心乱すもの
舞浜明は振り向く春山言葉の姿に目を奪われた。
彼女は、「一体何の話をされるのだろう」と、期待の入り混じった潤いある目で彼を見つめる。
彼は動揺した。
よく考えてみれば、衝動に任せて話しかけてみたのはいいものの、「なんでしょうか」と聞かれて返す言葉が彼にはなかった。
聞きたいことはそう簡単に言葉に表せるものじゃない。
「その美しさの秘訣は?」違う。美容品の広告か。
「どうしてそんなにきれいなんですか?」新手のナンパだろうか、にしても質が低い。
「どうして普通の人なんですか?」変人であって然るべきだとでも伝えたいのか。
そもそも初対面でそんな話はしないし、親密だったとしてもそんな意味の分からないことは聞かないだろう。
つまり彼は返答に窮している。
「あの、ええと……素敵な挨拶でしたね……」
「え、ありがとう、あなたが言うことではない気がするけれど……」
彼女も突然の彼の発破に戸惑っている。
「どんなところが良かった……ですか?」
……人は時に話を深掘りされたくないこともある。今がまさしくその時だった。だいたいただでさえ無理やりひねり出した話を広げられてはたまらない。
しかし、彼女の話ぶりに彼が魅力を感じたことは、社交辞令などではなく紛れもない事実であった。確かに彼はその自由さ、奔放さ、純粋さに惹かれた。
でもそれを初対面の相手に口にするのはどうか。
「〇〇ちゃんって天然だよね~」に近いこうした事柄を述べ立てることは、場合によっては地雷になりかねない――
そ、それでは。
「時候の挨拶が素敵でした」
彼の演説の素晴らしさを考えれば、これは嫌味という他ないだろう。
「時候の挨拶って、あれは決まった定型を真似してるだけだよ……」
「で、でも桜もいい感じに満開ですし、この講堂からも良く見えて……」
「ふふっ」
彼女は控えめにこらえながら笑った。
「面白い人ですね、あなたは」
彼は救われた。当の演説で獲得した「変人」という免罪符が生きたのである。
「でもおだてても何も出ませんよ、現にあなたのスピーチの方が数百倍素敵ですから」
「そう言っていただけると、光栄です」
ぎこちない距離感の中で、二人は幾分普通の会話を交わしているようだった。
退場する生徒のほとんどはこの二人に熱い視線を浴びせていた。彼らは気付く余地もなかったが。
彼らはようやく生徒のほとんどがもう退場していることに気付き、その場を後にした。この後もホームルームがある。
「また会いましょうね、舞浜さん」
年上の女性に「さん」と呼ばれるのはむず痒い。
「呼び捨てでいいですよ、後輩ですし」
「じゃ、じゃあ、明?」
彼は思わず吹き出しそうになった。いや、これは何かが違う。「舞浜さん」の方がまだ違和感もない。
「うーん、舞浜ァ?」
ちょっと怖いトーンになっているのが顔とミスマッチだ。やっぱり呼び捨てだなんて言ったのが愚かでし
た。すみません。
「やっぱりやめにしませんか?」
「あ、意外と気に入ってたけど、駄目だった?」
気に入られたのか……?
「あと、私は春山言葉。ってもう知ってたんだっけ」
「言葉って読んでもいいよ?」
「謹んでご遠慮させていただきます」
「ふふっ」
この人には、なんだかこれからも振り回されそうな気がした。
彼は、ホームルームでの新しいクラス担任の話やら自己紹介を聞き流しながら、自分の犯した失策を反省していた。
「しまった……連絡先を聞いておくべきだったんじゃ……」
そう、そもそもこの校内はやたらと広いし、生徒の数も多いから、次にいつ会えるかも分からない。そもそも先輩が何年生かも知らない。さっきの挨拶でも学年を言ってたような気がしないでもないが思い出せない。だいたい女性と知り合ったらまず連絡先を交換すべき……と中学の同級生も言っていた。
と、ここまで彼は考えたわけだが、そもそも彼は一つ重大な事実を見落としている。
どうして春山先輩と会う必要があるのか?まあその理由は仮に先程のような美しさの不可言及性なり、普通の人のような振る舞いの謎であると仮定して、何を口実にして彼女と会うことができるのだろうか?
