想いの形、告白
彼女の体の中で、さざめきが広がった。
ある種霊的で、それでいてかつ肉体的な強い感触。
何かが始まる予感、いや、それは確信だった。
「僕は、一度は言葉先輩の持つ力に惹かれました」
幾分か時間が経った後に彼は初めて口を開いた。
「自分とは違う世界。まるで他人とは異質な世界に住んでいるかの如き、言葉先輩の雰囲気に惹かれました」
「惹かれた」という言葉はまだ重みを持たない。
「一度湧いた興味はどんどんと増幅していき、一度近くにきた言葉先輩にはますます手を伸ばしたくなりました」
「それでも、僕は言葉先輩を理解するのに苦戦した」
彼はここで口を噤んだ。何かを伝えるようとするのではなく、何かを思い出すようにして煩悶した。
「結局のところ、あれは自分の問題だったのかもしれません。自分自身に対する不信に勝手に自分が陥っていて、それで言葉先輩をも遠ざけようとしていただけなのかもしれません」
彼女の目には、視界の中で彼だけが動いていて、生きているように見える。
美しい景色も予測不能な自然も人間の営みも、彼女の目には映らない。
彼は主人公だった。今だけは、彼が世界の中心だった。
「その問題は解決したと思います。そして僕は、ほんの少しだけれども、言葉先輩の方へ歩み寄ることができたんだと思います」
「でも」
風は彼の言葉を脚色するかのように吹く。
全ての力はやがては主人公へと集約されていき、彼は圧倒的な力を持つ。
「それでは足りないんだ」
迷いを振り切るかのように、彼は力強く断言する。
彼の内に高鳴る鼓動は、今この瞬間は彼の外にあるものにさえ感じられる。
それは確かに存在している。でも、彼の内にはそれにも左右されない、強い決意が同時に芽生えている。
彼はじっと彼女の目を見つめる。そこに恥がないと言えば嘘になる。でも、その恥を肯定することもまた一つの勇気なのだとしたら……?
彼は勇者の顔つきだった。
彼女が見てきた「天才」としての彼は、今絶大な臨場感でもって彼女の前に現前している。
言葉一つ一つが力強く、場を効果的に操り、なおかつ真摯な表情は絶対的な力でもって彼女へ訴えかけける。
「僕はもっと理解したい。たとえそれが不可能であってとしても、言葉先輩の全てを理解したい。言葉先輩の、一番の人間になりたい!」
「いや、そうせずにはいられない、言葉先輩は圧倒的な力で僕に語りかけてくる!」
彼は口の中に残った息を鋭く吐く。
少しだけ穏やかなトーンに戻って言った。
「好きです、言葉先輩、ずっと側にいさせてください」
「この世で最も漠然としたものは、幻想としてしか姿を現すことがなく、しかしながら内心には確固たる根を下ろしています!」
「だからそれを恋と言うか、愛と言うかは僕には分かりません、それでも唯一言えるのは、いかなる時であれ言葉先輩という存在が僕の意識の中から消えることがないということです!」
彼は、ついにその力を彼女に向けた。
止まっていた時計の針が、動き出す。いや、そんな生ぬるいものではないのかもしれない。
時計の針は、今にも折れ曲がりそうなくらいの勢いで引っ張られる。
抑えていた気持ち、抑えなければならなかった気持ち、不自然というレッテル。
そんな霧をすべて払い去ったのが彼の言葉だった。
背の低い草は風に揺られて、見えないものを見える形に媒介している。
彼女の心の中でも、どこにあるかも分からない気持ちが鼓動となって現前していた。
変わってしまったのは舞浜明の心、春山言葉の心、そして二人を包み込んでいた何か。
運命というものがあるとしたら、それは二人を一度引きつけた。
しかし二人はそれを破った。新しい関係へと踏み出すために。
「……私で良ければ……」
彼は息を呑む。短い彼女の言葉にはまだ満足がいかない。もっと、具体的な答えを彼は要求している。口には出さずとも、真剣な表情が物語っている。
こうして漂っている雰囲気から、彼女は自分にもっと言うべき台詞があるのだと感じ取った。
外から見ればこの無言のやり取りの時間は途方もなく長かった。しかし彼らにとっては一瞬のようなものだった。
「……一緒にいましょう、できる限り、ずっと」
