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美しき少女に言の葉を  作者: 大和階梯
能ある鷹は爪を隠しきれぬ
24/35

第三のヒーロー

 チョークが黒板を滑る快音が、今は心を焦らせるもののようにさえ思える。

 秋里先輩は、春山先輩のことが気になって仕方がなかった。


 秋里先輩は彼女に本心を投げかけた。綺麗事ではなくて、彼女を傷つけない優しさではなくて、本当に彼女のためになる言葉を。

 その言葉に対して「美咲はすごいよね」と返された。


 なんだか、自分の渾身の言葉がはぐらかされたような気がした。

「本当は舞浜くんなんて気にかけていないのかな……」

 ごく小さな声で秋里先輩は思わず呟いてしまう。


「そんなことはないはず、言葉は確かに舞浜くんに惹かれていた……」

「それじゃあ、あの反応はなんなの?」


 授業時間の五十分が異様に長く感じる。まだ始まって十分しか経っていない。

 思わず春山先輩の席の方を振り向いてしまう。しかし後ろの席にいる彼女の姿は他の生徒に阻まれて見えない。


 ――言葉はどんな顔をしているのだろう。

 心からの笑顔だろうか。それとも苦笑か。あるいは誰にも見えない悲しみの顔か。


 授業の内容は頭の中をすり抜けていって残らない。授業中はいつも集中している秋里先輩だったが、この日だけはその内容が全く入ってこなかった。

 頭の中に残り続ける春山言葉の存在。それが秋里先輩を縛り付けていた。


 途端に空虚な気持ちになって、彼女は空を見上げる。

 木々が風にそよぐ姿は、とても凛々しかった。

 あれだけ揺れていても、決してその根本を揺るがすことがないのだから。


 人の決意は予測不能な出来事によって、簡単に揺さぶられてしまう。


 ――


 いつになく美咲は真剣だった、と春山先輩は感じていた。

 彼の行動に翻弄されて、自分の決意を失いそうになっている自分を叱責するかのように。


 春山先輩は、秋里先輩が頼もしかった。

 いつも心地よい距離でいてくれる彼女、でも時にはこんな言葉を投げかけてくれる。

 ――でもそれは、単なる共感の形をとっているから、風に流れてしまいやすいのだ。


 本当はこんなにも頼もしく思っているのに。

 単なる「~だよね」「そうだよね」のやり取りと同列に扱われて終わってしまう。

 自分の伝える力の無さが余りにも情けない。


 何度だって美咲には救われてきた。当たり前の言葉を、当たり前のように投げかけてくれた。

 ――その背後にあったのは偽善の心なんかではなく、確かに自分に対する理解だった。


 感謝を伝えられない自分がもどかしい。でも、一見すると何もすごいことをしているようには見えないから、中々感謝を伝えるのは難しい。


 ――美咲が当たり前のようにそれをやってのけるから、私も当たり前で片付けたくなる。本当はそんなことはないって分かっているのに……


 だからこそ、春山先輩は、今度こそ言った。遠回しではあったが、しかし堂々と。

「美咲はさ、すごいよね」


 ――願わくば、この言の葉が揺らぐことなく美咲のもとへ届きますように。


 ――


 長い長い授業時間は、愚鈍なチャイムと共に終わりを迎えた。

 秋里先輩は席から立ち上がると、すぐに春山先輩の所まで行って、手を握る。

「ちょっと来て」


 休み時間の短さになど、もはや構ってはいられない。


「さっきの話の続きだよね?」

 春山先輩は純粋な表情でそう言った。


「私が言葉の側にいるって、どういうこと?」

 秋里先輩は真剣な目つきで言う。一字一句たりとも聞き逃さない、というような強い態度で。


「どうもこうも、言葉通りだよ、美咲はいつも私の側に居てくれる」


「嘘」

 秋里先輩は言い切った。


「そんなことはない、いや、仮に私が言葉の側に居られているとしても、それは本当に側にいることではない……」


「そ、それじゃあ……」

「美咲は、私のことが嫌いなの?」


 春山先輩は本当に不安そうな表情で言う。まるでこの世にたった一つしかない花を気遣うかのように。


「そっ、そんなわけない!私はいつだって言葉の味方でいるつもり!でも……」

「分からないんだよ、分からず屋なんだよ、私は、言葉の気持ちなんか何にも分かってあげられない」


 そう秋里先輩は言った。すると、春山先輩は睨むような目つきで秋里先輩を見た。

「そっか、それは違う」

 小声ながら、力強く春山先輩は言った。


「いつだって美咲は私の気持ちを代弁してくれているじゃない!」

「さっきだって私の、現れたり消えたりしてしまうか弱い決意を、どん底からすくい上げてくれたじゃない!」


 秋里先輩を責めるかのような台詞を春山先輩が発した後、彼女は気付いた。

 ――私が感謝を伝えきれなかったばかりに……


 そう、彼女は欲しかった。

 彼の絶対的な言の葉が。


 もう伝えたいことを、一ミリも漏らすことなく、そして強めて、さらに多くの人へと伝える力。そんな絶対的な力が欲しかった。


 なぜならそれは、彼女にはないものだから。


「ごめんなさい」

 春山先輩は秋里先輩の手をぎゅっと握りしめた。


「ずっと、伝えることができないでいた」

「ずっと、言うべき言葉を言えずにいた」


「ありがとう、美咲、いつもあなたは私の心の支えだよ」


 そう春山言葉が口にした瞬間、秋里先輩は暗雲が晴れていくような気持ちを味わった。

 休み時間の終わるチャイムが鳴った。

 春山言葉が残した波紋は、秋里美咲の中で残り続けている。


 ――


 力不足が人間だ。

 時に人は、本当の思いを伝える力がなく、側に寄り添える勇気がなく、自分を理解する力さえなかったりする。


 でも、それでも良いじゃないか。完璧な物からドラマなど生まれない。不完全であるからこそ、互いに補うことができるんだ。

 だからこそ彼は言ったのだ。


「不器用でも良い」と。


 彼自身だって不器用な存在だった。

 自分の能力をいびつに認識して悩み、自分の言葉を届けるべき人を遠ざけようとした。

 だからこそ、彼はそんな言葉を他の人にも届けようとしたのかもしれない。


 力のない人間は、もしかすると主人公にはなれないのかもしれない。

 特別な力がなければ、人は他大勢の他者から認められないのかもしれない。


 でも、主人公だって凡人の悩みで悩んでいるのだ。

 結局の所、みんな同じ。誰しもが他の人からすればくだらないことで悩んでいる。


 ただ自分が春山先輩の近くにまとわりつくことしかできないのだと思っていた秋里先輩。そんな彼女の悩みだって、春山先輩を遠ざけてしまう彼の悩みと、そして彼を遠ざけてしまう春山先輩の悩みと同じだ。


 だから、秋里先輩は第三者などではない。

 言うなれば、第三の主人公なのだろう。

 それに、彼女の存在は、あの二人にだって、直接影響しているのだ。


 時は満ちていた。昼休みが始まるチャイムが、もうそろそろ流れようとしている。

 時計の針が、とても長い時間を刻んでいるようだった。その二人は、そう感じていた。


 引きつけられるべき運命は、どんな障壁がそこにあったとしても、必ず一つの帰着をもたらす。

 それは、あの二人の出会いという偶然が作り出した必然の連鎖だ。


 さあ、もう一度、また会うべき人に、会う時が来る。


 授業が終わるチャイムが鳴った。


 教師が教壇を去っていくのを見届けると、彼と彼女はスタートラインを切った。


 また二つの糸が交わる時まで、時は歩みを止めない。


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