燃える想い
日差しの強い一日だった。
季節はまるで夏、梅雨前の暑い時期に入った。
未だに冬服を来ている学生達は、少々暑苦しそうな表情をした。
新しく芽吹いた木の葉が風に舞う。そうやって飛んでいった葉は、風の力を借りて、空の彼方へ消えていった。
まるで意思を持った何者かに摘まれて、運ばれているかのように。
世界では未来の偶然が現在の必然へと遷移してゆく。
この二人の出会いも、初めは偶然だったかもしれない。だが次の瞬間からは、その出会いは必然となってまた新たな偶然の土台となるのである。
もしかすると、我々が偶然と読んでいるすべては必然の予定調和的なものなのかもしれない。
世界を構成する原子それぞれの動きはバラバラかもしれないが、全体としてはいつもバランスが取れてしまう。だから日常我々が目にする現象は常に再現可能なのである。
だが、もしもそのバランスが一時でも崩れることがあったのなら?
あるいはそれが予定調和の一種であるのかもしれない。
春山言葉は断ち切ることのできない心の鎖に繋がれているようだった。
彼女の頭から最早舞浜明の圧倒的な才能のことが離れることはなく、胸の内にぽっかりと空いてしまった穴はいまだ塞がることなく爪痕を残し続けている。
失いたくないと思っている内心、だが彼女は彼から離れることを強いられている。
なぜならそれが「自然」なのであり、世界の調和なのだから。
彼女がわがままに手を伸ばそうとしたもの、それをやすやすと手に入れることを、世界は許さないのだ。
たとえ内心が世界の意向に反していたとしても、行動として世界の意思は現前するだろう。
放課後の空はまだまだ明るい。暗い冬がもうすっかり遠ざかってしまった証左だった。
そんな中で、彼女はたとえ明るくとも見つかることのない場所にいた。
広い森の中にポツリと立つ東屋があった。
この周辺だけは木々も草花もない。それでいて人も居ない。
彼女にとって好都合だった。
――燃え広がることはない。
彼の心は余りに雑然としすぎていて、気がつけば虚無へと転じていた。
例えるなら、タスクが積み重なりすぎて思考停止に陥った人間。
余りにも忙しいために、「暇」という言葉を口にし始める人間。
彼はその虚無を紛らわすために、その森を歩いていた。
自分の殻を捨てたい自分と、その殻を求める一人の少女。しかしその少女に映し出された表情は決してコミカルなものでもなんでもなく、彼が今まで見てきたどんな表情よりも真剣である。お手本のような真剣さ、まるで人に感情を訴えかけるために生まれてきたかのような完全さであった。
結局の所そのどちらかは捨てなければならない。
彼が森の中の開けた場所に差し掛かった時、
光彩を失った彼の目には、一筋の鮮やかな焔が見えた。
「……燃え尽きちゃえ」
彼女が火にくべていたのは、お悩み相談の紙、講堂の使用許可申請書、そして何より愛好会の活動許可書。
「私には必要がないんだ、求めてはいけないんだ」
一筋の煙が棚引く。
弱々しく途切れる煙だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「でも私は、きっとこうでもしないと、あの人を断ち切ることなんてできない」
ただの紙を燃やしているからだろうか、中々燃えきらない。
彼女は何度も何度もライターの火をつけ直す。
いつまでも彼女の中にしつこく残り続ける彼を象徴しているかのようだった。
世界が予定調和の体系だったとするなら、個人の内心などいかなる意味を持つのだろうか。
それならば、内面の葛藤など意味のないことだろう。選ばれる答えは結局の所一つに決まっているのだから。
世界ではスケールが広すぎるというなら、人は自発的に動けない磁石のようなものなのかもしれない。磁石の向きは決まっていて、引斥の力は必然である。
抗えない力は抗いたい意思を平然と打ち砕く。
「私は、もう縛られることなんてない、たとえ自分の奥底からの望みであっても」
「私を束縛できるのは、ただ自由の理念だけ……」
「これさえ燃えてしまえば、もう私はただのフラットな人間になれる……」
彼女は必死だった。わずかに燃える火を、ただじっと見つめ続けていた。
それを見た彼は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
何かを燃やしている彼女の図がそこにはあった。
何を燃やしているのかは分からない。しかし彼女の必死な様子だけは伝わってきた。
「舞浜くんはもぅ……」
ごくごく小さくしか聞こえない呟き声の中で、一語だけ大きく発声された言葉があった。
「舞浜くん」彼の名前だった。
彼は知った。何もかもを断ち切ろうとしているのが、今の彼女であること。
それならば、彼はどうするべきか?
