死神RRC1
~1 看取り施設の男~
男が目を開いたとき、その体は町の上空で浮遊していた。
心地よい確かな浮遊感を感じてはいたが、足元から伸びたヒモが地上へ延びているのを確認出来たので、男は半ばがっかりし、半ばホッとした。
これは本当の自分の身体ではなく、いわば第二の体ともいうべきモノのみが監獄にある自分の身体から抜け出ているだけなんだ、と瞬時に理解した。
それにしても、何と自由な事か。
上空から観る光景というのはあまりに非常識に満ちている。
眼下にある町は大きくはないが、自分を中心に町が湾曲して見え、宇宙をいっぺんに抱いたかのような心境だ。
道路に沿って並び、自由に曲がりくねって幾重にも交差する街灯の青白い光。
目線の先には漁港のオレンジの光だ。
駅の周辺と思われる場所では、ビルの起伏に沿って何かのライトが七色に光り、絶妙に散らばって見える。
どれも地上からなら数分で見飽きてしまうようなものだろうが、そこからの景色は男の日々の苦痛を一切忘れさせた。
男は囚われの身だ。
恐らく生きている間はずっとそのままで、今後も自由な意思表示すら許されないだろう。
例えば、償うべき罪があって手足を四六時中拘束されているのであれば、未来には解放されるという希望が持てそうなものだし、そもそも現代のこの国においてはそのような処遇の監獄は存在しないだろうから、罪を犯して本当の監獄に入っている方がまだマシかもしれないと日に何度も考えるほどに、男の状態は良いものではなかった。
男を拘束している監獄とは、男自身の肉体である。
男の手足を重く、動かないようにしているモノは手足そのものであり、男の声を塞いでいるモノは、その喉であり顎全体であった。
それでも、自分が完全に死んだのではないと思ってホッとしている自分を不思議に思う。
死とは、それほど絶対的で得体の知れないモノなのだ。
どうにか家族に、特に息子に助けを求めてもどうにもならなかった。
むしろその息子は、「今までご苦労様、何にも心配しなくていいからゆっくりしてくれ」だのと宣った。
50を過ぎた我が子ながら、つくづく失望させられた。
何も心配がない日々がどれほど苦痛か。
何も考えなくていい日々が、どれほど死についてを考えさせるか。
自分という存在が家族の中に無いという日々が、どれほど人間の内側を歪めてしまうか、50代の息子にはその辺りについての関心が無い。
寝ていれば楽なのだ、考える事は負担なのだと習慣的に思い込んでしまっているせいで、生きながらにすべてを失うという事態に危機感が巡らない。
想像力が働いていないのだ。
そういう息子が後々同じような子を育て、自分と同じ様に此処に閉じ込められるのだ。
呪いというほか無いように思う。
この連鎖こそが地獄と呼ばれるモノなのだ。
しかし、今現在の男にはその様な事で頭を患わせる事はない。
安らかな忘却を味わっていた。
体は腰の辺りで空間と"繋がっている"らしく、腰を支点としてクルクルと全方向に回転出来るのが楽しい。
しかし、男の体はフワフワと漂っているだけで何処へも自分の意思で移動する事は出来ずにいる。
男は何度か思念によって移動出来ないか試してみたが、どうも無理そうだと判断し、クルクル回るのを楽しんでいた。
そうして遊んでいると、突然聞き覚えのある声がした。
「お気に召しました?」
ビクッと体を強ばらせながら振り返った。
男は視界の中に、四つ足の生き物の影を捉えて身が凍る。
つい数秒前までは居なかった。
そいつは、柴犬の姿をしている。
と言うより、首輪もしている。
と言うより、男はその犬を知っている。
「チャキちゃん?……」
十三年前息子家族から貰った柴犬だった。
男のパートナーが事故で他界し、ひどく落ち込んでいる様子を見かねて自分にプレゼントしてきたのだ。
名前は、ほぼ孫娘が付けた。
男のパートナーであった山川 咲から取ったつもりで幼い孫娘が「チャキちゃん」と発音したのだ。
去年、そのチャキちゃんも短い天寿を全うした。
「でも声が……」
声は男の妻のモノだ。
だから男はてっきり妻と再会出来ると思ったので、チャキちゃん姿というミスマッチに少々混乱していた。
「……声が……」
唾を飲んでもう一度言った所で、ソイツは喋り出した。
「貴方の一番安心する姿でお会い出来ているハズです。」
男はビクッと体を強ばらせたが、恐怖は感じなかったので会話する事にした。
「チャキちゃんじゃないの?」
柴犬の四肢はしっかりと空中に立ち、無邪気な笑顔をこちらに寄越している。
しかし尾っぽは全く振れていない。
犬の口は動いていないが、意識に直接語りかけてくる。
「違います。でも怪しいものではありませんよ。」
男はきっぱり違いますと言われた事に少しショックを感じた。
妻の声を発し、愛犬そのものの外見を持つこの存在が、自分の知る者と違うとハッキリ言えば、それはもう全く異なる存在でしかない。
その上自分の愛する者の姿や声を真似ているこの存在を逆に不気味に感じた。
男はごく自然な逃走手段として、この夢から覚醒しようとした。
パッ!と一気に目を見開くといつもの見飽きた天井が視界に入り、バクバクと強く打つ自分の鼓動を感じながら安堵するところだが、そうはいかなかった。
目を見開いた時、そこは確かに病室ではあった。
つまり目覚めるという行為自体は成功したかのように思えたのだが、視界の中には先程と変わらずチャキちゃんが居た。
病室の暗闇の中、プロジェクターで投影された映像のようにくっきりと発色し、地面から一メートル程宙に浮かんだ状態であるが、地面に立っているような出で立ちで無邪気にこちらを見つめている。
相変わらず尻尾はピクリとも振れていない。
犬特有の荒い息遣いもない。
ただただ静止している。
瞼を閉じれば上空の景色の中で、目を開ければ病室の中という状況に男は夢ではないという確信を今更ながら得た。
来るべき時が来たか、などと思いながらそれでもこの状況から逃れようと瞼を開けたり閉じたりしているのを繰り返す内に、男は自分がパニックに陥りそうになっていく感覚を味わった。
唐突にではあるが、優しい口調でチャキちゃんが言う。
「落ち着いてください、やまかわ つねともさん。
私はリソース・リリース・サーキュレーターという循環プログラムです。遂に解放の時が訪れたのですよ。選択肢もあります。それらを提案に参りました。」
常朝は決定的なことを聞いた気がした。
これが覚悟というモノなのか、今度はその声に何故か落ち着いた。
いつかその時が来ると知っていたし、それは早い方が良いとすら思っていた。
準備はできていたはずなのだ。
苦しくなければ、良いのだ。
~1 看取り施設の男 終~