会合
晴れやかな五月の空も、やがては梅雨の気配に取って代わられるのだろう。
これを「いずれは消えてしまう晴れやかさ」と見るのか、「季節のはざまに用意された晴れ舞台」と見るかは人によって違うだろう。
初夏、といっても差し支えのないくらい暑い日差しを受けて、さらに一種の熱にも浮かされている彼は歩いていた。
彼が彼女のもとに向かうことは必然だ。そう約束してしまったのだから。
では、その先は?彼女に出会った後は?それが必然なんだとすれば、運命はどう転ぶのだろう。
彼には分からない。伝えるべき言葉も、自分には何もない……いや、あるのか、ついこの間できてしまった事柄が。
しかしそれを伝えるには時の積み重なりが浅すぎる。その訪れはあまりに唐突だったからだ。
彼は雲ひとつない青空を見上げた。ビルの間から見える爽やかな青が、彼を遥かなる相へと誘う。
その遥かなる相の下で彼は思う。等身大の姿として彼の前の現れた彼女。だからこそ恋することを許してしまった自分の心。
でも、もっと客観的な見方をすれば、自分の心の中で起きていることは、身分不相応なことなのだ。
いくら自分に多少の演説の才があったところで、その歴然とした隔絶は変わりえない。
自分が自分に埋没しているのだな、と彼は感じた。こんなにも分をわきまえずに、こんなにも愚かしい感情を抱えることができる。それは、自分が自分自身と彼女の姿しか見ておらず、遙かなる世界の法則に抗おうとしていることだからだ。
待ち合わせ場所のカジュアルなレストランに着く。どうせ家も近いのだから、早く来る必要なんてないのに、たった一時間がとても焦れったく感じて、幾分か早く来てしまった。
店の前で彼は待つ。ここも広場のような歩道の一画にある店だ。
彼には分からなかった。
どうして自分がこんなにも、この会合を恐れているのに、同時にそれを楽しみに思っているのだろうと。
出会った後に何が起こるかも分からない、そんな状況なのに、どうしてそんな状況を楽しみに待っているのだろう、と。
遠くに流れる人の群れを彼は眺める。この辺りは公共交通機関も発達していて、車の通りがほぼ無いため、商店街のような歩道を基調とした街並みになっており、店もその歩道に沿って林立している。
車の通りを眺めていても、なんだか遠い世界の出来事のようにしか思えないが、人が歩いているのを見ると、彼も人の営みを直接肌で感じる。
どんな想いを抱えて、人は歩いているのだろうか、という疑問も湧いてくる。
その時だった。
彼は自分に驚いた。
どうしてこんなにも遠巻きで、それが分かってしまうのだろうと思った。
真っ直ぐと伸びる歩道の奥、顔も良く見えないくらいの距離で歩いている一人の人。本来なら性別すら判別できないくらいの遠さの場所へ、しかも人通りの多い辻を隔てて見える。一人の「少女」。
彼にはどうしてか分かってしまったのだ。
「あれは間違いなく、言葉先輩だ」と。
あまりに早く発見してしまった自分に驚くあまり、彼は彼女が先に遠くから手を振ってくるまで自分の手を振ったりすることはなかった。
「ごめん、待った?」
「……まだ集合時間の五分前ですけどね」
「えへへ、ちょっと気合入ってたから」
まるでこれからデートでもするかのような口ぶりで春山言葉は言う。
――どうして。彼女はこれから僕が重要な話をすると思っているはずなのに。
余計に自分に求められている振る舞いが、彼は分からなくなった。
いつもと違う私服姿。
彼女ストライプのシャツとスモーキーなグリーンのロングスカートを着ている。とてもシンプルな服装のはずなのに、そのシンプルさが却って彼女の美しさを際立たせているようにさえ思える。
揺れるスカートが「私を見て」と言わんばかりに揺れ、やがては彼女の全身へと意識が引きつけられていく。
すらっと伸びる彼女の体。縦横のバランスの良さのあまり、自分よりも背が高いのではないかと彼は錯覚してしまう。
実際には彼よりは背が低い彼女だが、圧倒的な存在感を放っていた。
少なくとも彼にとってはとりわけ一層。
「それじゃあ、入ろうか」
「うん」
彼はどうしても緊張してしまう。無理のないことだ。
私服姿への感想を一つでも言ったほうが良いか、と彼は思ったが、彼女に惹き込まれるあまり、飾った言葉が何も出てこない。飲み込みきれない彼女の圧倒的な美しさがもどかしい。あるいは、彼女の圧倒的な美しさを飲み込みきれない自分がもどかしい。
二人は店員に案内されてテーブルに着く。
ここは見慣れたチェーン店だし、何もかもが平穏裡に運ぶと彼は思っていたが。
盛況の休日のレストランで、彼は無言の圧力を感じていた。
決して凝視されているわけではないが、なんだか自分が目を離した隙に、自分と彼女の姿が盗み見られているような感じがする。
「なんであの男が……」というような声が今にも聞こえてきそうだ。
彼が不安になって周りを見回すと、周囲の人は不自然に視線を泳がせている。
どうも落ち着かない。オーディエンスの前であれ、彼女の前であれ。
お冷やが運ばれてきたタイミングだった。それまで不自然に口を閉ざしていた彼に、彼女は言葉を投げかけた。
「そ、それで、話って何かな?」
……やはり外向きには感情を表にあまり出さないように見えるが、自分の前だと彼女は感情をむき出しにしているように彼は感じる。
彼女は露骨に不安そうに彼に尋ねた。不安のお手本のような表情だった。
でも本当に困惑しているのは彼の方。
「僕だって知りたいよ」
とでも言ってしまいたいくらいだ。
でも建前上、彼は彼女を急に呼び出したことになっているのだから、そういうわけにはいかない。彼は何かを言わなければならない。
思考が許されない状況で咄嗟に何か喋れと言われたら、人は何らか本心を反映した言葉を言うだろう。
まさに彼もその通りだった。
「その、胸が苦しいんです」
「え?」
幸運にもレストランの喧騒がベールのように二人を包み込んでいて、二人はお互いの声を周りに聞かれずに意思疎通ができた。
「そ、その、それって何かの病気ってこと……?」
瞳孔を広げて、本気で心配しているような表情で彼女は言う。
「い、いえ、そんなことでは無いんですか……」
「じゃあ、何かの苦痛の比喩?ごめんなさい、もしも私がまた余計な厚かましいことをして明くんに迷惑をかけていたら……その、不満ならいつでも愛好会はやめてくれていいから……」
「やめません、絶対に、そんなことは言わないでください」
彼は真剣そのものの顔つきで言う。真っ直ぐと彼女の吸い込まれそうな瞳を見据えて、確固たる決意を送り込みながら言う。
「えっと、ごめんなさい……そうだよね、一度私達は誓ったもんね、変なことを言ってしまいました」
中途半端に敬語になりながら、申し訳なさそうに顔を伏せて彼女は言う。
その言葉を聞いた彼は、半ば立ち上がるかのごとく身を乗り出して、両腕を大げさに横に振った。
「え、えっと、ごめんなさい、そんなつもりじゃないんです」
どこかで聞いたような謝罪が、今度は滑稽なくらいの大げささでもって再現される。
「一度言葉先輩のもとから去ろうとした若造が言うべきことではございませんです……でした!私めはもう二度と言葉先輩のもとから離れたくはないのであります!」
言葉遣いが君臣関係チックに変化しているあたり、焦燥の色が色濃く現れている。
彼にとっては焦ったみっともない自分。
そして、
彼女にとっては決定的な言葉だった。




