影響
春山言葉は秋里美咲に呼ばれて演説の行われる講堂へ行った。
彼女の中には戸惑いがあった。突然彼がよく分からない理由で演説をやめ、よく分からない理由で演説を再開したからだ。
「自分の演説に自信がない」
なんて言葉は、彼女にとってみれば信じられないことだった。彼の紡ぐ言葉は真剣そのものであり、またなにより彼はあれだけ多くの人を動かしている。
きっと彼はわがままな私から離れたかったのだろう、と彼女は初め思った。
そして彼女はあの書類を燃やした。
しかし美咲は確かに言った。
「舞浜くんが演説をやるから来てほしい」と。
彼女は多くを語らなかった。しかし、うっすらと微笑を顔に浮かべて、春山先輩に向かっていた。
彼の中で何かが変わった。そうに違いない。
――一度彼を断ち切った自分。だが断ち切るべき理由は、半分くらい消えてしまったような気がする。なぜなら彼は演説を嫌がることなく再び初めたのだから。
――もしかすると演説への愛は取り戻しても、自分への愛は失っているのかもしれない。だけど、それくらいのわがままは許してほしい。一度、確認するだけ……
その演説の場で、彼女はまたも絶大な力を持つ空気の震えに接した。
演説の中で、彼は「ジョハリの窓」の話をした。
――自分には見えないが、他人には見える自分……
――もし彼が今でも自分の演説に自信がないのだとしたら、まさしく演説の才能はそのカテゴリに該当するだろう。私はその魅力に気付いているし、他の大勢もそうだろう。
彼は前回の演説の「自分の力を最大限生かす」という内容にも触れた。
それは彼女の胸を打った発言だった。
そして、この言葉をもう一度聞いた彼女は思った。
「私、何やってるんだろう、舞浜くんに怒られているみたい」
彼女は一度、彼に遠ざけられてから、平凡な人間として生きていこうと決心していた。
しかし彼女も勿論愚かではない、彼女の持っているものが、多少なりとも他人の持っているものと異なることくらい理解している。客観的な思考を完全に欠いているわけではない。
だから、平凡に生きていこうという意思は、彼の前回の演説に照らせば、その内容に反していたと言わざるを得ない。
「私の才能……」
彼女の中には、才能というか、特徴、あるいは短所として彼女の美しさがあった。
それは人を遠ざけてしまうもの。彼女にとってそれは悪。
しかし、彼の言葉に従うならば、その悪である美しさも生かす対象に他ならない。
「厳しい言葉、でも……」
彼女はその言葉を綺麗事だとか、投げやりだとか、まして押し付けだなんて思わなかった。
その言葉は、確かに前回の演説において、観客多数に対して向けられた言葉ではあったが、彼女には、その言葉がまるで自分への直接のアドバイスのように聞こえたのだ。
彼女は、彼が彼女のことをよく見た上で、彼女にアドバイスをしたように感じたのだ。
――そんなの私の勝手な思い込みだよね。でも……
彼女は本当にそう信じていた。そう信じ込ませる力が、彼の言葉の中にあった。
彼女は思った、
「もし彼が、私の中に『自分には見えない自分』を見出してくれるとしたら……あるいは、もう既にそうしているのかもしれない……」
二人は、この瞬間確かに言葉を通して想いを通わせた。
彼の言葉は、彼女に宛てたものであったのだから……
その場は盛況のうちにお開きとなった。彼女は今にでも壇上にいる彼に話をしたいとさえ思った。
しかし、壇上に立つ彼の勇ましい姿を見ると、彼女の足はすくんでしまった。
「……どうして」
圧倒的な才能は他者を拒む。そう、それが今自分の前で展開されていること……
彼がステージから下りて、裏口から校舎に戻ろうとする。
「そっか」
彼女は気付いた。
「彼が私を遠ざける理由と同じだ」
二人は、圧倒的な才能に恵まれた者同士だった。
それがゆえに孤立を生む。
表面上の付き合いはできても、彼らは親しみを持って本性をさらけ出すことはできない。
なぜならそれは、好感の対象ではなく、畏怖の対象だから……
そんな中で、彼が唯一自分の本性をさらけ出すことを許された場所、演説なのだろう。
それでは彼女は、どんな場に立つべきなのだろうか……?
