技巧と虚構
「ま、まあとにかく、今は演説会のことを考えましょう?」
秋里先輩は気まずそうに切り出した。
「は、はい……」
「と言っても会場の手配は言葉がやってくれているから、後は広報だけなんだけど」
「実はポスターはもう作ってあるから、特にやることもなさそうね」
そう言って彼女は一枚の紙を取り出した。
「あまり凝ったことができなくて、申し訳ないけど、これでいいかな?」
確かに、「舞浜 明 演説会」という字が可愛らしくレタリングされている以外は、特に変わったところもない。
「ええ、しかし、本当に仕事が早いですね……」
自分の名前が書かれていることに照れくささを感じながら、彼は答えた。
「いえいえ、これくらいは大した手間じゃないよ」
「ありがとうございます」
話しぶりといい、仕事ぶりといい、秋里先輩にクールな印象を彼は抱いた。
「それに……」
「それに?」
「言葉が気合い入ってたみたいだったから……」
なんだか自分が春山先輩に過大評価されてるようで、彼は恥ずかしく思った。
しかし、「言葉」という名前が出てきて、彼は穏当な気分で居続けることはできなかった。
その日の愛好会は、これでお開きとなった。
帰途、夕日に包まれる近代建築群を眺めながら、彼はセンチメンタルな気持ちで歩いていた。それは、複雑になった自分の胸の内を、膨大な情報量で誤魔化すがごとき行為だった。
それでも一度火がついた思考は再び再燃してしまう。
彼が春山先輩のうちに純粋さとか人間らしさというようなものを見出したのは、せいぜい第一印象においてのことでしかなかった。彼は彼女がスピーチをする姿を見て、そういうことを感じ取ったからだ。
とすれば、彼が唾棄している、先入観で彼女を遠ざける周りの反応というのも、結局のところは彼がやっていることと変わらないのではないか。どちらも、物事の表面しか捉えようとしていない。それでいて、全体を理解した気になる行為には違いないのだ。
であるからして、彼は彼女と関わるべきではないような気がした。彼女のうちにある純粋さに触れようとする自分の営為は、結局のところ彼女に向けられた浅薄な好奇心でしかないのだから。
その上彼は、自分自身が、先入観で彼女を見ている人々に対して勝手な優越感を抱き、無責任な批判をぶつけようとしていることを嫌悪した。
自分の体内で偽善のようなものが蠢いている。そんな生理的嫌悪のようなものがそこにはあった。
なぜなら彼はヒーローでもなんでもなく、ただ彼女に勝手に引きつけられた毒にも薬にもならない一人の男に過ぎないのだから。仮に自身に多少の演説の才能があったとしても、それによって彼女の運命を変えられるかもしれないという考えは、所詮思い上がりに過ぎないと彼は思っている。
ーー彼女たちが期待しているような、人を変える力などどうせ僕にはないのだ。
無能な偽善者ほど有害なものはない。
彼は休日の間、月曜の演説で話す事柄を考える必要があった。
この演説には、◯◯式のようなテーマ性が特にないため、彼は話す内容に困った。
彼は気難しそうな表情で、一枚の紙に向き合う。散々悩んだ結果、彼は不満そうな表情をしながら、斜線だらけのその紙に「将来の夢について」と書き付けた。
彼が不満だった理由は、その話題が結局の所ベタな綺麗事としか思えなかったからだ。
月曜になった。いままで新学期で活力に満ち溢れた表情をしていた学生たちも、そろそろ気怠そうな表情に変わりつつあった。五月病と洒落込むにはまだ早い時期だが、これが反自然的に捏造されたエネルギーの末路であろう。
まだまだ新生活の刺激も残っているはずの四月下旬。にも関わらず、これほどまでに学生のテンションが落ちているのは、やはり月曜日の魔力といったところだろうか。
しかしその一報は多くの学生にとって、落ち切ったやる気を再び復活させるに足る話題だった。
「ええ!?あの舞浜くんの演説会だって?」
「この学校はそんなことまでやるのか……」
「あの美人の先輩の彼氏の人!?」
時折彼にとっても聞き捨てならない言葉が聞こえてくるが、こういう風に自分の能力を評価されて、悪い気はしなかった。それでもやはり彼は自分がこれほどまでに持て囃されることに、不思議な感覚を覚えていたが。
