第十一章
過去の避けられぬ別れ
カリと出会ってから、半年が経っていた。
その間、俺たちはずいぶん親しくなった。今では図書館だけでなく、彼女はフードを被って町へ出て、二人でネヴァリアの様々な場所を巡るようになっていた。観光したり、ただ一緒に歩いたりして時間を過ごすだけだったが、それが本当に心地よかった。
カリと過ごす時間は、まるで心が雲の上を飛んでいるような感覚だった。
俺のようなただの図書館員が、皇女の彼女に好意を抱くなんて本来許されないことなのかもしれない。
けれど、もう分かっていた。
俺は、彼女に恋をしていた。
今は夕方。
太陽が魔獣山脈の向こうへ沈もうとしていて、空は赤や橙、そして黄色に染まっていた。
今日は朝早くからカリが俺のもとに訪ねてきて、「一緒に一日を過ごしたい」と言ってきた。
本来なら今日は仕事が入っていたはずだった。
だが、あの希望と不安が入り混じったような彼女の表情を見た時、断れるはずもなかった。
最初は朝食を食べに行ったが、その後は公園に行ったり、劇を観たり、商人街をぶらついたりして、ずっと話し続けていた。
日が暮れかけた頃には、楽しかった気持ちと同時に、何とも言えない不安が胸の奥をざわつかせていた。
何が心配なのかは、まだ分からなかった。
「もう一ヶ所だけ、連れて行きたい場所があるの」
そう言って、カリは俺の手を握り、引っ張った。
俺は抵抗せずに歩き出す。「どこに行くんだ?」
彼女は振り返って、優しく微笑んだ。「ついてきて」
それ以上は何も言わず、彼女は黙ったまま俺を案内した。
いくつかの通りを抜け、いくつか角を曲がり、やがて緩やかな丘の上へと導かれていった。
そして気がつくと、俺たちは王宮が建つ山の斜面を歩いていた。
この事実に気づいた瞬間、まるで体に稲妻が走ったかのように、衝撃が全身を駆け抜けた。
最終的に辿り着いたのは、ちょうど二人が腰掛けられるほどの小さな岩棚だった。
その場所に立った時、俺は言葉を失った。そこからはネヴァリアの全景が見渡せた。城壁の外にある農地まで見える。
この美しい景色を目の当たりにしながら、カリは満足そうに微笑んで、視線を街へと向けた。
「いい眺めでしょ?」
「…すごいな」
俺は心からそう思っていた。
「気に入ってくれて良かった。どうしても見せたかったの」
彼女は静かに言葉を継いだ。
「……だって、もうあなたと会えなくなるから」
その言葉は、まるで骨の奥まで凍りつかせるような冷気となって俺を包んだ。
景色なんて、もうどうでもよかった。
俺は彼女の顔を見つめた。「……どういう意味だ?」
だが、聞いてすぐに悟ってしまった。
それは――
四ヶ月ほど前、グラント・ロイヒトに襲われた時のことを思い出したからだ。
「まさか……結婚の話が関係してるのか?」
カリの唇が震え、瞳に涙が滲んだ。
「……仕方のないこと、なのかもしれないわね。私はアストラリア皇族の一員だけど、それでもこういう運命から逃れることはできない……ううん、もしかしたら皇族だからこそ、こうなったのかもしれないわ」
まだ十七にも満たないこの少女が、もう結婚を決められている。
その現実を前にして、俺の思考は一瞬真っ白になった。
胸の中では、いくつもの感情が渦巻いていた。
彼女と結婚する相手に対する嫉妬、こんな状況を生み出した世界への憎しみ、そして……何よりも、この望まぬ立場に追いやられた少女への哀れみだった。
「……お母様でも止められないのか?」
そう尋ねる俺の喉は乾いていて、声がかすれていた。
カリは両手を背中で組んで、大きく息を吸い、そして静かに吐いた。
「……母様でも、この流れを止める力はないの。ロイヒト家は《三大天家》のひとつ。政治的にも経済的にも強い影響力を持っているわ。彼らは母様に、私と当主の息子を結婚させるよう、強く圧力をかけている。母様はずっと抵抗してきたけど……私は家族の中で一番年下。私の幸せのために、母様が国の不安を招くような決断をするわけにはいかないの」
少し間を置いて、カリはさらに続けた。
「それに、グラント・ロイヒトは……四ヶ月前の『霊術士武闘大会』で優勝したのよ」
俺がその情報に驚きで揺れる中、カリは静かに話を続けた。
「霊術士武闘大会は、ネヴァリア建国以来続いている伝統的な大会よ。勝者には、現在のネヴァリア支配者から《望むものを一つ》授けられる権利が与えられるの」
そして、彼女は今まで見た中で一番悲しくて絶望的な笑顔を浮かべた。
「……私が何を要求されたか、言わなくても分かるでしょう? 優勝の実績と、ロイヒト家の権力……母様でさえ、この婚姻を断ることはできなかったの」
俺は拳を握りしめた。
数ヶ月前、グラント・ロイヒトに襲われた時、カリはこの婚約話について話してくれていた。
