ボーイ・ミーツ・ガール?
一人の少女が壇上に上がっていった。だれも彼女の事を気に留める人はいない。
会場の騒めきはいまだ消えない。舞浜明の素晴らしい演説によるものだ。
しかし、当の彼はその少女の存在を気にかけていた。よくよく考えてみれば不思議なことである。どうしてこの学校に上級生が存在するのか。
その疑問はすぐに解決した。そういえば、年間行事予定表には、入学式の少し前の日付に編入式と書かれていた。初めて見た時は、まさか大規模に上級生を編入させる式だとは思わなかったが、言われてみればそうとしか考えられない。
編入学にしてはやたらと規模が大きいのは流石に国立高校というところ、このプロジェクトにかける意気込みを感じるわけだが、それよりもよほど気にかかるのがこの少女のこと。
というのも、この少女、あまりにも美しすぎるのだ。その美しさは、表情の柔らかさや愛嬌といったような、取り繕えるようなことではなく、絶対的で、しかも人工的とさえ思えるほどの不自然な美しさなのだ。
顔が整いすぎていて、現実感がなかった。目の前の少女が同じ人間だとは信じられない。完全な左右対称の顔に、質感あふれる顔のパーツが完全なバランスで配置されていて、艷やかな黒髪がより非現実的な印象を与える。
全身のシルエットを見てみても、足が長く、少しほっそりしていてやや長身。何を着ても似合いそうな体をしている。
誰のものであっても変わらないはずの制服のブレザーは、彼女が纏っているものだけ全くの別物に見えるし、なにより白い透き通るような肌が並々ならぬオーラを放っている。
やはりこの世のものとは信じられないのだ。
彼の演説に魅入っていた人々も、ようやく壇上に立つ少女の異質さに気がついた。
視線は少女の元に釘付けになる。
彼女は少々怯えているようだった。慣れない様子でマイクを確認して、話始めた。
「花の香りがそよ風に運ばれてくる候となりました……」
そういえば、一般的な式というのはこういう挨拶を挟むものだったなと思い出した。
透き通った声が講堂全体に広がる。
その後は無難な挨拶が続く。ちょっと変わった点は、編入制度がどうこう、特殊な環境がどうこうといった話くらいか。
入学生のほとんどは、編入制度の話になどさしたる興味はない。というのは、やはり多数派の都市部出身者はどうやら元々知っていたようなのだ。
観衆は話の内容そっちのけで、彼女の外見の美しさに魅入っていた。これほど絶対的な美しさならば、惹きつけるのに男も女も大した違いではない。皆一様に彼女に熱い視線を送っていた。
多少は話をちゃんと聞いていた彼の方は、「都会にはこんな女性がたくさんいるのか……」と、即断の誤謬を犯していた。
これをスタンダードにしてしまえば、この先の人生が思いやられるものである。
しかし、彼女の姿をじっと見つめているうち、その考えは改まった。
挨拶は一段落したようで、少女は少し表情を緩めていた。
すると、今まで外向きの冷静な声で喋っていたのを、もう少し愛嬌のあるトーンに変えて、次のようなことを話し始めた。
「入学生代表の舞浜さんのスピーチ、とても感動しながら聞いてました」
「わ、わたしも人に影響を与えるような発信力のある人間になりたいんです」
体を彼が座っている方の特別席の一画に向けた。
「どうか、これからも素敵なお話を聞かせてください」
と言って彼に一礼した。彼も座ったまま礼を返した。
というか何だ、これではただのファンじゃないか。なんだかオーディエンスが妙に甲高い声で歓声を飛ばしてくるが、彼は無視を決め込んだ。だいたいこういう雰囲気の生徒が集まっているなんて信じがたいのだが。仮にも難関校でしょうが。
「それでは、そろそろ締めますね」
いやいや、自由奔放か。こういうのって、もっと綺麗にまとめるもんなんじゃ?
