涙痕
そうして長い年月が過ぎ、瑠璃が六才の誕生日を迎えたころ。
不穏な黒い靄のようなものが、瑠璃の視界に入ることがありました。
なんだろう、とはっきり見極めようと直視すると、もうそこにはない。そんな奇妙な靄でした。
そんなことが三度ほどあり。
四度目に見たときには、ロウの手足に靄が巻きついていたのです。
瑠璃は、かつてなく驚き、焦り、必死にロウにしがみつき手足をはたきました。
ロウも驚いて、なにをするのだ、と思わず怒ってしまうほど強く。
ロウには、その靄は見えなかったのです。
その靄は、瑠璃の目に映りはするものの、なんであるかはとんと分かりませんでした。
そして、瑠璃の目ですらわからない、そんなものは今までになかったものでした。
瑠璃は心底おそろしくなりました。もうすぐ小学校が始まり、今までのように四六時中一緒にはいられなくなるのです。離れている間に、もしもロウがあの靄に飲み込まれてしまうようなことがあったとしたら。
思わず寝床で身震いをしていると、ロウがそっと背中に寄り添ってくれました。寒がっていると思い、温めてくれているのでしょう。
このぬくもりを失うようなことだけは、絶対にあってはならない。
そんなことを思いながら、瑠璃はひとり、その目で未来を見つめていました。
これまでと同じような幸せの未来が見えます。ロウも、瑠璃も、楽しくけらけら笑っています。
けれども。
その幸福な未来の映像にすら、あの得体の知れない、黒い靄がかかっていたのです。
「それはな、澱のようなものだ」
空に座り、様々なものをじっと見守る、風のかみさまは言いました。
「かたちはない。ひどく重いが俊敏で、どこにでも湧いて出る。欲、嫉妬、虚栄心――そんないやな気もちの残りかすが集まって、埃のように溜まり転がり、あるいは虫のごとく這いまわっている。人のいるところなら、どこにでもあるものだ」
瑠璃の目で分からないものでも、長く生きている立派なかみさまは、あの靄がなんであるかを知っていました。
「そんなものが何故、お前の友だちにまとわりつくか、というとだな。まあ、あれらの気に入りそうなものばかりでできているからさ。まんまるな金の目、鋭い牙や爪、引き締まった肉、気高き血、ふかふかで美しい毛皮だとかな」
瑠璃は、自分が身代わりになることはできないのか、と静かに問いました。
「そりゃあ無理だろうよ。お嬢ちゃんは、まさにあれらの嫌うものばかりでできているじゃないか。正しきを好み、他者への慈愛をもち、全てを見抜く目まである。あの澱は、欲にまみれ悪しきをよしとし、自愛に溺れ、見たいものしか見ぬようなものたちが作り出したものだ。お嬢ちゃんには、決して近づくまいね。
だが――きっとどんなに用心しても、あれらは全てをすり抜けて忍び寄る。力はないくせに、大きな災いを瞬時に呼び寄せてしまう。ほんとうに忌々しいものだ」
それならば。
どうしたら、まもれるのですか。
「ふむ、ふむ。聡いということは、ある種の不幸だな。まだ六つだ。子どもならば、なにも知らず、なにもおそれず、無邪気に笑っていられればそれでよいのに。
己ではないなにかを守ろうとする時が、子ども時代の終わり、大人への成長だ。それを迎えられずに一生を終えるものも、数多くあるのにな。
……明日の同じ時刻、またここに来なさい。見えているだろう先を、受け入れる覚悟があるのならば」
瑠璃は、笑っていました。
冒険しに、遠くへ行くことにした、と。
瑠璃はロウから少し離れたところに立ち、通る声で、はっきりと告げました。
ロウは、怒っていました。
突然なにを言い出すのか。楽しみにしていた小学校は、ふたりで作ったちいさな畑の収穫は、いつの間にか増えた子分たちはどうするというのだ。お前を大事にしている両親、もうすぐ生まれる弟や、――おれすら、捨てていくのかと。
言葉にこそなっていませんが、ロウの言いたいことは、瑠璃には全てわかっていました。
それでも笑顔で、ただ繰り返すのです。
しばらく、さようならだ、と。
ロウは瑠璃に背を向けて、駆け出しました。
きっと追ってくるに違いないと。遠くに行くのなんてやめると言ってくれると。
ずっと一緒だよ、といつも言ってくれていた、大事な約束を信じて。
けれども、瑠璃は追って来ません。
日が傾き、沈み、夜が来て、肌寒く感じる時間になっても、瑠璃は来ません。
ロウはとうとう諦め、もしももう行ってしまっていたらどうしようと、一目散に元来た道を戻りました。
瑠璃は、まだそこにいました。
ずっと同じ場所に立ち、笑っていました。
瑠璃にはわかっていたのです。未来を見るまでもありません。心やさしいロウは、絶対に戻って、見送ってくれるだろうことを。
薄い闇のなか、ひとりといっぴきは向かい合っていました。
瑠璃は、ロウの首にお守りをかけました。
それは特別な樹の枝で編まれた、すばらしいものでした。
瑠璃は、風のかみさまに教わった通りに、静かにこころを込めました。
するとどうでしょう。緑のつたや白や黄色の小さな花がその輪を彩り、美しい花弁が五枚ある大きな青い花がいくつも咲きました。その青は、瑠璃の目と同じ色をしていました。
瑠璃は、自分のロウへのこころが美しく咲いたことが、嬉しくてたまりません。
これでロウは、きっとまもられるでしょう。
けれども、それを口には出しませんでした。言葉にしてしまうと、弱くなってしまう。おまじないとは、そういうものです。
ロウは、花なんて威厳がなくなる、と不満そうにしていました。
それでも瑠璃は、ずっとつけていてね、とお願いしました。
そうしたら、きっとかえってこられるから、と。
ロウは、静かに頷きました。
瑠璃はロウの首を抱きしめて、静かに言いました。
かえってきたら、またいっしょに遊ぼうね。
その言葉を最後に、ぱっと離れると、瑠璃はロウに背を向けて駆け出しました。
あたりが薄暗くてよかったことでしょう。
その涙の痕は、最後まで、ロウにばれることはありませんでしたから。
三話目です。
しばしのお別れ。はやいとこ、また一緒に遊びたいですね。
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