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美しき少女に言の葉を  作者: 大和階梯
恋は思案の外
25/35

穏やかで激しい

 舞浜明は階段を駆け上がり、春山言葉は階段を駆け下りる。

 二人はお互い反対側の階段にいた。


 舞浜は春山先輩の教室へとたどり着く。教室の中をいくら見回しても、彼女の姿は無かった。

 周りの二年生が彼を奇異の視線で見つめる。


 息を切らす彼の姿は、穏やかな昼休みの雰囲気とは不釣り合いだった。

 ……またすれ違い。でも、彼は却って自信を持った。

「きっと春山先輩は、僕に会おうとしているはずだ……」


 彼は諦めることはない。また下の階に向けて風を切って駆けていく。

 新緑は、いきいきとした青空を彩っていた。

 新たな命の芽吹きを象徴するかのように。


 ――


 春山先輩が彼の教室を覗いてみても、彼の姿は見えない。

 彼のクラスメイト達は、扉から教室を眺める春山先輩の姿を認めると、教室を見回して彼の姿を探したが、彼はどこにもいなかった。


 あまりに早く、彼は飛び出していた。誰も気付かないほど、人知れず、しかし一人断固とした決意で飛び出していた。


 春山先輩は、またも自分が遠ざけられているのではないかという不安に襲われそうになる。

 でも、その感情はすぐに克服した。


 ――美咲は確かに言ったんだ、「舞浜くんだって私を必要としている」って。

 ――ここで諦めちゃ駄目なんだ、諦めなければ、きっと想いは伝わるから。


 そう言うと、彼女はまた廊下を駆け始める。

 何も知らない一年生達は、一体何事かと口を開けて、ただ疾走する彼女の凛々しい姿を眺めていた。


 クラス名を示すプレートが、一枚、また一枚と次々過ぎ去っていく。

 立ちふさがる有象無象の生徒達の隙間を塗って、とにかく彼女は必死に駆けた。

 鋭く響く足音が、何かの始まりを焦らしているようだった。


 ーー


 階段に差し掛かった二人は、自分が戻るべき場所へと帰ろうとしている。

 春山先輩は下から階段を駆け上がり、舞浜明は上から階段を駆け下りる。

 彼らが各々の一段目に足を踏み降ろした瞬間、二つの足音は交錯した。


 見るまでもなく確信した。


 これが会うべき人なのだと。


 窓から差し込む光が踊り場を過剰なくらいに明るく照らしている。

 壁に光で型どられた平行四辺形が、極端に誇張された人間の影を映した。


 響き合う足音は一層早く、重なり合う息は一層激しくなる。

 お互いが踊り場まで後一歩という所まで到達したとき。その姿は見えた。


 踊り場に立った二人は、目を見合わせた。

 明るすぎる光が、過剰なくらいの演出を加えている。でも確かに、この場は過剰に装飾しても許されるような場だった。


 二人は口を合わせて言った。

「やっと会えましたね、春山先輩」

「やっと会えたね、舞浜くん」


 言うべき言の葉、言いたい言の葉は口をついて出てこない。

 流れた静寂は、二人がただじっとお互いを見合わせることを強要した。


 春山先輩の引き込むような眼差し、じっと見つめていたら、いつの間にか魔法にでもかけられてしまうのではないかというくらい、奥行のある視線。


 舞浜明の真っ直ぐな眼差し。何かを訴えかけるような、荒削りな力強さ。見つめているだけでその力が伝わってくるような、特別な視線。


 互いの目を見つめ合う内に、彼らは気恥ずかしくなって目を逸らした。

 どうしてこんなにも見つめていられたのだろうか、と、顔を逸した二人は思った。


 遠くから聞こえる生徒達の喧騒だけが二人を包み込んでいる。

 その連続した時間はどれもが不可分で、人間が勝手に編み出した一秒、一分、一時間などという区切りなど、二人の頭の中から消え去っていた。


 沈黙が深まれば深まるほど、雰囲気の中に暖かさが生まれるのを二人は感じていた。

 時折周りの喧騒が完全に止まると、彼らの時間の密度はさらに高まっていった。


「そばにいること」


 確かに、それはそれ自体では何も生まないことなのかもしれない。

 それでも、この空気を肌で感じて分かった。


 近くにいるということだけが、人を暖めてくれることもあるのだということ。

