選択
秋里先輩の一言は、彼に重くのしかかった。
春山先輩が、彼に一体何を見ているのか。それが彼女に一番近い人間にも、彼自身にも分からないのだ。
「人間は分かり合える」なんて綺麗事が、いかに愚かなのだろうと彼は思った。
どんなに近くにいたって、どんなに長く時間を共有したって、肝心なものは何も分からないじゃないか。
他人を理解できるという思い上がりに対する彼の憎悪は、ますます増していった。
彼は日の傾いた学校から帰ろうとした。
通りがかった池の水には、波紋が広がっていた。
彼は図書室に行くために、校舎の二階に上がっていた。
この広い学校には、図書館棟が図書室にあり、膨大な蔵書がそこにあるわけだか、何分生徒が立ち寄るには遠すぎるため、この図書室にも多くの本が保管されている。
図書室にある本だけを見ても、学校図書館の蔵書数からすれば十分すぎるくらいだ。
やはり優秀な学校だけあって、図書館はいつもかなり盛況なわけで、彼もそこに向かおうとしていたのだ。
それは彼にとっては日常であった。永遠に解決しそうにない春山先輩、そして自分自身の問題からの現実逃避であるはずだった。いつも通り、何も目新しさのないルーティーンを繰り返して、問題を先送りにする行為であるはずだった。
不幸にも、彼は図書室に向かう途中でこんな声を耳にしてしまう。
「お、あいつ、春山に付きまとってる物好きじゃん?」
彼とすれ違った二人のうち一人が言う。
もう一人は小声で「シッ、聞こえるだろ」と静止した。
彼には確かに聞こえていた。
今まで、自分と春山先輩のことで思い悩むのが精一杯で、彼は他人が実際に自分達をどう見ているのかなんて考えたこともなかった。
あのすれ違いざまに彼が言われた一言は、残酷なようでいて自然な言葉だった。
確かに春山先輩は、上級生の間では近寄りがたい異質な人物として扱われているのだ。その人間と、一緒に愛好会なるものをやっている彼が、そういう目で見られるのは自然なことではあった。
「自分を客観視する」ことが重要なのであれば、この残酷なメッセージについて真剣に受け止めるのが誠実な対応なのかもだろう。
でも彼はそうはできなかった。
――確かに自分は変な人間かもしれない。でも、彼女の、まだ日の目を見ていない素晴らしさは、自分の思い込みなんかじゃなくて確かなものだ!
彼は反発した。一度自分が彼女のパーソナリティを勝手に構成することを、「思い上がり」として退けたにも関わらず、なお彼女に純粋な内面的魅力があるという直感を捨てきれなかった。
すれ違ってその言葉に内心反発した彼は、通り過ぎていく二人組を横目に、立ち止まってぎゅっと唇を噛み締めた。
なぜ自分はこれほどまでに彼女に拘泥してしまうのだろうと彼は思った。
そう考えて、彼は、彼女に話しかけたいと思った感情の原点を思い出した。
「純粋さ」も確かにその理由の一つだった。
しかし、一番重要だったのは、
「どうしてこれほどまでに美しいのに、普通に振る舞えてしまうのか」ということだった。
純粋そうな言葉を使う人間など世の中に数多いる。いわゆる「天然」と呼ばれる人種もそうだろう。
まして一回のスピーチで多少変則的な喋り方をしたことくらいで、その人に異様なまでの興味を持つことはないだろう。ただ単に彼女は「そろそろ締めますね」と格式ばらない話の終わらせ方をしただけなのだ。
しかし、美しさとなれば話は別だ。もちろん、彼からしても世の中に魅力的な女性は多くいる。その中に、いわゆる「容姿端麗」の部類の人間も多くいる。
けれども、見る人を完全に固まらせてしまうような絶対的で、非人間的とまで言える美こそが、彼女が持つ最大の特徴だった。その能力を彼女がどのように御しているのか。それが彼の興味の対象だった。
彼は今でも自分の能力を扱い切れていない。それどころか、この能力は役立たずでしかないのだろうかとさえ思っている。
そんな彼にとっては、普通の人間のような振る舞いをしている彼女は、道しるべのように思えた。
