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温泉

 日が暮れても、ノズフェッカの熱気は衰えることなく続いていた。


 妙な楽器をかき鳴らすゴブリンの一団が街をねり歩き、彼らの周りで他のゴブリンたちが楽しそうに踊り回っている。広場にはどこからか屋台が集まってきており、周りに食べ物や飲み物を振舞っていた。


 何とか早めにこの騒ぎの中心から逃げ出そうと思っていたギデオンは、ふいに現れたメイドの一人に手を引かれ、広場から連れ出された。


「旦那さま、さあこちらへ……」

「どこへ……? 君は確か、レーテだったか……」

「そうでありんす。わっちはここの生まれですから、土地勘がありんすよ。あそこの坂を抜けると、大きな岩がありんす。その陰に入ってしまえば、ひっそりと静かに休むことができなんす。旦那さまがお疲れのように見えなんしたので、少しお節介を焼きなんした」

「そ、そうか。ありがたい」


 レーテは迷いなく進んでいき、大きな岩の裏手へと回る。


 ひっそりと休めると言っていたので、舗装されていない岩肌でも広がっているのかと思えば、その先にも普通に街があった。さらに言えば、そこでもどんちゃん騒ぎが行われている。


「あれ、レーテ?」

「この洞穴の奥に入りんすよ」


 レーテは、岩と岩の間にできた暗い洞穴を指差している。


「ここはこの街の共同湯の中で一番人気(にんき)がなく、街全体が浮かれるいま、ほとんど客がおりんせん。この中なら、旦那さまもゆっくり休憩できるというわけでありんす」

「そうか、いまはみんな外にいるからな。施設の中に隠れてしまえばいいということか」

「そのとおりでありんす」


 ギデオンはレーテを信用しきって、その共同湯の中へと入った。


 そこは施設というよりは、本当に単なる洞穴のように感じた。

 ごつごつとした天然の岩の壁が広がり、風情があるといえば風情があるが、手が加えられていないだけと言えばそうともとれる。


 湯が沸いた場所の近くを掘り抜き、そのまま施設として使っているだけといったような感じだ。

 硫黄の匂いがする。奥の暗がりに腰を下ろすと、ようやくギデオンはほっとすることができた。


「そうだ、旦那さま。お疲れでありんしょうから、温泉にでも浸かってきなんし」


 レーテが、いま思いついたとばかりにそう言った。


「ノズフェッカに来て温泉に入らないというのは、イステリセンに行って闘竜を見ないようなものでありんす。もったいないことこの上ない! さ、さ、お湯はこの先でありんすから……」

「イステリセン?」


 そう言えば、ロゼオネの話に少しその用語が出てきた気がする。確か、そこに暴竜が現れたとか何とか……。


「イステリセンは、ペッカトリアの東にある都市でありんす。竜とともに発展し、いまでも地竜の出荷量では世界一を誇るとか。闘竜はそこの文化でありんすね」

「そうか。またその街にも行ってみたいものだ」

「とはいえ、いまは温泉でありんす! ここの生まれの者として、旦那さまをこの街の温泉に入れずに帰したとあっては、一族に顔向けができなさんす。ここはわっちの顔を立てると思って、どうか……」

「そうか。何から何まですまないな。こんなにいい場所まで教えてもらって」

「はあ、ありがたき幸せでありんす……」


 言いながら、レーテが布タオルを渡してきた。


「あれ、随分と準備がいいな」

「いえ、いえ、そんなことは! わっちらも先ほど温泉に行っていたのでありんすよ! これはそのとき使わなかったタオルでありんして……」

「そうか。まあ、いい。レーテ、君はいまから宴に参加してくるといい。またあとで会おう」

「ええ、どうぞごゆっくり……」


 レーテが暗がりから出ていくのを待ってから、ギデオンは服を脱いで奥へと歩を進めた。次第に湯気がこもり、視界が悪くなってくる。


 洞穴の奥は、シンと静まり返っていた。ところどころ外気を取り入れる穴が開けられ、そこから月の光が差し込んでいる。

 そして、足元には薄い緑に濁った湯が溢れていた。


(人気がないと言っていたが、雰囲気のあるいい場所じゃないか)


 ギデオンは桶で身体を流してから、ゆっくりと温泉に浸かった。

 思えば、この監獄世界に入ってからというもの、ずっと動きっぱなしで落ち着く暇がなかった。たまにはこのような贅沢をしたところで、きっと妹も俺を責めないだろう……。


 そんなことを考えているときだった。


「……ギデオン?」


 誰かの声がして、ギデオンは飛び上がりそうになるほど驚いた。

 温泉の中心にある大きな岩の物陰から、リルパがひょっこりと顔を覗かせている。

 温泉の熱のせいか、それとも恥じらいのせいか、リルパの顔は火が出そうなほど真っ赤になっている。


「り、リルパ!? ど、どうして君がここに……?」

「……メイドの子たちが、ギデオンと一緒に温泉に入れっていうから」

「メイドが……?」


 それを聞いて、ギデオンは眉をひそめた。それから徐々に、自分が罠にかけられたのではないかという気になってくる。

 思えば、さっきのレーテは何から何まで準備が良すぎた……最初から、こういうつもりだったのではないだろうか……。


 緩み切っていた心が途端に緊張し、心臓が早鐘を打ち出すのがわかった。

 リルパは湯につかったまま、意を決した表情で近寄ってくる。


「……ギデオンと、二人っきりになりたかったの」

「お、俺と?」

「そうだよ。みんなが騒ぎ出してから、ゆっくりお話しできてなかったから……」


 いったい何を話すことがある? まさか……ウンディーネのことか? 