「在校生代表、春山言葉」
在校生代表と名乗って良いのかは別として、彼はこの「春山言葉」という名前を、印象深く感じた。
彼女が壇上から降りてくる。その所作も、指の一本までピンと伸びていてそこはかとなく優雅だ。
彼は彼女と目が合った。いや、敢えて合わせたと言った方が正確かもしれない。
「後でまたお会いしましょう」と彼は言うつもりだったが、それは叶わなかった。
話かけようとすると、とてつもない緊張感が自分の身にふりかかってくるのだ。おそらくこの不自然なまでの美しさのせいだろう。
話しかけようとしたのは、彼女の話から感じた純粋さ、つまり自然な部分のためである。しかし、それを阻むのに余りある美しさ、不自然が目の前で広がっていた。
彼女は彼に向かって微笑んだ。色々な思いを含んでいる、麗しい瞳を向けて。
彼はただ硬直するしかなかった。
彼女は彼の後ろの席に座った。なぜ真後ろにこんなとんでもなく美しい女性がいて、いままで気付かなかったのだろう。
式は順当に終わった。窓から見える桜の木々は、この晴れやかな一日を鮮やかに彩っていた。
新しい期待に胸を膨らませる季節だ。思いは今ではなく未来へと向き、心は今いる場所ではなくもっと遠くの方へ出張している時期だ。
けれども彼は、ついさっき自分のすぐ近くで起きたことを、頭から消せないままでいた。
確かに彼女は美しい。男性ならば彼女に魅了されることは容易いであろう。
――だけど僕の抱いた感情は違う、いや厳密には、間違いではないがそれだけでは充分ではない。確かに一目見て彼女は魅力的だと感じた。だが、そんなことは僕にとっては些細な問題だ――
彼が一番に感じたのは、耽美の心ではなく畏怖の心であった。
彼女が持っているものは、決して他の人間が持ちえないもののように思えた。これは事実だ。客観的に見ても、彼女は人並み外れて美しい。
その美しさは、彼の物差しを超えていた。彼女の美しさを、彼の言葉で形容することなどできない。
そう、彼にとって自分でさえ制御できない強大な「言葉の力」は、今、その欠陥を突きつけられている。彼は彼女を見る度、どうしてもそう感じてしまう。
何が彼女をここまで美しくしているのか。それが彼の知りたかったこと。しかし、いくら頭で考え抜こうが、彼女を観察し続けようが、彼女と交わろうが、それを知ることは叶わないだろう。
なぜなら、彼の言葉は、彼女の美の前では無力だからだ。いくら彼女を知った気になろうとも、その美を形容することなど彼の力では不可能なのだ。
そして最も恐ろしい疑問。
どうして彼女は、これだけの恐ろしい力を持ちながら、このように平気で振る舞えるのだろうか?普通の人間のように歩けるのだろうか?
一般の生徒がクラス順に散会してゆく。特別席にいる舞浜と春山は、おそらく自分のクラスに合流して帰るなり、勝手に一人で帰るなり好きにしろということだろう。尤も上級生である春山と同じクラスの人間が、この入学式の場にいることは考えにくいが。
彼は後ろにいる春山の気配を、前側に体を向けたまま探った。
彼女は、会場にいる新入生のほとんどが退場するまで、ずっとその席に座っていた。
最後のクラスが退場し始めると、ようやく彼女は席を立った。彼の方は、もう自分のクラスの退場が終わったというのに、ずっと特別席に座りっぱなしだった。
彼女が席を立ち去ろうとする音を聞く。
彼は自分の心臓が締め付けられるような思いをした。
このままではいけない、このままではいられない、いや、このままではいたくない?
まだ分かっていないんだ。このすぐ近くにいる少女のことを。
「あのっ!!」
彼は素早く席から立って、振り向きざまに言った。
彼女は既に席から数メートル離れていて、彼の言葉に気づかなかった。
ではもう一度。
「春山さん!いや、春山先輩!」
講堂の騒めきの中でも、その声はきちんと彼女のもとまで届いた。
「はい、なんでしょうか、舞浜さん」
彼女は結んだ髪を少しだけ揺らして振り向いた。
彼はその姿を見た。
心の波紋が広がった。