勇気
「やけに元気ね」
今日も優雅に登校してきた春山先輩を見た秋里先輩はそう言った。
「え?そうかな?」
いつもと違う赤いゴムで髪を止めている春山先輩が返す。
「そう、なんだかいつもより自信を持った顔をしてる」
……確かにそれは本当だった。
春山先輩は彼の言葉によって元気付けられていた。
だが、それが直接面に出ている意識はなかったのだが……なかなかに秋里先輩も鋭いのだった。
「どう思った?」
意味深な短文を秋里先輩は投げかける。「どう」だけで、春山先輩は何を指しているのかを理解した。
言葉で表すのが恐ろしい。「良かった」などと言うものなら、なんだか自分の気持ちを偽ったかのような罪悪感に駆られそうだ、春山先輩は思った。
――実際には、私にその力を表現する術がないだけなのだけれども。
「言葉?」
――心の奥底にまで入り込んで、内なるところにエネルギーを詰め込んでいくような、彼の言葉。その圧倒的な力を、自分の稚拙な表現力で示すことなどできない。
――私にできるのは、ただ私の内に滾る力を、自分で実感することだけ。
「う、ううんなんでもないの」
「ほら?そろそろホームルームの時間じゃない?」
完全な笑顔で春山先輩は取り繕った。
「え、ええ」
秋里先輩は戸惑った。
ホームルームの担任の話は、秋里先輩の耳にはほとんど入ってこない。
彼女が気にかけているのは、もっぱら言葉の不思議な態度だった。
――明らかに今日は元気そうだった。でも、舞浜くんのことを聞くと沈黙に沈んでしまう。
――もしかすると、彼と完全に決別できたことでせいせいしているのかもしれない……
――だけど、あれだけ彼に惹かれていた言葉が、そう感じることなど有り得るの?
窓の外には、たった一羽の鳥が下を向いて飛んでいた。
昼休みが近づくと、春山先輩はそわそわしていた。
「舞浜くんと話さなきゃ……逃げちゃ駄目だ……」
授業の声とチョークの音がが遠巻きに聞こえる。
「だいたい、なんであの時勇気を出したのにいなかったの!」
「後で叱ってあげるんだから!」
と言った後で、叱るためには一度舞浜くんに話しかける必要があることを強く意識する。
「もう、どうすればいいのよ……」
彼女はふくれっ面をして、都合の悪い舞浜くんと意気地なしの自分自身に不満の意を表明した。
そんな顔は誰も見ていないにも関わらず……いや、彼女のことだから授業中もこっそりと盗み見られているかもしれないが。
本人からしてみれば、見られたら恥ずかしい顔をおのずからしているわけだが、もはやそんなことに構う暇もなく、ただ自分の世界に没入していた。
それから長い体感時間を経て、授業終わりのチャイムが鳴った。
生徒たちは各々の居場所を探して教室外に旅に出ていくのだが、彼女は自分の席でうずくまったままだった。
「言葉、もしかして体調悪いの?無理してない?」
秋里先輩にとっては、朝の春山先輩の自信溢れる姿は虚勢に見えた。だからこそ、今の春山先輩も、無理の延長線上にいるように思えてならなかった。
「い、いや、別に大丈夫だから」
急に顔を上げて秋里先輩を驚かせた春山先輩が言う。
「でも、顔赤いよ、無理しなくて良いんだぞ~」
秋里先輩は春山先輩の髪を優しく撫でている。子供をあやすように、無理をしている春山先輩をなだめようとしているのだろうか。
いや、単純にその時の春山先輩が愛らしかったからかもしれない。
「そ、そんなことないから、じゃあ私用事があるから行くね!」
「あっ、ちょっと待ってよ」
秋里先輩は分かっていた。春山先輩は、愛好会以外にさしたる用事など持っていないはずだということを。
それなら、今春山先輩が駆けていったのは、用事にかこつけた秋里先輩からの逃避だった。
