万事成り行きだったら良いのに
「春山先輩、これ、先輩のですよね?」
「うん」
彼は花柄の綺麗なハンカチを差し出す。
「ありがとう」
彼女は伏し目がちにそう言った。彼も少し遠慮がちに話している。
「その……春山先輩に謝らなくてはいけないことが……」
「ううん、いいの、私を無視したことだよね?分かってる」
「舞浜くんは、余計な噂を立てられるのが嫌いな人なんだよね?」
春山先輩は彼がまるで特殊なタイプの人間であるかのような言い方をした。
彼は「そんなの当たり前じゃないか」と内心思う。
「春山先輩は、嫌ではないんですか?仮にも校内では有名なんでしょうし」
「まあ、それでいいとも思ってないけど、別に嫌とは思わないかな」
彼女は彼から少しだけ目を逸らした。
「……巻き込まれることは、別に、ないし」
「はい?」
聞き取れなかったわけじゃない、理解ができなかったのだ。
「ううん、何でもないの、わざわざ届けてくれてありがとう」
「ほら、もう授業始まっちゃうでしょ」
「はい……失礼します」
心に引っかかる何かを抱えながら、彼は階段を下って自分の教室まで戻った。
その日帰宅した後、彼は春山先輩から連絡を受けた。
「活動場所が確保できたので明日集まりましょう。地学準備室です」
なるほど、新規申請の割には対応が早い。
それにしても地学準備室なんていうへんてこな場所になったのは、よくよく考えれば当然だが驚きだ。教室のある校舎とは別棟の理科棟にあるから、結構な距離がある。
ところで、理科準備室なんて、理科系の部活以外にあてがって問題ないのか、と一瞬思ったが、危なそうなのは化学と生物くらいで、地学なら比較的穏当な物が置いて有りそうだった。そもそもあまり置くものもないかもしれないが……
そういえば、他の会員の話が全く浮かび上がってこなかった。おそらくは、春山先輩の周囲の人を誘っているのだろうが、やっぱり活動目的が曖昧な以上、あまり人は集まらなさそうだ。いくら春山先輩が人気者らしいとはいえ、せいぜい一桁人が良いところだろう。
まあ愛好会の設立が認可されている以上、とりあえず最低限の人数集めくらいはできているのだろう。また女子の先輩何人かと喋らなければならない、と考えると、彼はなんだか嬉しいような気が滅入るような気がしたが、兎にも角にも明日にならないと分からないことなので、その日はゆっくり休むことにした。
明くる日の通学路。桜はもう大分散っていた。
彼は、道行く同じ高校の生徒達をそこらの名もなき人々と同列に捉えてきたわけだが、このところはその人達に話かけられることが多い。まあそれは彼と春山先輩との件で彼の知名度が上がりすぎたためだが。
そんなわけで、彼の行く通学路の光景は、また変わって見えた。良くも悪くも賑やかとなっていった。
彼は一周回って、もう春山先輩のお付き人キャラで売っていこうかなと思い始めていた。このキャラ文化の現代の高校生においては、早期にキャラを確立させることは周りからの人気を集めるのに非常に重要なこと。
別に彼は人気者になりたいわけではなかったが、あれこれ思い悩むよりもうそうした方が快適かもしれないと思い始めていた。
しかし同級生から春山先輩との関係を問われると、咄嗟に否定してしまうのもまた事実で、開き直れるほど強靭なメンタルを獲得できるのは一体いつになるのやら……と考えていた。
いっそのこと本当に恋人に……っといけない。
男子高校生は油断するとついこういうことが頭をよぎってしまうのだ。「冗談だよ、冗談」と自分に言い聞かせる。下手に美人なのがいけない。こうやって男を惑わせている点においては、美人とは罪なのかもしれない。尤も、当の本人にその気がないのならその言い分ははた迷惑な話だが。
さて、今日は初めての言霊愛好会の活動だったな、と思い出し、それまで授業も頑張りますか、と彼にしては珍しく気合を入れる。
