逃れられない
新緑の季節に吹く風は穏やかで、各々が織りなす青春模様を静かに見守っているかのようだった。
活発にはしゃぎながら通学する女子高生の群れ、待ち合わせていた友に手を振る男子高校生の爽やかな姿、一人穏やかに澄んだ空気を浴びながら登校する学生たち。
石畳の歩道に溢れる人々の姿はどれも清々(すがすが)しく、五月病なんて言葉が虚構のように思える。
青空にかかる白い雲の筋が、ビルの角を包み込んだ。
何の淀みもない歯車は、今日も今日とて回り始める。彼女の心情を反映しているがごとく。
何も背負うものがなくなった彼女にとって、この世界は気楽なものだった。
この場で起きる予測不可能な出来事――例えば風、木々のせせらぎ、鳩の行進、そして人の流れ、そのすべては彼女の敵ではない。彼女を飽きさせない世界の工夫だった。
自然の中にそびえ立つ今日の校舎はなんだか眩しく、晴れやかな天気によく映えている。この大きな建物の中に、今日も人の営みが詰め込まれていき、やがて新たな創造へと繋がっていく。彼女の心は高揚していた。何の変哲もない日常が、常に流転するかけがえのないものに感じられて。
教室の扉を開く。いつものように感じる変な視線は、今日は余り気にならない。
だっていつまでも続くものなんて無いのだから、変わり続けるからこそ、この世界は尊いのだから。
また彼女はいつもの窓際の席に着く。今日は登校した時間が少し早かったようだ。
廊下を通り掛かる人の足音が心地よく響く。
その中には、彼女のよく見知った人のものが混じっていた。
「言葉、おはよう」
「おはよう、美咲」
窓から差す日差しと春山先輩の微笑が重なる。
秋里先輩はこの姿を見て、驚いた。
「今日はやけに元気そうね」
「そうかもね」
と言いながら、春山先輩は鮮やかに半周ターンしてみせる。
彼女は秋里先輩に背を向ける形で、開いた窓のサッシに手をかけた。
「なんだか楽になったの、変なしがらみから解放されてね」
「しがらみって、舞浜くんのこと?」
「へっ?」
驚いた春山先輩はもう半周して秋里先輩に方に振り向いた。
しばらく目線を下の方に泳がせて、春山先輩はこう言った。
「違う、彼は関係ない」
――違う、これは私が自分のわがままを手放しただけ、彼は関係がない。
「本当に?」
「本当」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。本当に、彼の存在は関係ない。彼は彼なりにやればいいと、私が思っている。今は、私が、自分の執着から、抜け出しただけ……
「彼との間に何も無かったの?」
「ええ」
彼女は嘘を吐いた。反射的な嘘だった。彼女は彼の存在を頭から消したいと、心からそう思っているのだ。
「……本当に、放っておいてもいいの?」
秋里先輩は鋭い目つきで言った。彼女を問い正すかのごとく。
まるで全てを見通されているかのようだった。
秋里先輩は春山先輩と彼の間であったやりとりを知るはずがない、それなのに彼のした選択を知っているかのような聞き方をする。
そして、その言葉はかなり春山先輩の心を抉った。
――そうだ、美咲は彼からこのことを聞いたんだ、そうに違いない。
彼女はそう思い込むことにした。秋里先輩が、彼女のことを思って鋭い洞察を働かせているという事実を無視して。
「もうあの子は関係無い。私が変な好奇心で振り回すのも、良くないことだもの」
「そう思うならどうしてあの頃愛好会を作ろうなんて言ったの?」
「へっ?」
春山先輩は虚を突かれたかのように呆然とした。
「言葉があんな風に人に興味を持つなんて、今まで無かったことじゃないの」
「それがそう簡単に捨てられるものだとは、私は思わない」
「美咲、もうやめて」
春山先輩は眉を立てて、お手本のような怒り顔をぶつけた。
「言葉が本当にそうしてほしいなら」
秋里先輩は真剣な表情で言った。
「ごめん、ちょっと外すね」
髪を揺らして早々と春山先輩は去っていった。
秋里先輩は、彼女が去った後を返り見た。