しかし実際の彼女の姿はそうではないのだ。彼女が現状に満足しているか否かという、さっきまで散々彼が悩み抜いてきた議論は置いておくとして、少なくとも彼女は普通の人間として振る舞っているようには見えない。
彼女が彼にとって普通の人間に一瞬見えたのは、「全校の前でスピーチをするような模範生」の一般的イメージに形式上彼女が重なっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
そう、だから彼がここで取るべき反応は、苦悩ではなく幻滅なのだ。彼女の姿は、彼が抱いた第一印象とは違っていた。ただそれだけなのだ。
だが彼は彼女のことを忘れ去ることは到底できない。
なぜなら、彼にとっては幻滅よりも、自分と同じ境遇の人間に出会ったことの方がはるかに重要なことだからだ。
彼は確かに彼女に出会った。けれども、彼女の本当の胸のうちは、そう簡単には知ることはできない。
手に入り難いものほど、貴重に見えてしまうのだ。
では、そんな貴重なもののために、彼には一体何ができるだろうか。
「分かりたい」と思う心と「分かることなどできない、それは思い上がりだ」と思う心がせめぎ合っていた。
「舞浜くん」
春山先輩が陽気に手を挙げながら彼のもとへ歩いていく。
彼も最早人目など気にしなくなったのだろうか。いや、それとも気にする余裕さえないのだろうか。
彼女は椅子に腰掛けて、結んでいない自分の長い髪をかきあげた。
ここは放課後の食堂のテラス。この時間でも人はまばらにいる。
この学校も設立されてまだ一ヶ月程度だというのに、ここにはもう数組のカップルがいる。雰囲気の良い場所だからだろうか。
学校の周りは人工的なテイストの強い都市担っているが、この敷地の中は自然あふれる優雅な場所。そういう浮ついた人達が集まるにはもってこいの場所である。
そんな雰囲気のところにあって、二人はとても目立っていた。特に春山先輩の方。
「どうも、お越しいただきありがとうございます」
「いえいえ、そんなに固くならずとも。それで、ご用件はなんでしてよ?」
丁寧な言葉遣いのベクトルを間違えている彼女は今日も愉快だ。彼女の二年生の間での評判を聞いている彼は、毎度のことながら不思議なものを見ているかのような感覚に襲われる。
「演説会の件ですが……」
「もう演説会はしたくありません」
彼はきっぱりと宣言した。
「えっ……?」
「特に応援してくださった春山先輩には、しっかり伝えなきゃなと」
「……」
彼女はその美貌のうちに困惑の色を混ぜていた。
彼女の理解が進むに連れて、その色はもっと強いものへと変わっていく。
夕焼け空が闇へと変わるように。
「どう……して?」
彼女は明らかな動揺を見せていた。彼は心が傷んだ。
「自分の力で、他人を良い方向に動かせる自信が無いんです。僕の言葉は、ただ耳障りがいいだけのものに過ぎません」
「そ、そんなことない!」
彼女は机から立ち上がった。周りの人間の視線が、なお一層彼女のもとへ集まった。
彼もここまでの反応は予想しておらず、体と椅子を反射的に引いて驚きを顕にしていた。
「それじゃあ、私の見たものはなんだって言うの……」
「あなたは確かにこの前言った」
「『自分の力を最大限に活かしなさい』って」
「それはあなたにだって言えることでしょう!?」
「僕だって活かせるものは活かしたい、でも空回りなんです」
「僕の言葉は、人を傷つけてしまうような、そんな諸刃の剣でもある」
「そんなものを振るって、さも何か良いことをしているふりをするのは、間違っている」
彼はきっぱりと伝えた。自分が彼女の心を傷つけたのだと、そう認めた瞬間だった。
思いあがりなんかじゃない、状況証拠だって揃ってる。頭の中だけであれこれ考えたことで、人の心を正しく把握することを放棄するなんて、間違っている。
「それじゃあ、私が見たものはなんだったの?私が私の力を発揮できる、そんな素晴らしい希望を、あなたは私に見せてくれたはずだったのに!」
彼女は叫ぶように言った。
彼は誤った選択をした。




