ラブレターのようなもの
「本気で言ってます?」
「本気、本気と書いてマジと読む!」
「はぁ……」
「なんでため息つくの!?」
「いや、こっちの話です」
さてどう切り抜けようか。完全に油断しきっていた。だいたいこんな美人がこんな平凡な男に寄ってくるはずもない。なんて古典的な罠に引っかかってしまったんだ。
欺瞞、失望、追撃、撃沈、消沈、落胆、絶望、解約、退居、退学。
華の高校生活ももうこの日で終わりか……
「ねえ、聞いてる?」
「は、はい」
迂闊な態度をとってはいけない、と彼は気を引き締めた。相手のバックに何がいるのかは分からない。とにかく機嫌を損ねないようにだけは気を付けなければ。
「本当?」
「ひぇ、はい!!」
「それで、この愛好会の活動なんだけど……」
「え、ええ」
「なんというか、うまく表現できないし具体的に決まってもいないんだけど……」
「はい」
「言葉を届けること……かな」
これはもう限りなく黒に近いグレーだろう。怪しげな名前にはっきりしない活動目標。バックにいる人物も謎。
「ええ、大変に興味深いことなのですが、僕自身も一度深く考えたくて……あっ急用を思い出したので今日のところはこれで失礼します!ではまた!」
彼は尻尾を巻いて逃げることにした。
春山言葉の熱意は、残念ながら届くことなく、歯車はいまだ噛み合うことがない。
「考えろ、舞浜明……稼げる時間はごくわずか……一体僕に何ができるんだ?」
「あの怪しい団体から完全に関係を断つためには、どうすれば……?」
「駄目だ、今は春山言葉の機嫌を損ねないことくらいしか対処を見いだせない……」
彼は今度の着信に怯えながら、眠れない夜を過ごした。
寝不足のままやっとのことでたどり着いた学校、教室の時計を見ると時刻は遅刻ギリギリだった。もうクラスの人はほとんど出揃っており、朝の情報交換に弾みがついていた。
そんなくだらない情報など当然倒れかけの彼の耳には聞こえず、朝一番から机の上に突っ伏してしたわけだが、気になるワードに偶然にも意識が向いた。
「入学式でスピーチしてた先輩がさ……」
「うお、あの美人の先輩……」
彼ははっと起き上がって身震いした。そしてその生徒たちの声がする方へ耳を傾けずにはいられなかった。
「やっぱり首席で合格した人らしいぜ。編入試験は2、3年共通の問題らしいけど、2年にしてトップの成績だったんだと」
「あの美人が、この学校のトップだなんて、ますます雲の上の人だなあ……」
「憧れるぜ……」
――なんだと……そもそもどうして僕はそんな当たり前のことにも気付かなかったんだ……完全に計略に嵌められた!悪女、傾城、美人局!
地方出身凡人は大人しく自分の頭脳に甘んじて、慎重に慎重を重ねて行動すべきだったんだと後悔した。彼にとってはもう学校生活は終ったも同然。
彼が思い浮かべる将来は洗脳の末路でしかない。
もう授業は進学校らしくハイペースで進んでいる。けれども彼は上の空だった。
「いや、まだ住所は知られてないはずだから携帯解約すればセーフ?」
「もしや下校中尾行されてたりはしないか……?」
などと、とにかく懸案事項を思い浮かべてやまなかった。
昼休みになった。彼は脱力して机に再び突っ伏した。ワーキングメモリーは春山先輩でいっぱいになっていて、授業をまともに聞いているわけでもないのに精神疲労が溜まっていく。いよいよ怪しい宗教に勧誘されるのにうってつけの精神状態である。
そこに畳み掛けるように例の彼女の情報が耳に再び入る。
「あの入学式で挨拶してた美人の先輩、首席なんだってよ」
「ええ~私も一度でいいからあのくらい綺麗になってみたい」
「あの美人の春山先輩は……」
「あの春山先輩と懇意に話してる男がいるらしいぜ?信じられるか?」
――どいつもこいつも春山先輩の話ばっかりで周りが見えてない。こんな奴が怪しい勧誘に引っかかって……ってさっき言ってた男って僕のことだよな?ああ、僕は騙された……なんて愚かなんだ……
もう彼の精神は限界で錯乱状態である。本当に入学早々に学園ライフを幕閉じして地元へ帰る勢いだ。
