予感、直感、そして実感
思わず漏れ出た舞浜明の本心と、それに呼応した春山言葉の本心。
それは偶然の産物であり、また必然だった。
言葉にせずとも既に肌で感じている「結論」。
しかしそこへ踏み出すには、あと一歩の勇気が足りない……
「はははは、なんだか照れくさいですね」
毒にも薬にもならない言葉を彼は返した。笑う彼の目は、もっと遠く、そしてもっと大事な場所に向いていた。
彼は踏み出す勇気が湧かず、彼女には彼の本心が分からない。
もう一歩で届きそうな気がするのに、手を伸ばしても届かないもどかしさ。
先の見えない闇へと一歩を踏み出さなかけば、それが分かることはないのだろうか。
頭上に伸びる電車の高架がカーブに差し掛かり、二人の雰囲気も手詰まりになった所で、彼は言った。
「あっ、そうだ」
「ちょっと付き合ってもらえませんか?」
「え?」
彼女の頭の中には一瞬違うイメージがちらつく。それを理性で取り払うと、彼女はこれから何が起こるのか疑問に思いながらうなずいた。
「うん、私なんかでよければ」
――どうして「私なんかでよければ」なの?
彼の視線の先には、あの高台があった。
「この高台が僕のお気に入りの場所なんです」
……「お気に入り」なんて彼は言ってみるものの、実際に行っていたのは煩悶の精算のようなもの。場所自体が好きなことに間違いはないが、そこで行われた煩悶に目を瞑るのは、ひょっとしたら少し美化が過ぎるのか。
あの高台に上ったときに感じたもどかしさ。いまだ終わっていない、いやむしろ現在進行形で進んでいる精算。
完璧なはずの自分の世界の中に欠けているたった一つのパーツ。
彼はまさに今、それをはめ込もうとしていた。
「付いてきてもらえますか?」
いつになく真剣な表情で彼は言う。ここまで見え隠れしてきた戸惑いも、恥もなく。
決定的な瞬間に、ためらいは要らない、そう彼は信じていた。
階段の一段目を二人が並んで踏みしめた瞬間。彼女は言った。
「ここなら、私も何度か来たことがある」
そう、彼女だって、爽快感と悩みを一度に抱えながら、この場所に来たことがあった。
だから、ここはある意味で、彼女にとっても煩悶の象徴。
この奇遇に彼の心臓が強く波打つ。
同じものを共有している感覚が、これほどまでに彼に甘美な象徴として感じられたのは、生まれて初めてのことだった。
「え、そうなんですか?」
階段を上りながら彼は彼女の方に顔を向ける。
だが、あまりに恥ずかしくすぐに顔を逸らしてしまった。
恥と喜びの相克が、彼の行動を奇妙に彫り出す。
そんな焦った彼の姿を横目で見た彼女は、まっすぐ階段の上を見据えながら言った。
「ふふ、奇遇だね。明くんとの秘密の場所だ」
この場所は「秘密」と銘打てるほど秘匿されているわけではない。
だが、この大げさな言葉は二人にとって大きな意味を持った。
「秘密、ですか……?」
彼は思わずにやけてしまう。正面を向いている彼女が、自分の情けない顔をこっそり見ていないか、思わず伺う。
「そう、秘密」
「はは、なんだか照れくさいよね」
彼女は正面を見続けながら言った。それは自分の表情を隠すためなのかもしれない。
「子供みたいで」
彼女は慌てて言い訳を付け加える。
まさか、自分が「秘密」なんて甘美な響きに酔わされていることを彼に告白するわけにはいかないのだ。
「え、ええ、そうですね」
「照れくさい」の部分に共感しながら彼は言う。彼もまた、今度は彼女の方を見ることなくただ正面を見据えている。
「子供みたい……」
彼は哀愁漂う表情で復唱した。
……自分の恥ずかしさは、違うのに。と。
噛み合わない建前と本音が、寄り添おうとしている二人の姿をかすませていた。
高台の頂上に着く。
普段とは違う街の景色がここからは見える。
この街に綿々と人々の営みが続いていて、その中に自分達がいるのだということを、二人はとても愛おしく感じた。
「なんだか愛おしいですね」
「うん、愛おしいね」
端から見れば分からないコミュニケーション。それが二人の間では成立している。
しかし二人はそれに気がつくことなく、したがって自分が相手と通じあっていることを自覚できない。
だから彼は誤解を恐れて詳しく自分の心情を説明することにした。
「えっと、景色自体も確かに愛おしいんですが、こうやって改めて自分の街並みを俯瞰してみると、この中で人々の営みが綿々と続いていることが感じられて、しかもその中に自分がいることが、何よりも愛おしいんです」
分かっていない人に言葉を伝えるかのような口調で彼は言う。
彼女は呆然としていた。
思わず彼は横にいる彼女に目を遣る。
「どうしましたか?」
彼女はなお呆然としていたが、自分を圧倒した現象をなんとか口にした。
「同じなの」
「はい?」
「全く同じだったの」
「一体何が、全く同じだったんですか?」
「考えていること、この景色を見て」
動揺からか、彼女は断片的に言葉を話して、不自然な倒置法まで使っていた。
「私も思ってた。同じように」
「自分の街並みを鳥瞰してみて、普段は捉えるには巨大すぎる街の中から、人々の息遣いが聞こえてきて、それでその中に自分がいることが、何よりも愛おしい」
「そう思っていたの」
二人とも、肝心の本心は秘めていた。
それは「自分」だけなのか……?
彼もまた驚く。そして、自然にできてしまったにやけ顔をごまかすように笑う。
「言葉先輩の方が文学的ですね」
この場にもまた、暖かな二人の息遣いが流れている。
いつも相手を遠くに感じてしまう。
――相手の圧倒的な才能、避けられないすれ違い、生きている世界の違いや性の違い。
でも、こんなにも遠い存在に感じられるはずなのに、時折こうして心と心がくっついたかの如く、近い存在にも感じられるのだ。
実際に彼の心が――あるいは彼女の心が――突き動かされたのも、そのせいだろう。
そして二人は、今まさにそうした距離の接近を感じていた。
「言葉先輩」
いままで景色に見入るように眼下を見据えていた彼は、体ごと横の彼女に向けて言う。
「うん?」
彼女は平静を装った返答をしたが、どうしても内側の驚きや不安や期待はやり込められない。
「伝えたいことがあります」
彼がそう言うと、彼女も彼の方に向き直った。
伝えたい「事」、あるいは「言」、あるいはその両方。
鳥の鳴き声、風の音は二人の静寂を包み込む。
緑舞う穏やかな場。遙かなる高み。研ぎ澄まされる非文明的感覚。
いつだって沈黙は、彼の言葉を支えていた。