そういえば仮にも推薦合格者なんだから当然しっかり勉強しないと駄目だよな……そう考えた彼は、つい数秒前に入れたやる気がどんどんしぼんでいく気がした。既にやる気のある人間に、義務感を強要するのはご法度である。
課業中はいつも通り退屈だった。本当にこんな調子で自分は大丈夫だろうか、と彼は思う。中学の頃は凡人ながらも真面目な生徒だった気がするのに。そう思った彼だったが、よくよく考えてみると、「あの頃勉強を真面目にやっていたのは他にやることがなかったからかもな」と思えてきた。
それでは今勉強の代わりにやっていることとは何だろうか?そう考えると、彼には彼女の存在しか浮かんでこなかった。
「これが恋なのかな……愛憎入り混じりたる」
彼は冗談めかして言った。本当は勉強にだってもっと真剣に取り組みたいという気持ちはあるのだ。だけど、そこに身が入らない自分への自虐を込めてそう言ったのだった。
それにしてもやっぱり彼の頭の中に浮かんでくるのは彼女の存在。もちろん恋云々というのは本当に冗談なのだが、やはり何かにつけても彼女と自分を比べてしまう。
勉強然り彼女はこの優秀な学校でも唯一無二の優等生であるわけだし、あれだけ知名度があるのだからおそらく人徳もあるものだろう。何にも欠点が無いのに「自分には本当に人の役に立つ力はない、ただ自分を飾っているだけ」なんてことを言う。
その思いが全くの嘘だとは彼も思っていない。むしろその思いに加担して愛好会に入ったわけだ。
しかし、彼女のことを完璧な人間としか見られない彼にとっては、どうしても無理やりこしらえた悩みにしか思えない節がある。
頭が良すぎるがゆえの考え過ぎ、はっきり見えない未来というものに対する心配癖、そんなものにどうしても見えてしまうのだ。確かに今すぐ人の役に立つ力がないにしても、それほどの才能に恵まれていて、時間もあるのだから、そこまで考えすぎることもないのに、と彼は思う。
確かに先の見えない将来は不安だろうけど、今の所は完璧に近い人生を歩んでいるのだから、当面はそれに甘んじたって良いじゃないか、と彼は思う。
悩みは、避けられないマイナスの才能を抱えた人間だけのものだと彼は思っている。
もちろん彼が今優等生になれないのが、世間一般から見てひどい水準のものとは彼も思っていないが、やはりあれだけの「完璧」を見てしまうと劣等感を感じてしまう。尤も、その問題も彼にとってそれほど深刻な悩みというわけでもないが。
では、本当に完璧でしかない彼女に、悩みなどというものがあり得るのか?もしかすると彼の方が言葉に関する才能はあるかもしれないが、そこまで他人に勝とうとするのはいささか負けず嫌いすぎる。そういう人間には見えない。
であるからして、彼女に悩みなどありえない。
……それは本当に彼女がイメージ通り完璧な人間であれば、の話だが。
放課後になり、彼は集合場所の地学準備室へと向かう。もしかすると新しいメンバーに初顔合わせ、となるかもしれないので、部屋に入る前に一応制服を整える。
彼が扉を開けると、そこにいたのは二人だった。
一人は当然春山先輩。さて、もう一人は誰だろうか。
「さあ、舞浜くんも来たね、これで言霊愛好会全員集合だよ!」
「……今なんとおっしゃいましたか、春山先輩?」
「なんとと言いますと?これでメンバーが全員揃ったと申し上げましたよ」
彼女は楽しそうに敬語を話している。これは彼の喋った固い敬語に冗談半分で呼応させているのだろう。彼女はよほど上機嫌そうだ。
「一応確認しますが、これは学校公認の愛好会ですよね」
「ええ、だから小さいながらも教室があてがわれているわけだけど」
「はぁ……」
メンバーはたったの三人。この団体を公認するとは、この学校の運営もいよいよ失敗である。
果たしてこの愛好会の行く末はどうなるのだろうか、と彼は切実に思った。