恋、本心、新たなる関係
「離れたくない」
それがどんなことを意味するのか。
彼女の最大の関心はそこだった。
「そんなはずがない」と心の中で思っている一方、「もしかすると」ということも考えてしまっている自分を彼女は発見する。
――いや、今はそんなこととは関係のない、「重要」な話をしているはずだから。
彼女はそれを掘り下げなければならないはずだった。でもそうしなかった。
もしかすると……の可能性が残っている今がどうしようもなく心地良かった。
気まずい雰囲気の中で先程からずっとメニューの同じページを眺め続けている彼。その真剣な表情を、何とか別の意味に読み替えようとする彼女。
「えっと、そろそろ決まった?いや、焦らしているわけではないんだけど……」
普段なら何気なく発することができる内容にも、ワンクッションを挟まずにはいられない。そんな繊細な空気がこの喧騒のベールに包まれた二人の間には流れていた。
「えっ、あっ、はい!」
彼は妙にたどたどしく、上ずった声で答える。それから彼女の言葉を待つまでもなく、慌てて近くにいた店員を呼んだ。
注文を取り終えた後にも、また重い空気が流れていた。
互いは互いの思惑を知らない。ましてや同じことを考えていることなど知らない。
次に相手が口を開けば、重苦しく、それでいて甘美なこの空気はたちまち消え去ってしまうのだろうと二人は思っていた。
彼女の分の料理が先に運ばれてくる。
「先、どうぞ」
彼は定番の気遣いを見せるが、反射的に彼女は断って彼の分を待つことを宣言する。
それはあえて自分からこの空気に居座り続けるがごとき行為だった。
やがて彼の分の料理も運ばれてくる。
「重要」な用事とは果たしてどこに行ったのやら、お互いがその記憶をどうにか頭の隅へと押しやって、平穏を保とうとしている。
「それじゃあ、いただきます」
「うん、いただきます」
二人はなんだか申し訳なさそうに「いただきます」の挨拶をする。
単なる慣習にまでも、この場を下手に動かしてしまうことを危惧している。
運ばれた料理は彼のものの方が量は多かったが、食べるスピードの違いで、二人が食べ終わるのはほぼ同時だった。
うるさいはずの店内で、二人は相手が食器をつつく音ばかりが聞こえているような気がした。
食事の終了は、また新たに始まる決定的瞬間の合図にも思われた。
満を持して開戦の狼煙が上がったかのような、そんな感覚が、本来穏やかなはずの食事の終わりの中にあった。
二人の心の中で、同時に何かが爆発する。
表面上の自分の意図ではない。むしろそれに反するような何か壮大なものに、自分が操られているように二人は感じた。
『あの』
二人はまったく同じ声を、同時に発した。
通常こうなれば、「そちらこそ、いえいえ、そちらこそ」という不毛な譲り合いが発生するところだったが、二人の中で爆発した何かは、その妥協を許さなかった。
「大事な話の件だけど」
「大事な話の件ですが」
二人は身を乗り出してそう言った。危うく二人の頭がぶつかりそうになって、申し訳なさそうに体を引く姿でさえ、二人はシンクロしていた。
「きっと相手は勘違いをしている――」
そう思っているはずの二人は、端から見ればそうは見えなかった。
二人が頭をぶつけそうになる仕草に、周りの注目が集まっている。
静かに食事をしているうちは気にならないし、会話の内容だってそんなには聞かれていないのだが、流石に視覚的に目立つ行動をすると周りが気になってしまう。
「えっと、ここじゃ落ち着かないですよね」
「う、うん」
彼らは店を出た。もはや何のための会食したのかさえ分からなかった。
店の玄関で流れる電子音を背に、二人は歩道に歩き出した。
外の空気を吸って幾分落ち着いたのだろうか、彼はこう言った。
「あの、さっきはごめんなさい、大事な話があるなんて言いながら、ちぐはぐになっちゃって……」
「ううん、私も変に気を遣わせちゃったみたいだから」
いまだに「大事な話」を深刻に受け止めている彼女を見ると、彼は申し訳なくなってくる。
その話というのは、名もなき一人の一感情に過ぎないというのに。
それでも、彼はそのことを中々弁解できない。だって……
一度口にしてしまえば、世界は壊れてしまうような気がしたから。
たった一人の激情で世界が壊れるなんて表現は仰々しい。でも彼にとっては真っ当な言葉だった。
舞浜明にとっての全ては春山言葉なのだから。
「その、大した話じゃないんです、なんというか、その~」
彼の横に並んだり引っ込んだりしながら歩く彼女に、彼は話しかけた。
時折覗き込むように自分の方を気にかけてくる彼女の姿に、余計緊張してしまう。
「えっと、個人的な事情の話で……本当は大したことじゃないんです……」
彼女は不思議そうな表情をしていた。
――わざわざ電話で呼び出すくらいだから……本当は重大なことで、私に心配をかけないようにぼかした表現をしているのかな?
