お前は誰だ
「それじゃあ放課後、この前と同じ活動場所に集合ね」
「え、ええ」
先程から彼は数文字ずつしか話すことを許されていない。
まず、「それじゃあ」というのがおかしい。さっきまで怒っている演技をしてたのなら、それを貫いてその追求を続けるのが一般的な行いだ。
つまり、彼女が先程述べた怒りの文句が単なるからかいであったことを彼女自ら高らかに宣言しているのである。
本当に深く彼女を傷つけてしまったと思っていた彼にとっては、この反応は驚くべき出来事だった。
彼女が何を考えているのか、彼には全く分からなかった。
理科棟の地学準備室に向かう彼の気持ちは、初めて彼がそこにいったときとほとんど違わなかった。この先で何が起こるのか分からない。春山先輩という人間を表面上は多少理解したつもりだった彼だったが、先程の会話で何もかも分からなくなってしまったのである。
「こ、こんにちは」
初めてこの部屋に入った時と同じように、彼はおそるおそる扉を開けた。
その部屋には前回と同じく春山先輩、そして今度は名前を見知った女性が座っていた。秋里先輩である。
春山先輩が口を開くまでの時間を、彼は何十秒にも感じた。実際には彼が部屋に入ってほんの数瞬後だったのに。
「待ってたよ、隠れ身のヒーローさん」
複雑だった。彼が隠れ身をしていたのは、別に彼が称賛されることを恥ずかしく思ったからではない。彼女の心を傷つけてしまっただろうと感じて、彼女に顔向けできなくなったからなのだ。
第一彼女の方からも、先週彼に連絡は一切なかった。このことがさらに彼の罪悪感に拍車をかけた。
けれども、彼の目の前にいる彼女は冗談めいた口調であんなことを言う。
それでは、彼が今すべきことは何なのだろうか?
「連絡せずにいて、すみません。出来にあまり自信がなかったもので」
嘘ではなかった。確かに彼は、自分の演説が最悪の出来だと思って愛好会から去ろうとしたのだった。
春山先輩は秋里先輩に目配せしながら目を見開いている。
「ま、まさかあの歓声を聞いておきながら自信がないだなんて……?」
秋里先輩は苦笑いをして応じる。その苦笑いは、一体何に対してのものなのだろう。
春山先輩は続けて言った。
「どれほどのプロ意識なの?恐れ入ります、師匠」
「は、はあ」
またも彼は二つ返事のようなものを強いられる。彼は春山先輩にこう言ってやろうかとさえ思った。
「あなたは自分が傷つけられたことすら分かっていないのか」と。
もちろんそんなことは言えない。
春山先輩が、自分の能力で苦しんでいるのだと、彼は勝手に思っている。けれどもそれは間違いなのかもしれないと彼は疑わざるを得なかった。
自分の能力で苦しんでいる人間など、彼くらいなもので、春山先輩は人から多少遠ざけられることなどものともしておらず、むしろ悠々自適とその境遇を楽しんでいるのかもしれない。
だとしたら、自分はまたとんでもない思い上がりをしてしまった、と彼は思った。人の心なんてそう簡単に分かりようがないのに、それを勝手に分かった気になる。傲慢の大罪である。
「それじゃあ次回の演説会の予定だけど」
春山先輩が予想外の言葉を発した。実際には、この流れからして自然な言葉ではあるものの、彼女の本心に悩む彼からすれば突拍子もない言葉でしかなかった。
彼にとっては、演説などもうやらないということが当然の選択肢である。その上で、彼女の気持ちがどんなものかを推し量ることが、彼にとっての問題だったのだから。
彼は思わず秋里先輩の方を見やった。他人の思考のリソースを借りずには最早いられなかった。
秋里先輩は先程と同様、ただ苦笑しているだけだった。
「水曜日にしておいたから。美咲は大変だと思うからポスターの図案は使い回しでいいよ」