ああ、もう春山先輩のことしか考えられない。
一度世界の終焉でも目の当たりにしたかのような顔で彼は下校する。
もう救いは入信にしかないのだ、彼は深刻に思った。神様でも仏様でも、なんでもいいから自分のもとに来てくれと思った。かつての無神論者の姿は、見るも無残なものだった。
地獄の夜が開けた先もまた地獄だった。
Dデイはいつ来るのやら、もういっそのことさっさと来て早く楽にしてほしい、と彼は思った。そう、自分を超え、人知をも超えた、未知の世界に、言霊愛好会に、僕も踏み出すしかないんだ。春山先輩、背中を押してくれ。そんなことを再三心の中で唱えながら鬼の形相で朝の通学路を練り歩く。
色あせた桜舞う通学路に、作り笑顔が不気味な女子高生、永遠伸びる退廃的な舗装道路が彼には見えていた。認識のハイジャックは視覚にも及んだ。
退廃的な高校の敷地に入り、退廃的な昇降口をくぐり、退廃的なロッカーを開け、退廃的な上靴を取り出そうとすると、退廃的なピンク色のハートをかたどった便箋がひらり。
いつもと変わらない退廃的な日常。日常……?
彼は落ちた便箋を拾って、数十秒間じっと眺めた。
これは有り体に言うところの退廃的な……
「ラブレター!?」
「っと、いけない、聞かれちゃいけないいけない」
「なになに……」
彼の視覚には、正常な色覚が戻り、周りの景色はいつもどおりの着色をされた。そして便箋の中身を取り出して読んだ。
取り出した後で、もしかしたら宛名が間違えていないかと思って便箋を何度もひっくり返しながら確認したが、たしかに「舞浜明くんへ」とある。
彼は中身を確認せずにはいられなかった。手紙は二枚にわたっている。
この間は突然変なお願いをしてしまって、ごめんなさい。
実を言うとやっぱりあんな名前をつけるのは本当にこっ恥ずかしいことで、ましてやそれを舞浜くんへ開示するなんて、途方もなく羞恥を増幅させることでした。そのせいか、なんだか独りよがりなことしか話せず、戸惑わせてしまったと思います。本当にごめんなさい。
でも、あの名前には本当はきちんとした意味があるんです。
私は、幼少の頃より「良い子」として振る舞い、扱われてきました。それは確かに虚構などではなく、本当の私の性格に見合った行いでした。
私の親は本当に私を可愛がって育ててくれた。それでいて甘やかさず、私を『ふさわしい』人間へと成長させてくれました。今でも感謝し切れません。
親でなくとも、周囲の人たちは私のことを決して悪く扱わなかったし、実際に私は今までの人生を、さしたる挫折もなく送ることができました。私は、のびのびと学生に相応しい振る舞いを身につけることができました。自分で言うのは憚られることですが、私はどちらかといえば成績が良い学生のうちに入ると思います。
でも、いや、だからこそ分かりませんでした。果たして、私には何ができるのだろうか?どんな風に人の役に立てるのか?ひょっとすると、私は自分を良く見せることにしか能がないのだろうか……?と。
そんな時出会ったのが舞浜くんでした。舞浜くんのスピーチは、決して人に聞き流されてしまうような儀礼だとか自己満足のようなものではなく、本当に人を動かすものでした。
私も人前に立って話す機会は今までの人生でも多くありました。でも、あんなふうに聞いている人の心に踏み込んでいけるような話は絶対にできなかった。
だから思ったのです。私も、こんな人間になりたいと。本当に人の心を動かせる人間になりたい、と。
あの演説は私にとっては「言霊」でした。ただの表面上の字面を追いかけているだけでは決してその本当の言葉の力は分からない。でも、心を空っぽにして体の奥底からその言葉に傾倒していく、そうすると感じるんです。舞浜くんの言葉の、本当のパワーを。
上に「傾倒していく」と書きましたが、本当は「嫌でも傾倒されられる」と言った方が正しいかもしれません。それほどまでに、人を引きつける力を、舞浜くんは持っているのです。
彼はハッとさせられたような気がした。湧き上がってくる色々な感情を抱えながら、二枚目をめくった。