 リルパはウンディーネの作った水の怪物を何度も打ち倒すことはできたが、根本的な排除手段を持っていなかった。

 となると、マナコールという手段を持っていた自分から、その方法を聞き出そうと言うのだろうか……。リルパはこの世界における絶対的な存在としての自覚があり、他の者にできて自分にできないことがあってはならないと考えているのかもしれない……。


 ギデオンがそんなことを考えていると、リルパは水を掻きながらすぐ隣に来た。

 冷や汗をかく。


 リルパは頬を朱に染めたまま、そっと互いの肩をくっつける。


「……今日一日ね、ギデオンにずっと命令しないといけないって思ってた」

「……め、命令?」

「うん。そうすることが重要だっておじちゃんに教わったの。でも、ギデオンにはいちいち命令なんてする必要なんてなかった。ギデオンは、最初からわたしのして欲しいことがわかってたから」


 そう言って、リルパはちらりとギデオンの顔を見上げた。


「わたしは、この街のゴブリンたちが困っているのをそのままにしておきたくなかった。ギデオンもそうでしょ?」

「それは……そうだ」


 リルパの思惑がどこにあるのか、そしてこの会話がどこに向かっているのかわからず、ギデオンはただ首肯するに努めた。


「……ねえ、そしたらさ。いまわたしが何をして欲しいかわかる?」


 わかるわけがない。が、いまの状況でリルパの意に沿わぬ回答をしてしまうのは非常にまずい気がした。彼女はまた、あの怒りの模様を浮かび上がらせるかもしれない……。


「き、君は昨日から食事を取っていない……腹が減っているんじゃないか」


 するとリルパがきょとんとした顔をして、ギデオンは絶望的な気分になった。


「い、いや、もちろん冗談――」

「――すごい! よくわかったね!」


 リルパはパッと顔を輝かせた。それから、うっとりした顔でギデオンの身体にもたれかかる。


「……ねえ、いま血を飲んでもいい?」

「え?」

「いいよね? ギデオンはわたしのこと、何でもわかってくれるんだから……」


 そう言うが早いか、リルパはギデオンの首に手を巻きつけた。


 そして、身を固くするギデオンに裸体を押しつけながら、リルパは食事を開始した。

 首筋にチクリと痛みが走り、奥歯をぐっと噛み締める。


 いつもながら、生きた心地がしない時間だ……そのとき、リルパが首筋から突然口を離し、ぐったりとギデオンに体重を預けた。


 彼女の口から、唾液に混じってギデオンの血が零れ落ち、温泉の湯に赤い染みを作る。


「お、おい……リルパ!」

「あ、あれ……わたし……どうしたんだろ……?」


 リルパはうつろな目をしていた。顔は依然として真っ赤なままだ。

 呼吸も荒く、彼女の身に何かが起きていることがはっきりと見て取れる。


 ギデオンは彼女の身体を抱き上げて湯から出ると、傍の岩に寝かせた。


「――だ、大丈夫か?」


 返事はなかった。リルパは意識が朦朧としているようだった。


 これはいったいどういうことだ?

 まさかあの怪物、リルパが湯あたりなどしたとでもいうのだろうか……?


 とはいえ、横たわる彼女の華奢な裸体は、いま何の力強さも感じさせないのも確か。

 ギデオンはゴクリと喉を鳴らした。


 いまなら、この少女を排除できるかもしれない……。

 そうだ、これは好機だ……今後訪れるかわからないほどの、絶対的な好機。いまリルパを片づけてしまえば、自分が目的を果たすためのあらゆる支障はなくなるに違いない。


 ギデオンは静かに、リルパの首に両手を持って行った。

 昼間にロゼオネが地底湖の洞窟でしていた『意膜』の話を思い出す。


 リルパの表面を覆う、悪意ある攻撃をすべて防ぐという絶対膜――。


(では、俺のこの悪意も防げるか? リルパ、俺はいまお前に攻撃を仕掛けようとしているんだぞ……)


 リルパはギデオンが手に力を込める前からハアハアと息を荒げ、苦しそうに顔を歪めていた。

 しばらく彼女の苦悶する姿をじっと見るに任せてから――ギデオンはリルパの首から手を離し、彼女を抱きかかえた。


「くそっ……」


 自分が何をやっているのかわからない。何をやるべきなのかも……。


 俺は何を考えている?

 せっかくいま目の前に振ってわいた絶対的な好機を、みすみす逃すというのか?


 ギデオンは急いで服を身につけると、リルパを腕に抱いてフルールの城へと急いだ。


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