おそらく来場者のほとんどは一年生になるだろう。こんなお堅いイベントに高校生が足を運ぶものかと、やはり彼も思っていたが、話題の膨らみようを見てその考えを撤退していた。
春山先輩がセットしたこの盛況の演説会、しかし彼の用意できた話は彼にとっては綺麗事。なんだか彼は春山先輩に申し訳ない気持ちがした。
だが、自分が彼女の何かを変えようとすること自体が、既に思い上がりだと先週考えていたことを思い出し、それでは自分はどんな心構えでいればいいのだろうかと、疑問に思った。
ともあれ昼休みになると、彼はいつの間にか講堂の壇上に立っていた。
彼は演説の時はいつもこうだった。直前に緊張をしたりすることもなく、気付けば時間が過ぎていて、気付けば壇上に立っている。
もしかすると、壇上に立つまでの過程を単に忘れているだけなのかもしれない。とにかく、彼は演説の舞台に立つ度に、こういう感覚を抱くのだ。
まるで何かに操られているがごとく。
会場の騒めきは入学式の時よりも一層大きい。あの頃の彼は無名であったが、今の彼の演説はこの学校でも特に話題を呼ぶポテンシャルを持つものの一つだ。
講堂もこの学校だけあって大きいので、人が一杯、というほどではないが、それでも多くの人がいる。ほとんどは一年生であった。少なくとも、一生徒が昼休みに動員できる人数ではない。百人単位で人がいる。
彼は、騒めきを鎮めようと働きかけたり、騒めきに打ち勝とうと大声で演説を始めたりはしない。じっと待つ。とにかくじっと待っている。
聴衆の注意が彼に釘付けになるまで、空虚な時間が流れ続ける。彼はこの不完全な沈黙に全く動揺することがない。
それが完全になるまで、ただひすらに待ち続ける。そうしてから、静かに口を開くのだ。
「諸君」
茶化すような歓声を上げるものはいない。場は緊張そのもので、オーディエンス全員が緊張に支配されている。
彼は本能で分かっていた。深い沈黙こそが、最大の力なのだと。そこから繰り出される一言が、絶大な力を持つのだと。
「将来の夢と嘯くことが、いかに無意味なことであろうか!」
それは彼の意図していなかった言葉だった。「将来の夢について」というテーマを頭に浮かべた時、彼の脳は咄嗟にそれを肯定することを拒絶した。
「今眼前にあるものを追わずして、夢の実現などあり得ない」
「そもそも、現実でないから夢なのだ。現実にしようと試みる人間は、夢などという弱々しい言葉を使わないのだ」
「眼前にあるものとは何か」
彼は観衆をじっと睨む。まるで一人一人に個別に目を合わせるがごとく見回す。
「それは、自分の力に他ならない」
「今自分が持っているものは何か」
「今自分が手に入れられそうなものは何か」
「なぜ持っているもの全てを使わない?」
「なぜ君たちは、数学の問題を解くときは与えられた条件を全て使おうとするのに、現実ではそれを行わないのだ?」
「なぜ君たちは、一部の人間が定めた勝手な基準で、人間の価値を測るのか?」
「勉強が優れているのは、良い能力である。スポーツができるのは、良い能力である。ではそれらができないというのが何を意味するのか?」
「何も意味しない。その人間が劣っているということさえ」
「単純な尺度で人間の力を測ろうとしているうちは、いつまで経っても負け組のままだ。自分がどの能力において卓越し得るのか、それを考えないのは、単なる怠慢でしかない!」
「自分の本当の強味はなんだ?それは今、制限されていやしないか?本当に最大限発揮されているのか?」
「本当にくまなく自分の能力をさらって、それでもなお自分に何もないというのなら、それは一種の才能だろう。完璧な凡人として振る舞うことの、いかに難しいことか!」
そう、彼は完璧な凡人として振る舞えなかったのだ。演説の才能が、彼に凡人であることを許さなかった。
……
「将来の夢が大事なのではない」
「重要なのはこの事実だ」
「自分の力を活かせないものが、最大の愚か者であるということーー」
歓声が上がった。長い傑作を完成させたかのような達成感が、観客に共有された。大きな、大きな拍手が講堂に響いた。
それは壮大で、完全なエンディングだった。
彼は目を閉じて、一人の人間が受けるには身に余る拍手を聞いていた。
そして彼は思った。
「これこそ綺麗事に過ぎない」と。




