砂選集1
『昼の底』
青い空は
どこまでも澄んで
私は泣き出しそうになる
深い 深い
水底にころがる
小石になったような気がする
『金色の朝』
目覚めて
カーテンを開け
夕べにまた引く
そんな束の間にすぎない
いのちの時間
けれども
今日の朝は美しかった
雨上がりの空が
金色に輝き
木々を渡る風は
微かに
そして清冽で
果実は枝に
たわわに熟し
鳥が高く
啼いていた
だったら
もういいじゃないかと思う
もう十分なはずなのだ
これ以上
他に何を望むべくもない
どこから来たのか
どこへ行くのか
どうしてここにいるのか
仕方のないことを考えて
怯えるのはやめよう
胸を開き
四肢を伸ばし
息を吸って
この美しい朝だけを
『木犀香』
硬い樹皮を破り
ふつふつと噴き出した
芳香に誘われ
漂いゆく 記憶の町
バスを待つ列に並び
後れ毛に散る 秋の陽の
憧れから目を逸らし
そこにある
一歩分の距離を
決して許されない
神聖な誓いででもあるかのように
頑なに守っていた
無為で透明な日々
二階家の
建て付けの悪い ガラス窓
心を持て余しながら 見送るのは
色を変えてゆく雲の群れ
名残の風鈴が 鳴っている
路地には 子どもが遊んでいる
ひとりの少女が 私を見つけ
両手を伸ばす
届かない言葉は
その唇の形
やがて
追憶ははじけ
幹のまわりに
赤茶けた輪を描く
そして いま
何事もなかったかのように
とても静かだ
『赤い木の実』
目を閉じた途端
瞼の闇に溶け
夜と混ざり
流れ出す
もしかしたら
私はもう死んでいて
思い出の日々を
遡っているのではないかと
思ったりする
あるいは
端から実体のない
誰かが書いた物語の中で
彷徨っているのではないかと
思ったりもする
眠りから覚めても
私はいるのだろうか
別の何かと入れ替わっては
いないだろうか
不安なまどろみの中を
ただ
ほろほろと
流れていく
ああ
昼間拾った小さな実
うつくしい赤い実を
枕元に置いておけばよかった
そうすれば
迷わずに
戻って来られたかもしれないのに
『冬至』
記憶が
人を苦しめる
なんであんなことを言ったのか
どうして気がつかなかったのか
後悔がこみ上げて
心を焼くんだ
確かにこの手にあったのに
もう二度と戻ってこない
幸福なほど思い出は
心を濡らすんだ
きっとそんなとこだろう
どうせろくなことはない
つまらない経験に縛られて
心がしぼむんだ
生きるほどに
人の時間は
だらしなく伸びていく
草臥れて薄汚れ
毛羽立って絡みつく
動けなくなるくらいなら
よく切れるはさみで
こま切れにして
すっかり脱ぎ捨てて
今日
太陽が生まれかわる朝
ぼくは
おはようと言おう
世界にありったけ
おはようと言おう
『帰りの電車』
帰りの電車は優しい
まばゆい車内には
滲み出した濃い倦怠が
ゆっくりと対流している
立っている人の頬は青ざめ
座っている人の目は虚ろ
吊革にぶら下がる人の
脂の浮いた額
あくびに飲み込まれまいとして
手すりにしがみつく人
いつの間にかできた背中のしわ
牡蠣の殻に似て
シャツはきっと右裾がはみ出す
縒れたスカートの危うささえ
どうでもよくなって
ただ斜めに磨り減った踵の
不安定なことばかり
気になっている
夜気を隔てる
銀色の窓に映るのは
どこか知らない人の顔
暗い目の奥に
流れる町の光
とにかく今日は終わったんだと
電車は
丁寧に駅を辿り
到着の度ドアを開け
溜息のようにそっと
人々を吐き出していく
皆様の帰るべき家が
そこにありますように
『解放の朝』
それはもう
二度と意味ある言葉を成すことはない
終わらない夢の詩の
一文字ずつの記憶を分けてやろう
私を形作っている
何億の細胞よ
枝々の
雪解の雫が輝く朝
あくせくした日常に
こわばった頬を
破ればいい
傷付くまいとして
頑なに縛り固める
自意識の
汚れた糸を断ち切って
振りほどいて
淡く 澄んだ 凍天へと
昇華せよ
憐れな桃色をして
震えながら
踊りながら
鈴のような声で
笑いながら
弱々しい
やわらかい
お前たちよ
昇ってゆけ
『アナタガ おに』
見ツケテ
雑誌に挿んでおいた花びら
風の中の海のにおい
冬の蝶の行く先
見ツケテ
空を映した水晶の砂粒
机の端の落書き
世界一たどたどしい文字の
見ツケテ
物語の続き
ひとひらだけ反対に流れていく雲
遠い国のあの子がつけたシャツのボタン
見ツケタ?
蜃気楼をめぐる帆船
えらくシュールな雪だるまが解けてできた水たまり
あきらめたはずの夢
……見ツケテ
きのう美しい人が図書館でめくっていた本
知らぬ間に折れてくっついた骨
ずっとここにいる僕
『雨の朝』
世の中に
置き去りにされたようなアパートで
私はまた
叫んでいたらしい
なにか
とてつもなく大切なものを
失くした
そんな夢を見たのだ
ぼんやりとした視界を掻いて
流し台へ向かう
振り返れば
胸を塞いでいた悲しみは
黒々とした闇の形で
寝台に張り付いたままだ
ああ それで
私は透けているのか
身体を起こしたとき
中身が
剥がれてしまったのだな
これはこれで身軽だが
咽が渇いて仕方ない
水道の水を含めば
それは
私という
存在の綻びから
ボタボタとこぼれ
床を濡らす
咽は
ひどく渇いているのに
もう二度と
満たされることはない
今日は雨
音もなく
冷たい雨が降る朝だ




