欺瞞と失望と作り笑い
彼は自分と観衆の両方に失望した。
この演説で述べたことには、結局のところ彼の心など何らこもっていない。ただ形式上の言葉遊びをして、人々を扇動することに終始するだけのものだった。
強い言葉や印象に残る言葉を使い、中身のない内容、少なくとも本心がこもっていない内容を延々と述べ立てただけだった。
これに何の意味があるというのだろう。
彼は確かに演説の最中熱心であった。けれどもその熱心さは、自分の考えを真摯に伝えようとする誠実さではなく、他人を自分の手のひらで踊らせようとする野心だった。
ここに来て、彼は自分の有能さと無能さを同時に自覚した。彼は確かに他の人間を動かすことができる。
けれども、彼にできるのは単なる言葉遊びにしか過ぎない。あるいは言葉という名の剣を尖らせて、それを他人に見せびらかすことに過ぎない。
果たしてそこに意味があるのだろうか?
ーー本当に伝えるべき言葉を、伝えるべき人間にもたらす力が、果たして自分にはあるのだろうか?
大歓声が湧き上がる観衆の中、ただ一人俯いている一人の美少女の姿があった。
「自分の能力を最大限に発揮しよう」なんて、たいして価値のないアドバイスであるだけでなく、無責任だ。
「人間は、全てにおいて凡人であるほうが難しい」
響きのいい言葉で、演説向きではある。しかし本当にそう言えるのか?人が誰しも突出した力を持っているだなんて、一体誰が保証できるのだろうか。
それだけならば、彼は無能な自分に失望するだけで済んだのかもしれない。
しかし、事はそれだけでは終わらなかった。
……彼に罪悪感を抱かせたのは、先程の演説で彼がまさに感じたことだった。
「自分の能力に苦しめられる人間がいる」ということ。
それは、自分の言葉が単なる扇動に終わってしまった、彼のことである。
そして、
とてつもない自分の美貌に翻弄される、春山先輩のことでもあった。
彼は自責の念に囚われた。
人を傷つけるための言葉の力ならば、いっそのことない方が良い。
彼は決めたのだった。
もうステージには立たないと。
クラスに帰った彼は、同級生から口々に賞賛の言葉を浴びせられた。彼が愛想笑いを浮かべる度に、彼の心はずきずきと傷んだ。
彼を褒め称える人の数が、まさしく彼が無用の、ひょっとするとマイナスの言葉を投げかけた人の数だったからだ。
もう愛好会に行くのはやめようと思った。
彼は、もし次回の活動の連絡が入ったら、その場でやめる意思を伝える予定だった。
しかし火曜日も水曜日も木曜日も、春山先輩からの連絡は無かった。
ひょっとして、この前の演説に失望して自分の方が見限られたか、と彼は思った。
だとしたら好都合かもしれない、彼が愛好会から抜けるのに罪悪感を感じる必要が無くなるからだ。そうなれば、彼にのしかかっていた暗黙の責任は晴れ、彼への過剰な期待は効力を取り消され、彼は再び平凡な人生を歩むことができるのだ。
しかし、彼が考えたのはそのようなことだけではなかった。
もしも、彼女が彼の名を再び呼ぶことがあったら?
