王道的手段
舞浜明は複雑だった。決して春山先輩が嫌いなわけではない。いや、あの手紙を読んでむしろ好ましい心構えの人だと思った。
しかし、彼を取り巻く事情は「春山先輩」と「舞浜くん」が一緒にいることを許してはくれないのだ。
彼はもうクラスで毎日のように春山先輩との関係を尋ねられた。偏差値に関わりなく女子高生はゴシップが好きなようで、もうそれに関する弁解をすることに彼はうんざりしていた。
彼が春山先輩と知り合った経緯だって、彼が単純に好奇心を持った(変な意味ではおそらくない)という一般には理解を得がたいものであり、そこから話をする機会を持ったのも、彼女の気まぐれなり言霊愛好会の話なりといった、説明に窮するものであった。
ということで、クラスメイトから春山先輩との関係性について尋ねられる度、彼はしどろもどろの返答しか出来ず、疑惑は疑惑を呼ぶ状態となるのだった。疑わしきは罰せずの原則を、こういう日常にもどうか適応してくれないか、と司法なり行政なりに祈り続ける日常が続いた。
それで彼は彼女と直接会うことを避けていたのだ。一方の彼女の方は彼と会って変な噂が立つのを一向に気にしていないようだった。
仮にも万事完璧の美少女としてこの学校の首席として君臨している以上は、曲がりなりにもおのがブランディングのようなものが存在しそうなものであるが、どうもそういったためらいの様子が見られないのである。
まあ愛好会関連の事務的な連絡事項は文面上でもなんとかなるし、確かに現状これで間に合っているのだが、変な噂を特に気にも留めていない彼女にとっては、自分が彼に一方的に避けられているのが不満であったのだ。
ある日の昼休み、彼は校舎裏の広場に行った。中央の噴水を象徴とするこの広場は、休み時間になるとそれなりの数の生徒が訪れる憩いの場であった。
彼もまた、心無い噂話で疲れ切った心を晴らすためにここに来たのであった。過熱したゴシップを持ち込むには、この広場の雰囲気は落ち着きすぎているからだ。
広場の奥の方の、花壇が並んでいる方向へ彼は向かおうとした。
そこで彼は一人の女性とすれ違った。その女性の姿を確認する義務もない彼にとっては、匿名の通行人の一人に過ぎなかった。それよりも周りに広がる美しい光景の方が精神衛生上重要であった。
しかしその女性とは、実は紛れもない春山先輩だった。
彼は噂がひどくなり始めた頃から、彼女に冷たい態度をとり、場合によってはすれ違っても無視を決め込むことさえあった。彼もそうしなければならないほどには精神的に疲弊していた。
しかし例の手紙の件でお互いの思いの丈をぶつけ合った直後にあって、このような冷たい応対をされることは彼女の不満を増幅させるのに充分であった。
賢い彼女は、次に自分が彼に無視を決め込まれることを予測に入れて、彼の気を引くためのある秘策を用意していた。
彼女は広場で、向こう側から歩いてくる彼の姿を認めると、速やかにこれから使うかもしれない小道具を取り出した。花柄の綺麗なハンカチだった。
そして彼と反対方向に歩いて接近する。彼は周りの景色に気を取られているようだ。
この時ばかりは彼は彼女を無視しようという意図を持って彼女を無視したわけではなかったが、彼女にとっては無視は無視。作戦を決行するに至った。
彼女は彼と向こう数メートルの距離まで接近すると、ハンカチをわざと落とした。それもリリース位置を彼の側に調整して大変わざとらしく。まさしく古典的手法の焼き増しであった。
するとあろうことか、彼は景色に気を取られて気付かない。これだけ仰々しく注意を引いているのに、気にも留めていない。彼女からしてみれば、これは徹底的な無視としか思えなかった。実際のところ彼は本当に気付いていなかったのだが。
流石の彼女もこれには怒った。ハンカチを石畳の地面に取り残したまま数歩歩き、なお彼からの反応がないのをしかと確認すると、
「ちょっと、舞浜くん!?それはひどくない!?」
振り返って、結構大きな声で彼女は言った。いる生徒の人数の割に静かな場所だったので、この声は響いて多くの人に聞かれた。
流石に公衆の面前で自分の名を大声で呼ばれたら、それを無視することなど彼にはできない。彼も振り返ると、そこにはしばらく無視を決めていた、問題の大本である彼女の姿があった。
「あ、春山先輩」
「あ、じゃないでしょ、これだけ分かりやすく呼び止めているのにどうして気付かないフリができるの?」
彼は首を傾げた。なぜならすれ違った時に彼は彼女の姿を確認しなかったし、さらには今現在に至ってもハンカチの存在にも気が付いていないからだ。
「いや、無視したつもりはないんですが……」
「ぜったい無視した!!最近ずっとそうでしょ」
周りの人間が騒つく。
「ついに喧嘩か!?」と。
「確かに最近無視してたのは本当に申し訳ないと思いますけど……あれは仕方がなく……」
「もう知らない!!」
彼女はハンカチそっちのけで小走りで校舎へと帰っていった。本当に意図してハンカチを放置したわけではなく、怒りの余り忘れていたのだった。
「あっ、ちょっと」
彼は走り去る彼女を見守ることしかできなかった。
周りの人々がひそひそ話を続ける中、彼は呆然とすることしかできなかった。
ふと足元を見た彼は、そこにハンカチが落ちていることに気付いた。
作戦は思わぬところで成功していたのだった。
彼に、上級生の教室までわざわざ赴かねばならない自体が生じたのは以上の経緯である。その日のうちに返すのはまだ機嫌が直っていなそうだから気が引け、この用事は次の日に後回しされた。
確かに、一度連絡を入れて教室まで取りに来てくださいと言っておく手段はあったが、クラスメイトにその姿を入れて目撃されたらたまったものではない。密会のための場所なども思いつかないので、彼自身が上級生の教室へ直接向かうのが最も被害の少ないやり方だった。
彼女は噂話をさほど気にしていない様子なので、上級生に見られる分には大したことではないだろう。彼はもちろん同級生だろうが上級生だろうがこうした噂話をされるのは嫌であるのだが。
朝一番は会えるかどうか分からないので、最初の休み時間に届けることにした。彼女の教室は二階にある。階段を上ると、普段見慣れた一階の一年生の廊下とは違う雰囲気を感じた。
実は彼は彼女の口から直接、どこのクラスかを聞いたことはなかったが、図らずも噂話で散々耳にしていた。
その教室の前まで行くと、多くの生徒が既に着席している。休み時間もそれほど長くはないからだろう。下級生が勝手に入れる雰囲気ではなかった。
これが昼休みとかなら人の流れも多く、話は変わってくるのだが、あいにくこの場所から彼女を呼ばなければならない。彼は遠慮がちに彼女の席を探った。窓側の一番後ろの席だった。
少しためらったが、あまり時間もないので意を決して扉を通った先輩の男子に取次ぎを頼んだ。その男子生徒は少し怪訝そうな表情をしたが、すぐに親切そうな声で了承した。
その男子生徒は彼女に話しかけるのに少し戸惑っているようだった。確かに彼女は一人窓際で黄昏れていて、話しかけやすい雰囲気ではない。だがそれ以上に、この教室においては彼女が纏う不思議なオーラが増幅されているように思えた。
ようやくその男子生徒が彼女に声をかけ、彼女は恭しく礼をして席から立ち上がった。一見すれば物腰柔らかな少女だった。
少し歩くと彼女は彼の姿を見つけた。
彼女は、喜びと不満の入り混じったような、不思議な表情を浮かべた。