「何も知らない私が勝手に知ったような口を聞いていいのだろうか」
秋里先輩はそう呟いた。
どんなに自分が愚かだと思っていても、春山先輩を分かろうとすることを、彼女はやめられなかった。
春山先輩の内に残ったのは、出処の分からない焦燥だった。
洗面所のいやに冷たい水を顔に浴びた。
なぜだろうか、彼女は自由でなければならないと思えば思うほど、強迫的になってしまう。
――舞浜明などもう関係無い。彼も私も元の状態まで戻るべきなんだ。
そうやって彼を遠ざけようとするほど、彼が高らかに演説する姿が彼女の脳内に立ち現れる。
解くことのできない呪縛や、焦燥、憧憬、嫉妬、失望といった感情の渦巻きが彼女を包み込む。
それは出会ってはいけないものだったのかもしれない。
その出会いは、単なる新情報の登場ではなかった。
彼の姿は彼女の心の中にまで絡みついて、解けなくなった。
彼女をさらに急かすように朝礼の予鈴が鳴った。
彼女は気付いた。
これは――私のわがままなどではない。
――私は無理やり引きつけられてしまった、底の見えない強大な力に。
彼の圧倒的な才能を、彼女は無視することができない。
彼は、自分の才能の呪縛から逃れたふりをしていた。
平凡な家、平凡な空、平凡な通学路、平凡な校舎。
彼は自分が全て平たく統一された世界にいるのだと思い込んだ。
そしてその中に彼は必要ない。居ても居なくても良い交換可能な存在として、これからは振る舞おうとしていた。
春山先輩が折角自分の才能を認め、愛好会なんて奇抜なものを提示してくれたわけだが、結局のところ自分が演説をするかしないかは自分だけの問題だと彼は考えていた。
自分以外の人間に大きな影響を与えることはない。あるとすれば、期待が裏切られたという失望くらい。それだって自分が築き上げた虚構の名声を、自分で放棄しただけに過ぎない。だからこれは自分だけの問題だと彼は考えた。
平凡な人間らしく、彼には平凡な友人がいる。
彼らは、彼の演説の話をむやみやたらと持ち出すことはない。ゆえに、彼らと関わっている限りはそのことをあまり考えなくても良い。
自分の人生を取捨選択することの何が問題なのだろうか。
――僕には確かに特性があったのかもしれない。だがそれは本当の意味での才能ではなかった。
届かない言葉に思い悩むくらいならば、届かないことを受け入れて、平凡に生きればいいのだ。自分の本心さえ分からない人間が、何か価値あることを人に伝えようなどと思うのは、一種の強欲のようなものだ。
今でも当然その強欲の帰結が見える。
「あ、あの人って確か演説で有名な……」
「感動しちゃったな~」
廊下を歩いているとしばしばそういうヒソヒソ声が聞こえてくる。
期待をしてくれている人間には悪い、とは思いつつも、彼は自分が物事を捨てる自由を行使しようとしていた。
だが。
「あの人って、ものすごく美人の先輩と付き合ってる人だよね」
「しかも優等生の先輩だよね、流石あれだけの演説をするだけのことはあるよ」
「人気者同士のカップルだね~~」
そんな風に言う無知な一年生の声が聞こえてくると、彼は心の中で「違う」と反発してしまう。
二年生の間では彼女はどう捉えられているのか、彼らは知らない。
それが単なる魅力ではなく、他を超越する、孤高で圧倒的な美であるということ。
そして、その卓越性ゆえに彼女は普通の人間から遠ざけられているということ。
その畏怖にも値する才能は正しく評価されない。
そして、
その彼女は、彼の言葉を求めたのである。彼がそれを綺麗事と切り捨てた後も。
初めは彼女も自分の言論的扇動の被害者なのかもしれないと思っていた。
結局の所、綺麗事に惑わされる愚かな人なのだろうと思っていた。
違う。
彼女は本当に必要としている。
その言葉を。
それは、今までの彼女の顔が、その圧倒的に他者への訴求力を持つ絶対的な美が、そう語っていたのだった。
その事実を、彼は無視することができない。
彼女の圧倒的な才能を、彼は無視することができない。