――それとも、本当に大したことではないのかな、だとしたらどうして私を……?
彼は自分が合理的な説明を尽くせていないのを理解していた。「大したことない」のにわざわざ電話で呼び出した理由の説明ができていない。
でもその理由の核心を述べようとすれば、世界は壊れてしまう……
彼は世界を壊してしまわないように慎重に息を呑み込んだ。
横を走っていた電車の高架がリズムを刻んでいる。
少しの間だけ、話すことが許されない時間ができた。
そして、電車が通過した後、二人は静寂に包まれた。
静寂の力は凄まじい。
どんな強い威圧よりも、人に強く言葉を伝える。
でも、その力は聞いている人にだけ及ぶのではない。言葉を発する人間にだって及ぶのだ。
彼は本心を漏らした。
「その、言葉先輩に会いたくて……ただそれだけなんです」
あっさりとした言葉だった。この時ばかりは彼もちぐはぐになることはなく、ストレートに言った。
静寂は彼の知らぬ間に彼の本心を温めていた。
決定的な部分だけを保留した、紛うことなき彼の本心。
そう、寝惚けていた彼を突き動かした原理があるとするならば。
それは彼の会いたい気持ちに他ならないのだろう。
沈黙の後に発せられた言葉は何よりも重い。
発した側にとっても、発された側にとっても。
――無理だよ。
彼女は思う。
――無理だよ、私はなんて言えばいいの?「ありがとう?」
彼の言葉は彼女の心を突き動かした。
今まで一生懸命に彼の行動を自分の恋心から突き放そうとしていた彼女だったが、もう限界を感じていた。
――ねえ、こんなことを言われて、何も意識しないことなんてできるの?彼以外の人にするような、あっさりとしていて無難な優等生対応なんてできるの?
彼女の中での「文脈」は崩壊した。
「仕事仲間」、それが彼と彼女の関係性を表す言葉であるはずだった。それが二人の会話の中の文脈だった。
だが、あの一言で彼女は彼をその文脈の中で置くことができなくなった。
「わ、私も……っ」
彼女は震える声でそう言った。
彼にはそう聞こえないのかもしれない。でもこれは、彼女にとっては一線を踏み越える行為。
これは一目惚れなんかじゃない。一度純然たる興味で彼の能力に惹かれたのは確かだ。
でもそれは恋心などではなかった。「憧れ」と言えば聞こえは良いが、要は彼の技術を借りたいという打算的な感情だった。
その感情があってこそ、二人の関係はあった。
――彼だって私に何らかの力を見出してくれていたはず。「一緒にステージに」なんて言うくらいだから。私はそれをまだ模索中だけれど。
この相互関係を、彼女は塗り替えようとしていた。いや、塗り替えずにはいられなかった。
最早舞浜明は「舞浜くん」たりえず、春山言葉は「春山先輩」たりえなかった。