精一杯の勇気で彼女は口にする。それでも、何か足りないような気がした。彼女は彼の表情を再び伺う前に、自分でこう付け加えた。
「有り体に言えば、その、恋人に、なりましょう……」
自分の募る思いには、明確な形を与えなければいけない気がしたから。彼女ははっきりと「恋人」と言った。
彼は何か言いかけた。
また力強い言葉が、飛び出してくるのだろうと彼女は咄嗟に思った。
刹那、優しい摩擦音が二人の間に響いた。
「えっ?」
彼は、彼女の手を掴んでいた。
本能的に心拍を高ぶらせて、半ばのけぞるような形の彼女に、彼は目を合わせる。
彼女は真っ直ぐな彼の瞳に吸い込まれそうになる。恐ろしく、愛らしく、真剣で、美しい。
丘陵の石畳になっている広場の上で、彼はひざまずいた。
「ど、どうしたの?」
先程までとは違う衝撃を感じながら、彼女は彼を見下ろす。
握られた手のぬくもりが、さらにこもって増幅していくのを感じる。
彼が図っていたことなのかは分からない。
それでも、春山言葉は、今この瞬間、世界の中心のようだった。
二人以外は誰もいない広場の中、一人だけ立っている彼女。
コンパクトに、しかし強烈に広がる街のビル群。
それでいながらさほど遠くない場所に見える山々は、彼女を祝福しているかのようだ。
ひざまずく彼は、祝福される彼女のお膳立てをしているようだ。
(いわゆるお姫様、ってやつ?)
こういうものに疎かった彼女は、心の中でこっそりそんなことを思った。
恥という堰がその言葉を彼女の心の中に留め置いている。
「ありがとう、ありがとう、言葉先輩」
いつもの敬語も忘れて、ひざまずいた彼は言う。無意識の内に彼女の手に伏せた額を寄せながら。無意識の内に彼女の体温に近付こうとしながら。
伏せているせいで彼の顔が見えなくなっていた。
「な、何もそんなことまでしなくても、わ、私はそう言ってくれるだけで十分嬉しいよ?」
お姫様扱いを受けているのかと勘違いしている彼女はそう言う。
「いえ、違うんです。僕は―――こんなみっともない顔を言葉先輩に見せたくないから」
彼の声音は明るかった。だから泣いているわけではなかった。
「真剣な表情をしないといけないのに、顔がどうしても綻んでしまうんです。言葉を伝えるためには、真剣な表情で相手に緊張感を与えなくちゃいけないのに、それがどうしてもできないんです」
彼の言葉を最も支えているのは、彼の作り出す場の雰囲気。その支柱はこのふわふわとした空気の漂う空間に酔って、ぐらついていた。
その言葉を聞いて、彼女も元々綻んでいた顔をより綻ばせた。そして少しだけ自分の勘違いに照れた。
「なんだかごめんなさい、もうちょっと格好良く、やれたら良かったんですけど」
本当に申し訳なさそうに彼は言う。
「いえいえ、そんなことはありません」
謝られるとその人を引き上げたくなるのが人の性、それを鷹揚に実行するのは人の器量。
だから彼女は「先輩らしく」言った。
「今だって素敵な雰囲気だよ、私はとっても感動してる」
「どうして?」
彼は冷たい声音で訊く。
「どうしてって……」
彼女は視線を少しだけ逸らして、自分の思考に意識をやる。
すると突然、彼女に電流が流れた。
「お姫様みたいで?」
反射。言ってはいけない、言うべきではない、そんな意図などお構いなしに、自然と飛び出してしまう言葉。
「プッ」
彼は次第に体を震わせていった。
「ご、ごめんなさい」
彼は震え声で言う。
そして彼は手を放して立ち上がった。
笑いを堪らえようとしているが、しきれていない。
彼女は自分が言った言葉を悔いている。しばらく悔いた後に、伏せがちながらコミカルな表情をしている彼を見て思わずこう言った。
「そ、その、何か面白いことでもあった?」
火に油とはこのことだった。
その瞬間、彼は爆発した。
「はははははは、そ、そんな、お姫様だって」
「ちょっ、ちょっと、そんなに笑うことないでしょ?」
先輩が後輩にからかわれている。そんな客観的な立場を思い出して彼女は抗議の声をあげる。
「僕なんかで良ければ、いくらでもお姫様扱いしますよ、言葉先輩」
一人は頬を赤く染めた。そして沈黙が流れた。
しばらくしてもう一人も同じようになった。