教室に取り残されて立っている秋里先輩は言った。
「どうしてだろう、肝心な所でだけ、私は的外れなんだよね……」
彼女は春山先輩が駆けていった廊下に出て、その軌跡を目で追った。
実際のところ春山先輩がとった行動は逃避などではなかった。
「なんだか心配してくれている美咲には悪いことしちゃったかな……」
彼女が向かっていたのは一年生の教室だった。
そう、彼女は秋里先輩に後押しされていた。そのことに秋里先輩は気付いていないけれど。
「あれだけ心配されちゃ、あのままではいられないよね」
――そう、いままでの自分とは違うんだ。舞浜くんは、自分を変えたんだ。
そう彼女は自覚した。
一年生の廊下に行く。彼女はできるだけ胸を張って、なおかつにこやかに歩いている。
「自分は余裕がある人間です」と言わんばかりに。
そういういつもと違った態度のせいだろうか。彼女は珍しく露骨に声をかけられた。
「あの、春山先輩ですよね?」
「え?」
今までは彼女は遠巻きに噂されることはあれど、直接に声をかけられることはそんなに多くはなかった。一年生相手だと、この間彼のクラスを覗いた時くらいだったか。
つまるところ、彼女の扱いは一年生でも二年生でも同じだった。その背景に潜む考えが、憧れなのか無視なのかの違いだけであって、結局のところ遠ざけられてきた存在に変わりはない。憧れはただ遠くを眺めるだけで終わってしまうものだから。
それでも、今この瞬間だけは違った。
「その、僕はいつも素敵な方だなと……いえ、何か一年生に御用があるのでしたら、僕が取り次ぎますよ」
彼女のオーラが変わっていたのだろう。人を惹きつけてながらも突き放すオーラから、人を引き寄せ続けるオーラへと。
「え、ええ」
こういうことは彼女を久しぶりで困惑した。しかし、すぐに自分に求められている振る舞いを理解した。
「そう言っていただけるのはありがたいのだけど、自分でなんとかできる用事だから、また今度、ね?」
特にあてのない「また今度」という魔性の言葉を言い残して彼女は去る。
「キャー、春山先輩素敵」という声を上げたのは女子生徒だった。
彼女はまたも彼のいる教室の前へと行った。
もう何度も来ているので彼の席の場所は覚えてしまっている。
いない。
いやいや、昼休みなら友達の席にいることも……
やっぱりいない。
端正な顔だけ出して扉の窓越しに教室を見つめる彼女の姿は、教室の視線を集めるには充分で、彼女はすぐさま注目の的となった。
またも彼女は逃げ帰る。
「ほんっとに、許さないからね、舞浜くん」
憎悪の名を借りた恥を声に出して吐き出す。
周囲の人達はこう思った。
「あの先輩を翻弄するなんて、舞浜は一体何者なんだ……」
その頃彼は、例の森にいた。
森の入り口の広場でくつろぐ生徒達を横目に、どんどんと奥の方へ彼は進んでいく。
そして、またあの開けた場所へと彼はたどり着いた。
昼休みの喧騒とは無縁の、静寂に包まれた世界がそこにはあった。
彼は悩み事があると散歩をする癖があった。
いや、この時点ではもはやそれは悩み事ではなくて、決意に近いものだったのかもしれない。
彼は地面を見る。
あの時燃えていた灰が、若干だけ残っている。ほんと少しだけ。
彼はしゃがみこむと、その灰を手に取った。
そして言った。
「元通りに戻すこと、それは許されるのかな」
鳥が彼の頭上を滑空する。小さな灰は彼の手元から風で吹き飛ばされた。
「うん、そうだよね」
「もしそれが許されないのなら、新しいものを築いていくだけだ、それが僕の使命なのだから」
彼はその森を立ち去った。
踏みしめた足が、その都度に違う音を奏でていた。