 そして、二人には、お互いが幸せな雰囲気に包まれていることが手に取るように分かった。何も言葉を交わすことがないのに、それでいて二人は共鳴していた。


「言葉先輩」


 窓は決して開いてはいない、でも確かに強い風が吹き付けてきたかのように彼女は感じた。

 彼は沈黙を破った。そこから生まれた言葉の威力は、絶大だった。


 顔を上げた彼女は、彼の真剣な表情に目を奪われていく。

 彼も、自分が発した言葉が、どれほどこの場を変えているのかということに驚いている。


 彼はようやく分かったのだ。

 場を暖めて、温まった言葉を届けること。


 言葉の温もり、暖かな雰囲気、繋がり合う感触、届く生の声。

 それが言葉の飾りだとかそんなことよりも、何よりも大事なことだということ。


 その場で共鳴してくれる人の存在が、何よりも温かいのだということ。

 ――もしも、自分の才能が生かされるとしたら、そんな人の存在があってこそなのではないか。


 装飾、威厳、そんなことより、何より大事なのは、言葉を伝えたい人に寄り添い続けることなのではないか。

 彼は改めて認識した。あの時「自分の力を生かしなさい」といった際、その自分の言葉を彼は綺麗事だと断じた。

 でも実際には人の心を動かした。


 それは何故か?

 彼女一人に寄り添った言葉であったからに、他ならない。

 想う気持ちは、どんな場であったって、聞く人に伝わっていくのだ。


「うん、舞浜明くん」


 今度は彼に風が吹いた。

 彼の言葉を全て受け止める、そんな意思を込めて、彼女は彼に微笑んだ。

 外向きの笑顔ではない、心からの笑顔だった。


「歩きましょう、二人きりで。送るべき言の葉が心の中でわだかまっていて、うまく発することができないんです。だからせめて、もっともっと静かで、もっともっと二人きりになれる場所に行きましょう」


「ええ、もちろん。私だって、もっとあなたとの時間を温めたい……」

 甘美な響きが彼女の唇を震わせた。


 光と影のグラデーションの中を、二人並び立って歩く姿は、何にもまさる荘厳さと、甘美さを同時に併せ持っていた。

 お互いの足音は常に呼応して、一種のハーモニーを奏でていた。


「行きたい所、いえ、向かうべき場所はたった一つだと思います」

 彼は言った。重い口を開くがごとく、慎重そうに言った。


「ええ」

 彼女は、彼の言わんとしていることが、なんとなく分かっていた。

 ……もしもそうなら、それは過去を精算して、未来へと向かうことなのだろう。



 木々の間を抜けていく。奥まった場所に進むごとに、生徒の数がどんどん減っていく。


「やっぱり、……見ていたよね?」

「ええ、たまたま見ていました」


 それは彼女が愛好会の資料を森で燃やしていたときのことだった。


「ごめんなさい、ってそんなことを言っても許されることじゃないのかもしれないけど」

「謝るなら僕の方です。言葉先輩の熱意に背いて、自分のくだらない葛藤で意地になって、結局言葉先輩を遠ざけようとしていた。それが全てです」


 いつの間にか彼の呼び方が「言葉」に変化していた。「先輩」という接尾語を取り払うことはまだできていないけれど。


 木々の間から漏れる光が、緑を鮮やかに照らす。やがて二人は森の奥の開けた場所まで出た。

「もう、残っていないようですね」


 燃やした灰は、どこかに吹き飛んで自然に帰っていた。



「ねえ、私って、やっぱり完璧じゃないね」

「そうですよ」

 彼は即答した。


 確かに彼女は事実を述べたつもりだが、それでも即答されるのはなんだか悔しかった。

「もう、もうちょっと気を遣った方が良いよ、他の女の子には。面倒くさいんだからね?女心っていうのは」


 彼女には分かっている。彼の言葉が、彼女をからかったものではないということ。

「完璧」の外面ではなく、本当の中身を見ているのという意思表示であるということ。


 そして彼は言った。唐突に言った。返答をするタイミングの妥当性とか、そんなものをはるかに超越したところから言った。



「言葉先輩の気さえ引ければいいです」



「え?」

 彼女は心底驚いた表情をした。

 深い森の中で舞浜明と春山言葉は二人きりだった。

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