「ええ」
秋里先輩は、いつもより少しだけ暗いトーンで答える。
「どうしたの?美咲、今日はいつもより元気無さそうだけど?」
「ううん、そんなことはない」
「ならいいんだけど、何か悩みでもあるなら遠慮なく言ってね?」
彼から言わせれば、その台詞を言いたいのはむしろ彼の方だった。
「それじゃあ、明くんは今回も大丈夫だよね?天才だし」
「天才」という言葉が彼に重くのしかかる。違うんだ、そうじゃない、彼は心の底からそう叫びたかった。
けれども、その言葉を理性で封じ込めた時、彼には代わりの言葉がなかった。どうしたら良いのか、もう彼一人では判断できなかった。
「……考える時間が欲しいんです」
「ああ、いくら明くんでもここまできついスケジュールじゃだめか。ごめんなさい、ちょっとわがままを言っちゃって。どうしても明くんの演説を聞きたくて」
――違う、わがままなんかじゃない。問題はそんなことじゃないんだ。
「講堂の許可はいつでも取れるから、気にせずゆっくり休んでね、私達はあくまで脇役に過ぎないんだから」
その脇役は、彼にとっての主役だった。
「それじゃ、今日は解散でいいかな」
「言葉、鍵は私が持ってくから」
「そっか、ありがとうね、美咲」
「それじゃあ私はお先に失礼します」
春山先輩は、完璧な笑顔で過ぎ去っていく。作り笑いにはどうも見えなかった。
「……その、私には何も分からないのだけど」
春山先輩が去った後、秋里先輩は口を開いた。
「何かあったん……だよね?」
彼はしばらく悩んだ。部屋の中には重い沈黙が漂う。
「まあ……そうかもしれません」
「やっぱりそんな気がした」
秋里先輩はとても聡明な人だった。悩んでいる人を瞬時に見抜いてしまう。
「私は聞かない方がいいかな?」
「……」
「無理はしなくて良いんだよ?」
クールな秋里先輩の見せた優しさに心を震わせながら、彼は悩んでいた。自分がどう振る舞うべきなのか。
そう考えると、春山先輩のことを一番身近で知っている秋里先輩に、このことを話すのが正解のような気がした。
「実は……」
ついに彼は口を開いた。
演説で自分が受けた感触のこと、その内容が春山先輩を傷つけてしまったこと、一度自分がこの愛好会を抜けようとしたこと、そして、彼女がなお平然と振る舞っていること。
特に最後。これは単なる事実であるだけでなく、彼の頭に付きまとう最大の疑問だった。
最も春山先輩と親しい秋里先輩になら、分かるかもしれないと思った。
秋里先輩は首元に手を当てて、目線を斜めに泳がせながら、じっと考えた。その時間が、彼にとっては幾万秒にも感じられた。
「……ええ、やっぱりか」
「何か分かったんですか?」
彼は期待しながら、机に少し身を乗り出して聞く。机が少しだけ揺れた。
その揺れが収まった頃に秋里先輩は言った。
「何も分からないということが分かったの」
その時確かに時間が止まった。
「確かに私は言葉のすぐ近くで生きてきた」
「言葉がどういう人間か、一般的なイメージとどう違っているのか。そういうことなら、少しは理解しているつもりでいる」
「だけど」
「私だって感じることがある。見えない心の奥底が、言葉にはあるってこと」
夕日が傾きかけていた。煮え切らない決着を催促するがごとく。
「私は、今回のことについて言葉が何も感じていないなんて思わない。知っての通り、そういうあなたの演説の中身に気付かないほどあの子は馬鹿じゃない」
「でも、本当に本当の本心は、どうしても、私にも、読めない」
悲しそうに秋里先輩は言った。
「不思議だよね、どうしてこんなに近いのに、こんなにも遠く感じるんだろう……」
「分からないの、あなたが絡むと特に」
「言葉は、あなたに一体何を見ているのか……」




