をじんわりと温めた。
まだ俺の戦いぶりを見たこともないのに、こうして信じてくれる――
その想いが、何より嬉しかった。
「戦いの場所はどこだ?」
俺は尋ねた。「闘技場はもう決まってるのか?」
「うん。コロッセオで行われることになったの」
カリはそう答えた。
「スピリチュアリスト大会が開催される、あの場所よ」
コロッセオか…。
その名を聞いた瞬間、俺は思わず口元を吊り上げそうになった。
どうやら、思ったよりも少し早く“お披露目”の時が来たらしい。
だが、それで構わない。
大会の結果を左右するほどの情報を晒すわけでもない。
俺の実力の“ほんの一端”を見せるくらい、何の問題もない。
重苦しい話題ばかりでは、この貴重な時間がもったいない。
そう思って話題を切り替えると、
俺とカリは夜が更けるまで、他愛もない話を続けた――。