そのとき彼女は笑いながら、「そんなこと起こるわけがない」「母様が許すはずない」と言っていた。
だが、あの時から、彼女の言葉にはどこか諦めが滲んでいた。
俺はそれに気づいていたのに、彼女を心配させたくなくて、ただ頷いて、「心配してないよ」としか言えなかった。
「……何もできないのか?」
俺はできるだけ優しい声でそう尋ねた。
カリは目を伏せ、静かに言った。
「逃げる覚悟があるなら、できなくはないけど……」
「じゃあ、一緒に逃げよう」
俺は即座に言った。
「一緒に……?」
頷きながら、俺は彼女の手をそっと握った。
「一緒に逃げよう、カリ」
カリは驚いた顔で俺を見つめた。
「でも……どこへ?」
「そんなの関係ない。どこだっていい、いや、どこにでも行こう」
俺の声にはどんどん熱がこもっていった。
「世界を旅して、遺跡を探検して、危険に立ち向かって……君がいつも夢見ていたような人生を、俺と一緒に歩もう」
「……本当に、あなたと一緒に逃げたい」
カリは涙をこぼしながら、俺の手をぎゅっと握り返してくれた。
「でも、できないの。私はアストラリア皇族の一員……果たさなきゃいけない義務があるの。それに、もし逃げたとしても、父様や兄たちが必ず追ってくる。私は分かってるの。私には逃げきれる力なんてない。……それなら、あなたが逃げきれるはずもないわ」
その言葉は、俺の誇りを傷つけるどころの話じゃなかった。
カリは、俺が“弱い”と言っている――そして、それは事実だった。
俺は今まで一度も修行をしたことがない。霊術の勉強もしていない。剣のどっちが柄で、どっちが刃かさえ分からない。
俺は、弱い。
自分でも分かっていた。
だけど、それが“問題になる”なんて、今の今まで思いもしなかった――今、この瞬間までは。
「じゃあ……これが、君と会う最後の時なのか?」
俺は、確認するように尋ねた。
「た、多分……だから、今日は……伝えたくて……わたし……わたし……」
カリはもう、完全に泣いていた。
止めようもなく涙があふれ、その顔はすっかりぐちゃぐちゃになっていた。目は赤く腫れ、しゃくり上げながら涙をこぼし続けている。
あの強いカリが、こんなふうに泣くなんて――
俺は思わず立ち尽くした。信じられなかった。背筋に電撃が走ったような衝撃を感じながら、ただ呆然と彼女を見ていた。
どうすればいいのか、何を言えばいいのか、頭の中は混乱していた。
だけど……もし、これが本当に最後なら――
「……それなら……少しぐらい、勝手なことをしても、許してくれるか?」
そう言って、俺はカリの手をそっと離し、彼女の腰に腕を回して引き寄せた。
その体はすんなりと俺の胸元に収まり、小さくて細いけれど、確かな強さがあった。
ドレス越しでも背中の筋肉が動くのが分かった。そして、彼女の胸が……大きな柔らかさを持って、俺の胸に当たっている。
俺は身をかがめて顔を近づけたが、唇まではあと数センチのところで止まった。
本当は、どうしてもキスをしたかった。ずっとそう思っていた。これが最後の機会かもしれない。けれど――
それでも、彼女に拒否する選択肢だけは残しておきたかった。
カリほどの力があれば、俺を突き飛ばすなんて簡単なはずだ。
……だけど、彼女はそうしなかった。
気がついた時には、カリの両手が俺の髪に絡んでいた。
指が後頭部をしっかりと掴み、彼女は俺をぐいと引き寄せた。
そして、唇が重なった。
そのキスは、必死で、切なくて、どうしようもなく哀しかった。
まるで、すべての想いを俺にぶつけてくるかのようだった。
髪を掴む彼女の指先からは、募る想いが伝わってきた。
唇が俺を求める動きには、理不尽な結婚に対する怒りと絶望が込められていた。
そして、頬を伝い、胸にこぼれ落ちた涙には、どうしようもない悲しみがあった。
柔らかく温かい唇の感触が、こんなにも素晴らしいものだとは思わなかった――
だが、それ以上に強く感じたのは、このキスの切なさだった。
この瞬間まで、自分の気持ちに正直になれなかったことを、俺はただ後悔するしかなかった。
──あの日から数ヶ月後。
カリが十八歳の誕生日にグラント・ロイヒトと結婚するという発表が、公にされた。
スピリチュアリスト学院を卒業した後、カリとグラントは盛大な式を挙げた。
貴族はもちろん、平民まで招かれるほどの規模だった。
……俺は、式に出席しなかった。
あの日の別れのあと、彼女と再会するのは二年後。
デーモンビーストがネヴァリアを襲い、俺とカリが共に逃げることになった、あの時だった。
今回は少し早めに投稿できました。読んでいただけたら嬉しいです。
このような過去のシーンは、すべて「夢」という形で描いています。
あまり多くは語りませんが、この夢は物語の中でとても重要な役割を持っています。
どうぞ、これからもお楽しみに。