彼は、自分が彼女の心を傷つけてしまっただろうと思っている。演説での無責任な言葉によって、精一杯に生きる彼女を否定してしまったと思っている。
だからこそ、彼はもう一度彼女に向き合うべきであるような気もしたのだ。
自分にそれが叶うのであれば、の話だが。
そうして彼が悩み抜いているうちに、その週は終わった。
先送りの日々が続いていく。
月曜になった。入学直後は色付いていた通学路は、桜の具合のせいだろうか、彼には色褪せて感じられた。
彼は近代的なビル群を眺めた。すると、自分がこの世界の有象無象のパーツの一つとして、埋没していくような感触を覚えた。
大きなビルを支えている、一つ一つの小さなパーツ。それに価値がないわけではないが、小さなパーツは、自分の外の世界に何か大きな影響力を与える効果は持たない。ただ大きな役割を支える、交換可能な存在に過ぎない。
彼は一度、自分がもっと大きな存在に見えたことがある。
自分の外の世界が、自分によって変えられていく。ただの世界のパーツではない、区別された存在に。
だが、結局のところ自分はただ大きいだけのパーツだった。確かに周りに与える影響も多少はあるかもしれない、だがそれ以上に大きな事実は、パーツは所詮、全体の目的に叶う都合の良い存在でしかないことだ。
結局、彼は自分の内から発する言葉を伝えることはできなかった。ただ、世界の要求に叶う綺麗事を並べる機械でしかなかった。
しかし、これで良いのかもしれないと彼は思った。
そもそも、彼は他人を変える力などには気付かず生きてきた。それで満足していた。ただその状態に戻れば良いだけなのだ。
その強欲こそ、彼の言葉を汚しかねないのだから。
ならば、力のない純粋な言葉を操る存在に戻ってしまえばいい。
斜め上の出来事と言うべきことだろう。
頭の中であれこれと考えていただけの彼にとっては、理解することさえ難しい出来事だった。
「舞浜くん、いるー?」
四月も終わりに差し掛かった週の月曜日の昼休み、彼は驚くベき光景を目にした。
教室の後ろの扉から顔を覗かせた女子生徒は、紛れもなく春山先輩だった。
教室内の生徒は驚かずにはいられない。舞浜と春山先輩の噂が最も盛んなこのクラスにあっては、当然のことだった。
今日も美少女最前線を行く彼女は、一目を惹き付けるのにこれ以上ない存在である。
舞浜くんは、賑わう教室の傍らでただ固まっていた。
「ちょっと、舞浜く〜ん?無視しないでよ〜」
「舞浜、美人の彼女を差し置いて何をする気だよ〜?」
野次を入れられて彼はようやく目を覚ました。
機械のようなカクカクの動きで彼は春山先輩のもとへ向かう。
「ど、ど、どうしました、春山先輩?」
「もう、この前の演説から一回も連絡してなかったじゃない、そろそろ次の活動をしないとね」
彼にとっては、彼女が平然と次の活動の話をしてくることが不思議でならなかったが、それ以上の疑問、いや不満があった。
「それはそうかもしれませんが……ではなぜわざわざ教室まで?」
「なぜって、せっかく同じ学校にいるんだから携帯で連絡取り合うのは他人行儀じゃない?」
「そ、そうですかね?」
「そうそう」
この「そうそう」には、数人他の生徒の声も混じっていた。
「しかしですね」
「うん?」
「春山先輩は、一目を引きすぎます、正直言って恥ずかしいです」
周りの人間は「まだまだ初々しいカップルだなぁ……」としか思っていない。
しかし彼は、この台詞を言った瞬間に、「しまった」と思った。
彼は、言ってはならないことを自分が指摘してしまったような気がした。
彼女も、自分と同じ「自分の能力に苦しむ人間」なのだ。それもよっぽどひどい。
彼女は露骨に悲しそうな顔をした
俯きがちに、今にも泣きそうな表情をしている。
最早、自分が彼女のもとから去るのは決定的だと彼は思った。
「そんな……」
「……」
「そんな……」
「私が一緒に居て恥ずかしい人間だなんて!私はあなたのことを立派な人間だと思っているのに!!」
「は?」
思わず声が出た。
オーディエンスは「あーあ、やっちゃたよ」という空気を漂わせている。なぜだ、君たちはあれほど二人のやりとりを熱心に聞いていたじゃないか。それならば、そんな文脈でなかったことくらい分かるだろう?
おそらく、周りの人間のそうした反応は、整った顔で表情豊かな彼女のする迫真の演技によるものだろう。
しかし彼には見えていた。
その悲しみの中に含まれる微笑が。
やっぱりこの人は苦手かもしれない、彼はそう思った。




