現れる心、隠される心
彼女は、自分の中で何か今までとは違うものが動き出した気がした。
それはまだはっきりとしていない、だけど確かに自分の奥底に潜んでいる。
今は確かに彼と彼女が再び協力を始めることになったという、喜ばしい状態だった。
でも、それよりももっと重要なことが、自分の中に鳴りを潜めている気が彼女はした。
彼と一緒に彼女もステージに立つということ。
それは重大なことだ。
果たしてそんなことができるのか、と彼女も思う。
――それは彼が、私をどう思っているということなのか?好意的には間違いない、でも、それに名前をつけるとしたら、一体どうなるのか?
彼女は可憐な乙女の顔をしていた。
「本当にありがとうございます、先輩に出会っていなかったら、僕は自分のことにさえ気付くことはできませんでした」
森から二人で離れて行きながら彼は言う。
「ええ、私だって、自分がなんなのかに気付けなかった……だって私は、自分のことを嫌ってばかりいて……」
――確かに、自分がどういう能力を持っているか、自分が悪だと考えてきたことは生かす余地があることなのだ、ということは充分に分かった。
――でも、私が知りたいのは、もっともっと知りたいのは……
「ね、ねえ」
「なんでしょう、言葉先輩?」
「言葉先輩」という言葉が、彼女には特別な意味を帯びているように感じられる。
元から力強いものに、さらに彼が力を付け加えたような言葉だった。
彼女は目を細める。言えない。
なんだか、全てが壊れてしまいそうな予感がする。それは確固たる確信とは程遠い。でも、恐れるには十分すぎるくらい強い。
「ううん、なんでもない」
「そうですか」
彼は笑顔だった。「何事もなくて何よりです」と言わんばかりに。
……彼女の心の中でも、何事もなければそれは何よりなのだが。
――
これで全てを取り戻した。自分と彼女に必要なもの全てを。
もう自分自身の力に苦しめられることなどなく、ただそれを生かすことだけを考える余裕ができた。
やり切れない気持ちを抱え続けて歩いた通学路を、今日は珍しく明るい気分で歩く。
……そうやって行けば、きっと僕達は最強になれる。誰しもに認められる二人になれる。
大きな雲の塊には、ぽっかりと穴が空いていた。
そこには過剰なくらいに青空と白のグラデーションを飾り立てている、明るい光が差し込んでいた。
「まるで本当でないみたい」
彼は変な言葉を使った。
空元気のような希望は、彼の心の中を、あまりにも明るく照らしていた。
――
「美咲」
「あっ、言葉、そういうことだよね?」
放課後、他に人がいなくなった教室で春山言葉は秋里先輩に話しかける。
秋里先輩も、この時を見計らって、何のお願いをされるまでもなくずっと教室で待っていた。
「うん、明くんとは話した」
そう聞いた秋里先輩は、すぐに含みのある笑顔を浮かべた。
「その様子だと、うまくいったみたいね」
「え?」
「どうして分かるの」と聞きたげな表情で春山言葉は目を少し見開いた。
「そりゃ、当たり前でしょ」
「だって……」
「言葉が彼を明くんと呼んだのは、今回が初めてでしょう?」
「あっ……」
彼女は頬を赤くした。
だがそれは、単に自分の過去の行動が恥ずかしかったからではない。
「すごく仲良くなったんだね、あ・き・ら・くんと」
からかうように秋里先輩が言う。幼馴染ゆえ言えることだろうか。それとも、一度彼女と自分自身とに向き合ったからこそ言えることなのだろうか。
「い、いや、そんなことは……」
彼女が頬を赤くしているのは、自分の内心で湧き上がってきた感情に対する恥ずかしさだった。
「でも、うまくいったみたいで何よりよ」
穏やかな口調で秋里先輩は言う。
「これで仕事仲間は出揃ったね、愛好会も再始動だ」
「愛好会の再始動」。魅力的な言葉だった。彼女が自分で捨てておきながら、心の底ではずっと再興を願っていた言霊愛好会。それが今にも蘇ろうとしているのだ。
でも問題はその前の一文。「出揃った」のは当然彼のこと。
そして、「出揃った」のは……
「仕事……仲間?」
「ええ、ちょっと堅苦しい表現だったかな」
「それじゃあ、愛好会メンバーとでも言った方がいいかな」
「ああ、もちろん私だって言葉のやることは何でも手伝うよ!」
――いつになく美咲が温かい。きっと私の悩みがすべて解けたと思って、安堵しているからなのだろう。
――でもまだ残っている。決定的な精算が、完全に後回しにされている。
――仕事仲間……そうなのだろうか?
――仕事仲間とはなんなのだろう。
――「もしも」、彼が「仕事仲間」に過ぎないのだとしたら……?
そんなことを考えた後で、彼女は無理やり自分を現実世界へと引き戻した。
「うん、ありがとう、本当に助かるよ!」
「良いって良いって、言葉の持っているチャンスは、最大限に生かさないと。明くんのような人に出会えることって、そうそうないからね」
「うん、そうだよね」
――こんな時に、完璧に対応してしまえる自分が憎い。一度や二度素を出すことが合っても、慣れると結局建前が溢れ出てしまう。
彼といた時は、いつもよりも幾分本音が出せた気がした。
それでも、本当に肝心な部分は、自分の武器である仮面で隠してしまうのだ。
――もちろんそれも長所の一つであることは、今は私も理解している。
――でも、この力が完全に仇となってしまうことがあるのだ。
――本当の想いは、時折伝えるのが難しくなることがある。
「違う」
秋里先輩の言葉を聞いた彼女は、心の中ではそう思っている。
「そうそうない」ではないのだ。
――彼は、二度と出会うことのない、たった一人特別な人間なのだ。
――そしてその「特別」とは、単に多くの人から認められることを意味するのではない。
――私一人、ただ私一人にとって、特別な人なのだ。
――
目を開けている限りは、世界は明るい。
なんて素晴らしいのだろう。
こんな自然豊かな場所に築かれた、「都会」と言い切って申し分のないような人間の営み。
敵対する文明と自然が、ここでは調和を果たしているように思える。
自然の光も人工の光も、どちらも同じように明るい。
彼が、新たな気持ちで登校した朝のことだった。
そう、この世界はどうしようもなく美しい。非の打ち所がなく、心配すべきことなど何もない。
――目を開けている限りは……
なのに、どうしてだろう。
目を閉じると、彼は猛烈な不安に襲われる。
大切なものをどこかに落としてしまったような、そんな不安。
彼は学校の近くの高台に寄り道をしていた。
高台を上ると、壮大な眺めと優雅な眺めが同時に目に入ってくる。
ここは彼一人だけの空間。世界の美しさを、彼は独占した気分になった。
彼は目を閉じた。そして風を浴びる。
何の変哲もないように見える世界が、やはり少しずつ動いているのだということを体で感じる。
すると、彼の心の中には、やはり一抹のわだかまりが残っているのだ。
「どうして……」
彼は思わず呟く。
「ねえ、どうして」
「どうして、『それ』は目に見えないのだろう」
彼の中に残っている大切な何か。
それは確かに彼の中にあるはずだ。
彼自身もそう感じている。
だけれども、それを目で見ようとしても見ることはできない。
だから、それが一体なんなのかも分からない。
――もしかすると、忘れたって構わないことなのかもしれない。
――でもどうしてだろう、「それ」を捨て去ることを考えると、猛烈な不安が僕を襲うんだ。
――「後悔はきっと一生モノだろう」って。




