る、る、る、る、る、る、る
まさにその喉笛を、食いちぎらんとしたその時でした。まだ這うことすらやっとの赤子が、奇妙な声を発したのは。
その細く開けられた青い目に見つめられ、狼は己の金色の目をまんまるく見開いて、固まってしまいました。もしも見る人がいれば、それはなんとも不思議な光景であったことでしょう。
狼は、ひとりぼっちでした。
自分がどこでどう生まれたのかわかりません。自分がそこにいることにふと気づいたときには、周りにだれも、なにもいませんでした。そしてひどく喉が渇き、お腹がすいていました。
狼は歩きました。たくさんたくさん歩きました。
匂いをかぎ、耳をすませ、目をこらして、なにかに焦がれるように、しかしなにを求めるのかわからないままに、歩き続けました。
するとやがて、街にたどり着きました。
そこには様々なものがいました。人、鳥、犬、猫といった生けるものから、這いずり回るもの、空に座るものといったよくわからないものまで、狼の鋭い感覚は、それら全てを捉えました。
狼は、とりあえず片端から触れてみることにしました。
大きい人間は、すり抜けてしまい触れることができませんでした。小さい人間にはかろうじて触れられたように思いましたが、相手にとっては風に撫でられたと思うほどわずかのようで、まったく気づいてくれません。
鳥は飛び回っていてそうそう触れることもできず。犬や猫は見えてはいるようでしたが、触れるとすり抜けてしまいました。その上彼らは狼を一瞥しても、まるでそこにはなにもないというように、ぷいと離れていってしまうのでした。
地を這うものは、前足をそっとかざすとべちゃりと潰れ、とても嫌な臭いをさせ、狼を転げまわらせました。空に座るものは、なんとか近づこうとすればするほど、高く高く昇っていきました。
全て試し終わったころには、狼はへとへとになっていました。
相も変わらずお腹はすいたままでしたが、それよりも眠りたくてたまりません。
もうその場でまるくなって眠ってしまおうかと思ったものの、そんなことをすればそのまま消えてしまうかもしれない、などという得もいわれぬ恐怖がわきおこり、狼はよろよろと立ち上がりました。
その背にはなにも負っていないにもかかわらず、まるで胴体そのものが荷物のように感じられるほどに、つらい思いを抱えながら、とぼとぼと歩き続けました。
そうして歩いた末に、ほのかに光の漏れる家の前につきました。
門はしっかりと閉まっていましたが、狼はなぜか、開いているように思えてなりませんでした。思い切ってつついてみようと前足を出すと、まるで大きい人間に触れたときのように、するりとすり抜けてしまいました。
門の内には、よく手入れされたふかふかの花壇がありました。そこは気持ちよさそうで、寝床にはもってこいのように思えました。
寝床をそこに決めようと近づいていくと、窓の隙間から漏れる光が、狼の目にとまります。
その光にこころ惹かれ、門と同じように、すり抜けて入れはしないかしら、と狼はしばらく悩みました。
建物の中に入るのはとても難しいことのようで、その日、狼は何度もひどい目にあっておりましたので、もうあんな目には遭いたくないと、目をぎゅっと瞑ってその考えをやり過ごそうとしましたが、目を薄っすらと開くとすぐに、どうしても光から目が離せなくなってしまいます。
悩んで悩んで悩んだ末に。
投げやりにからだごと、えいやと窓へ飛び込みました。
するとどうでしょう。次の瞬間、狼はやわらかい光の中にいました。天地がひっくり返ったような眩暈も、身を裂かれるかのような苦痛もないままに。
しめた、と思い部屋の中を見回しますと。
部屋の中には、大きな人間と、今日見たどの人間よりも小さな人間がいました。大きな人間は部屋の中をせわしなく動き回っていましたが、狼にはまったく気がついていません。小さな人間は、木の檻に閉じ込められて転がっていました。
木の檻の中は花壇以上にふかふかしているようで、とても心地がよさそうでした。中の小さな人間は、きゃっきゃと笑っていました。
狼はそれを見ていると、今日までのつらく、寂しく、大変だったことが頭の中を巡り、ふつふつと怒りが沸いてきました。
お腹がすいていること、とても眠りたいことも思い出され――そうして狼は、そこを寄こせ! とでも叫ぶかのように、小さな人間目がけて飛びかかったのです。
る、る、る
る、る、る
る、る、る、る、る、る、る
赤子が声を発し、手足をばたばたとさせています。
赤子の目と、狼の目がばっちりと合いました。
狼は混乱していました。これまでたくさんのものを見てきましたが、一度もそんなことはなかったのです。
大きく開いた口を咄嗟に収めることもできず、思わずべろりと舌を出すと。
その舌が、赤子のやわらかな頬に触れました。
それはとても温かく、それまで喉にせりあがるようであった飢えが、嘘のように引きました。
るー!
更に訳の分からない声を上げながら、赤子は狼の背に手をかけ、からだごとのしかかってくるではありませんか。
狼はたまらず倒れこみ、その灰褐色の毛皮に顔を埋められるのを、目を白黒させながら眺めていました。
しばらくそうしている内に、狼はなんだか可笑しくなってしまって、戸惑いながらも赤子を受け入れ、されるがままにじゃれあいました。相変わらず意味の分からない声を発し続ける赤子を、る、る? などとあやしながら。
赤子と狼は、その内どちらからともなくおとなしくなり、重い瞼をおろし、寄り添いながら眠りにつきました。
その時から、狼はもう、ひとりぼっちではなくなりました。
今日から毎日、一話ずつ投稿していきます。
拙い部分も多くありますが、読んでいただけたらとても嬉しいです。
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