二 「マーカー」
それから半年後、金朗の姿は隣町の模型店にあった。ブーメランが砕けたあの朝から、金朗は予備校に通うのをやめた。身の振り方に困った金朗は、とりあえずバイトは続けていた。金朗の両親は金朗に早く自宅から出ていくようにせっついた。仕方なく敷金だけ親に出してもらい、金朗は実家のある横浜市を離れ、横須賀の野比で生活するようになった。以前のバイトは伊勢佐木町のBOOKOFFだった。それも店舗を野比の佐原に映して貰い、店舗の雰囲気も大分変った。新生活! 一人の所帯! 大学生になることや予備校に再び通うことはもうとっくに諦めていた。この生活を始める以前、自宅で生活していたころ、金朗は両親の帰りが遅かったある日、たまらなく心配な気分になったことがある。二人はひょっとしたら事故に遭って死んでしまったんだろうか? とか、それを打ち消すために皿洗いをしたり、とか。家にいると、一切合切がそんな風なのだ。これに金朗は、「これはまずい」と思った。まるで犬だ。「この生活は大変なことはそりゃいくつかあるだろうが、少なくともあのころとは違って、犬じゃないんだ」そう考えると安心した。
金朗には「少なくともあの頃より俺は自立している」という自負があった――実際はさほどでもなかったが。しかしカヌーから、進学から逃げてしまったことが、どうしても、彼の人生に大きな影を差してしまっていた。あの時ああしていれば、こうしていれば、と彼はよく考えた。そしてそれはいい方へ彼を導きはしない。思索の結果は、やっぱりいつも、金朗に敗北感と挫折感を与えるだけだった。
軽率な判断、感情のままに動いたことが、彼の人生に大きなしこりを残したことに、金朗は気づいていない。おそらくそれに金朗が気づくためには、長い時間を要するはずだ。
模型店に向かったのは、彼の勤めるBOOKOFFで取り扱かわれる品が、ここに多かったこと、そしてそれを眺めていて、だんだん興味がわいてきたからだ。誰にも迷惑はかけないんだ、文句はないだろう、と金朗は思った。その模型店はこじんまりとした小さな店で、中に入ってみると意外にも人がいた。そこは、モデラ―同士のコミュニティの場になっている店だったからだ。
金朗は店に入ると、うつろな目で店内のプラモデルや塗料を眺めていった。先に入っていた客たちは一瞬金朗に目をやるが、すぐに自分たちの雑談に帰ってしまった。興味を失ったようだ。
面白くない店だ。ようやく金朗の心が動くと、彼はそう考える。俺がこの店になにか悪いことをしたっていうのか? わからない。それともプラモを買わないのが悪いのか? 金朗の動きが止まった。客は金朗を少し見た。何か盗みでもしたら、すぐ動いてやろうという構えかもしれない。
金朗は文具のようなマーカーを二本手にとると、それをもってレジに向かった。レジはすぐ目の前だった。レジの店員に「初めてですか?」と、親切に訊かれたが、金朗はそれを受け流してしまう。人と話す期間があまりに空きすぎていたためだ。それを買って、模型店を出た。このマーカーは何に使うんだ? なんで買ったんだ? と思った。この店にやって来たことを金朗は後悔した。どうやって来たかも思い出せない。
彼は言葉を欲していた。熱い言葉だ。以前には掛けてくれる人間が沢山いた言葉。迷惑にさえ感じていた言葉
――俺はこのままだと死んぢまう――貧血で倒れちまう! 俺は――死にたくない!
それは帰途あふれてきて、街路樹を一本へし折った。