「下手であっても良い、不器用であっても良い」と彼は言った。
それならば、もし自分が今から見苦しくやり直そうと思っても、許されるのだろうか?と彼女は思った。
彼女の中の意識はこの演説の後で間違いなく変わった。
「何もできないからやめる」のではなく、「できることをしてみよう」という風に。
それでも再び彼と関わるという行為のハードルは低くはなかった。
ただ、彼女が一つだけ絶対心に留めておこうと思ったことがある。
「自分に自信を持つこと」である。
ありきたりのようでいて、才能の皮を被った絆を抱えていた彼女にとっては、このことはとても難しいことだった。
――自分の才能が何の役に立つか、まだ分からない。けれどもいつか必ず役に立つことがあると信じる。
彼女は自分の容貌を初めて好意的に捉えた。
ある日の昼休みのことだった。
一階の廊下には、一際注目を集める美少女の姿があった。
歩く彼女の背後からは後光が差し、頭頂部から足の指先に至るまでが(ここは流石に露出していないので見る人の憶測となるが)素晴らしいバランスで立脚していた。
そんな彼女の姿に目を奪われない一年生など、男女を問わずいるはずもなかった。
……彼のいる前では強がっていたものの、本当は、今までこうした視線だって彼女はあまり愉快に思ってはいなかった。
でも今の彼女は違う。人を惹きつける美の原像として、彼女は不釣り合いなくらい地味な廊下を堂々闊歩している。
だがその様はまるで気取ったようには見えない。むしろ普通に歩くよりもずっと特別感を与えて、今まで以上に彼女の美を際立たせた。
「あの先輩、また綺麗になった?」
そんな声が他の生徒から聞こえてくる。彼女は心の中で笑ってやる。
さて、彼女がわざわざ一年生の廊下にまで来たのは当然彼に会うためである。
彼女は今や周りの空気さえも味方につけている。自分の美しさを評価してくれる人間は、もはや敵などではなく、自分の仲間なのだと考えるようになった。
だから彼がいる教室の前までは、堂々と歩くことができた。
しかし教室の扉の前に立つと、彼女は手が震えて仕方がなかった。手が震えるのを周りから隠しながら、彼女は扉の小窓を堂々覗き込む。以前にも彼の教室に来ていたから、彼の席は分かるが……
いない。
焦る必要もないのに、彼女は焦ってしまう。なんだか今すぐにでも会えないと、この先当分は会えなくなってしまうように錯覚したのだ。
窓から教室をキョロキョロと見回すが、やはり彼はいない。
そのうち教室にいた生徒も彼女の姿に気が付き、扉を開けて、
「彼氏さんなら今出払ってますよ」
と言った。
「か、か、彼氏ではないの、別に、えっと、ありがとうね」
突然話しかけられたものだから、彼女は少ししどろもどろになってしまった。「彼氏」の部分はきっぱりと否定しなければいけないところを。
彼女は逃げるように早足で自分の教室へと引き上げる。彼女が誇り始めた完璧美少女像もそろそろ危ういのかもしれない。
なんだか一生分の勇気を使い果たしたような気分だったのに、それが空回りして、彼に会うのがより一層難しいことのように思えた。
しかしゴールだけは彼女にも見えていた。
彼の「他人にしか見えない部分」を、しっかりと支えてあげること。もしかすると彼もそのことに気付いたのかもしれないけど、それならそれで、彼に寄り添うこと。
自分にできないことであっても、もう片腕にはできるかもしれないのだから。