いわば、彼は、自分の外側にある何者かに操られて、彼女との出会いをセッティングされているようにも見えるのである。
なぜなら、美しい人間に畏怖を感じて追ってしまおうとするのは、普通の人間の持つところの感情ではないからだ。それは運命というべきものなのかもしれない。
次の日。少しだけ慣れた桜並木を歩き、校舎へと向かう。午前の授業は事務的なことなりオリエンテーションなりですぐに終わった。昼休みになったので、彼は食堂へ行くことにした。
多少は話せる友達も出来たのだか、今回は敢えて一人で行ってみることにした。その方が冒険心は掻き立てられる。
初見で「これは食堂に似つかわしくない」と思って見限った建物がやはり食堂だった。この学校の施設の広大さはいつも予想を上回ってくる。
この室内だけでも充分なキャパだと思ったのだが、どうやらテラス部分もあるらしく、相当広いスペースが確保されていた。せっかくなので、テラス部分に行ってみることにした。
受付の様子を見る限りは相当に混んでいそうな雰囲気だったが、キャパがあまりに大きいため、意外にも座る場所には余裕がある。これはありがたい限りだ。きっと普通の高校の食堂なら平気で満席となる人数だろう。
一人座ってキャンパス内の景色を眺めながら食事を取る。桜なり新緑なり池なりが一度に目に入ってくる。集中力地獄に囚われた学生にとってはオアシスだろう。
時間がゆっくりと流れる。そう、昨日までは生き急ぎすぎていたのだ。昨日どころか中学の頃から、やれ自分の能力だの、やれ突然の推薦入試のオファーだのがあり、高校にやっと入学したかと思えば不思議な先輩に出会い。
元来彼は大人しい人間なのだ。自分の能力を人前で堂々見せつけたり、突然舞い込んだチャンスに猪突猛進したり、他の人間に心を揺さぶられるようなタイプではない。
穏やかだ……極楽だ……彼は心の底からそう思っていた。
食堂の喧騒さえ彼の意識から遠ざかる。ここは一人の世界、邪魔が入ることもなく……
「あれ、舞浜くん」
「へっ?」
彼が素で声を上げる。彼の意識の分散具合からして、多少近くで話をする人間がいてももはや気にしそうにもなかったが、しかし自分の名前を呼ばれるとどうも本能で反応してしまうようだ。
「あっ、春山先輩」
彼はいつの間にか自分の正面に立っていた先輩の姿に気付く。
どうやら二人称は「舞浜くん」「春山先輩」に落ち着いたようだ。これでもう二人の関係に違和感はない。
やたらと周りから視線を浴びる以外は。
そう、なんといってもこの先輩、あまりにも美少女。周りからの注目を集めること必至の存在。彼の平穏などこの圧倒的力の前には為す術なく崩れ去ってしまうのだ。
「相席いいかな?」
「えっ……」
いや、隣のテーブルが空いてございますよ、お嬢様。
「は、はい……」
NOというのもあまりに勇気のいる行動である。先輩の誘いを受ける男、先輩の誘いを断る男、どちらにしても、周りに与えるインパクトが大きすぎる。
彼に平穏の境地など許されなかった。
流れる沈黙、周りの視線。
流石によく分からないムードで相席している二人を見て、明け透けにその様子を覗こうとする生徒はいなくなったようだが、依然として常に誰かしらには盗み見されている。
あまりの気まずさに、彼は口を開かずにはいられなかった。
「あの、失礼ですが……」
「どうして僕なんかに?」
「僕なんかに付きまとうの」というのが省略前の文だろうか。彼の本心は満更でもないようだが、同時に平穏を乱されているのもまた事実である。
「だって……」
彼女は頬を赤らめながら言う。周りの視線に気圧されて、少し声のトーンを落としているのだが、発声していることくらいは周りも当然感付き、刺さる目線も増える。
「好きなんだもん……」
春風が、暖かな春風が、二人の間に吹き付けた。桜の花びらが舞った。
「お喋りが、好きなんだもん……」
「お願いですから後輩で遊ぶのはやめてください、いやマジで」
彼の寿命も今ので幾許か縮まったことだろう。生物の一生の間の心拍数は決まっているというし。
しかしおぞましい事実をここで一つ指摘しておかなければならない。
彼女は入学式で在校生代表(正しくは編入生代表だが)として挨拶をした。そして編入の生徒は全員が学力試験によって選抜されている。
もちろん舞浜のような特殊ケースもあり得る。だが、一般的に入学式で代表をして挨拶を行うのは、どのような生徒だろうか……?
それは本当にいいのか、このおてんば娘で。