彼女の望み通りに、彼女の前から消えるべきなのか?
しかし彼は見ていた。苦しそうに沈んだ顔をする彼女の姿を。
その姿を目に焼き付けて、そっと彼はその場を去った。
立ち去る彼の後ろで、一筋の煙が森を突き抜けた。
彼はゆっくりといつもの門へと歩いていた。
衝撃的な彼女の姿を見た彼は、意外にも冷静だった。
他人の衝動には、人は意外と冷静になれるものなのだろうか。
まだまだ空は明るい。
今日も何の変哲もない日常が、この世界では続いている。
今自分が立っているこの場も、世界から見れば所詮は取るに足らない一ページに過ぎないのだろうか、と彼は思った。
「分からないよ、何が正解かなんて」
「歩いてみて初めて振り返ることができるんだ、歩いてきた足跡は」
走り去るように駆けていく少女がいた。
その燃え尽きた灰から、何の力もない燃えカスから必死で逃れるようにして、制服のまま駆けていく少女がいた。
森の中で風を切るように、彼女は走った。
光の速さを超えれば、最早誰にも見られないし、誰も私を追えないだろう。と彼女は考えながら走った。
彼女は孤独だった。一人静かな場所を駆けていた。
駆けていくうち、狭窄した視界の中に彼女は一人の人の姿を捉えた。
木々の中に潜んでしまおうかとも思った。
そう思った矢先、彼は振り向いた。自分の歩んだ道を、振り返ったというべきかもしれない。
目と目が合う。顔を見合わせた二人の男女のワンシーンを切り取るかのように、鋭い風が二人の間に吹いた。
その風の音こそが、何かが始まった音だった。
「へっ?」
彼は驚いた。だって、まさか彼女が走って自分の所まで追いつくとは思っていなかったから。
「えっ?」
彼女は驚いた。まさか彼がこんな所にいるとは思わなかったから。
首だけ振り返っていた彼は全身を彼女の方に向ける。だが、なんの言葉も口をついて出てこなかった。
彼女は駆けていた足を止める。だが、なんの言葉も口をついて出てこなかった。
「春山先輩、どうかしましたか?」
彼は機転を効かせて見なかったふりをする。彼の顔は俯いていた。
「い、いいえ、特に。急用を思い出しちゃって」
お互いに取り繕う。
彼女も本当は分かっている。こんな場所を彼が歩いているということは、書類を燃やしていた自分の姿をおそらく見ていただろうということ。
「そ、それじゃあ、またね」
「え、ええ」
無意識なのだろう、別れの挨拶は「また」だった。
彼女のコンパクトに結んだ髪が美しいシルエットを見せている。
両端を木々で縁取ったキャンバスの上で、走る彼女が遠近法で小さくなってゆく。
その姿はどうしようもなく馴染んでいて、どうしようもなく不自然な光景だった。
遠ざかる彼女の姿が、彼にはなんだか怖かった。この先は校門へと抜ける道のはずなのに、彼女は森に迷い込んで永遠に帰らなくなるのではないかと彼は思った。
――これほどまでに怖くなるのなら、どうして僕は手を差し伸べなかったのだろう。
「追いかけなくちゃ、駄目なのかな」
本当に走って追いかけるのがヒーローなのだろう。だが彼はそうはしなかった。
違うのだ。彼女はヒーローに保護されるべき存在なんかじゃない。
彼が「助ける」のではない。彼が求めずにはいられない、神秘なのだ。
しかしこの時彼の中に一つの考えが生まれた。
「凡人が神秘を追いかけること、それの一体何が悪いのだろう?」
神秘は分からない。分かろうとしても分からない。
それを不器用ながら追いかけること、それは恥であるかもしれないが、罪なのだろうか?
そう思って、彼は新たな一歩を大地に踏み出した。




