二人の勝利
シャルムートの屋敷を出て、山の中腹部まで降りてきたギデオンは、右腕を海の方に向けると、マナを体外で操作し始めた。
マナコールによって作り出されるマナの奔流。これによって、ウンディーネを呼び寄せられるはずだった。
はず――というのはつまり、自分にはマナを見ることができないからだ。
ゆえに、マナで身体が構成されるという水の精霊が、どのような姿をしているかすら知らない。
しかし、いま自分が操るマナを、何者かがついばんでいるという感覚がある。
ギデオンはマナの奔流にさらなる力を加え、ウンディーネをその先へと導いた。
遠くへ――大海原の遥か向こうへと。
これは、師との旅の道中で遭遇したウンディーネたちを相手に、何度かやったことだった。
「……悪かったな、水の精霊。俺と同じ生き物が、あんたに迷惑をかけた。これからは、もう人に見つからないところで、静かに過ごせるといいものだが」
ぽつりと呟くと、ギデオンは集めていたマナを霧散させた。
そして、海岸へと向かって歩き出した。
ギデオンが海岸に到着したとき、リルパは盛り上がった土の上で、まだじっと海の方を見つめていた。
「リルパ!」
呼びかけると、彼女は振り向いてきょとんとした顔をする。
「――ギデオン! しばらく、竜がこなくなっちゃったよ」
「もう大丈夫だ。全て終わった」
「そうなの?」
高台にいるリルパを、ギデオンは見上げていた。
急造の土壁の向こうに夕日があるのか、彼女の輪郭は赤い光に包まれている。
すでにあの赤い模様は消えていたが、シャルムートが見たという太陽の似姿を、ギデオンはいまのリルパに見た気がした。
盛り上がった大地が沈み込み、その上に立つリルパがゆっくりと降りてくる。
そして、ぽつりと、
「……あなたが何かした。そうでしょ?」
「え?」
「ずっとあの水の竜は暴れていたの。わたしはこの街を守ろうと思って戦ってたけど、何度やっても完全に倒すことはできなかったから……」
リルパは頬を朱色に染め、もじもじしている。
いまのいままで大活劇を演じていた怪物の仕草としては、あまりに相応しくない。
しかし、これでもいままでのリルパからすれば大分進歩した方だ。
何せ、人を介せずに話せている。
「……ギデオンは何をしてきたの?」
「ウンディーネを説得しに行ったってところかな」
「説得?」
「……この街にいたウンディーネは、特別異常な個体というわけじゃない。海の向こうに行けば、すぐに大人しくなると思う」
「怒っていたわけじゃないんだよね?」
「そうだ。ただ、巡り合わせが悪かっただけだよ」
その言葉をどう捉えたのか、リルパは悄然としてうつむいた。
「でも、君がいてくれてよかった」
「……え?」
パッと上げられたリルパの顔は、どこか輝いているように見えた。
「俺一人じゃ、きっとどうしようもなかったと思う。この街を救ったのは、君だ」
「そ、そんなこと……」
「俺は一人でこの街に来るつもりだった。でも、もし一人で来ていたら、問題に対処するどころか、下手をすれば大災害を引き起こすだけになっていたかもしれない。リルパがいてよかった」
その言葉を聞いて、リルパはカァッと赤くなる。
「わ、わたしも……」
「うん?」
「わたしも、ギデオンが一緒にいてくれて、よかったなって……だって、そうじゃないとウンディーネは大人しくならなかったんでしょ……?」
「そうかもしれない」
問題は全てシャルムートにあったが、いま彼のことをリルパに話したくなかった。
罰を追い求めるあの男は、ようやく安らぎを得た。
しかし、すぐにまた自責の念に押しつぶされるかもしれない。
その安らぎがほんのわずかな間に過ぎないかもしれないと思えば思うほど、ギデオンは自分の手でそれを破壊する気になれなかった。
「だ、だからね?」
リルパはつっかえながら、必死そうに言葉を紡ぐ。
「わ、わたしたち二人がいたから、きっと、ノズフェッカは無事だったんだよね……?」
消え入りそうな声で言う少女に近づき、ギデオンは彼女の手を握った。
それから、片膝をつく。
リルパはビクリと身体を震わせたが、トロッコ前での一件のように手を引っ込めなかった。
「き、急に、どうしたの、ギデオン……?」
「さっきの戦いぶりを見て、君がこの世界の神であるというリルの子どもであることが、はっきりとわかった。改めて礼を言う。この街と、この街のゴブリンたちを救ってくれて、ありがとう」
「――リルパ! 旦那さま!」
そのとき、海岸に向かって五人のメイドたちが走ってやってきた。
一人はロゼオネ。
あとは、確かレーテ、テヴニ、ユーフル、ウェルナと言っただろうか。
まだフルールの城で生活して数日しかたっていないので、顔と名前が一致していないゴブリンが多くいるのだが……。
「そのご様子ですと、もう全ては終わりんしたか?」
ロゼオネの問いに、ギデオンは頷きを返した。
「ああ、もう大丈夫だ」
「……あれ、いま旦那さまはリルパに求婚をしておりんしか……?」
「……夕日の海をバックにひざまずくとは、何ともベタでありんす……」
「……しかし、きっとリルパはそういうことに免疫がありんせん……ともすれば、効果的かもしれなさんす……」
「……でもなぜいまさら求婚を……? お二人はすでにそういう関係でありんしょう……?」
ひそひそと囁き合うメイドたちの言葉を聞いて、ギデオンは慌ててリルパの手を離し、勢いよく立ち上がった。
「き、危機は去った! 鉱山の奥にいたランページ・リキッドも、この街で起きていた自殺の件もだ。これで、ようやく俺はミスリルについて調べられるというものだな……」
「――どうしていま来たの!」
リルパが、大声でメイドたちを叱りつけた。
「……え? い、いけなかったでありんしたかね?」
「いま、わたしとギデオンが二人っきりで話してる途中だったでしょ!」
真っ赤になって怒りを露わにするリルパを前に、メイドたちは顔を見合わせた。
すぐにしまったと言わんばかりにバツの悪そうな顔になると、おろおろしながら言い訳を始める……。
「で、でもわっちらも、温泉に入ってる途中で避難しろとか言われなんしたよ?」
「そ、そうでありんす! 楽しみの途中に邪魔が入ることなんて、世の常でありんす!」
「リルパが戦っているから、温泉から追い出されなんした! こ、これはリルパにも責任がありんすよ!」
ひどい理屈だった。
「わたしはこの街のゴブリンを助けようとしてたの!」
「で、では城のゴブリンの慰安も考えなんす! わっちらは、毎日くたくたになるまで働いておりんすよ?」
「ペリドラだって認めてくれなんした! わっちらだって生身の身体……ときにはゆっくりしたいときがありんす……」
「そうだ、リルパも温泉に行くといいでありんす。そんなにカッカせずに、旦那さまとゆっくり戦いの疲れを癒しなんす……」
「え、温泉?」
メイドたちの言葉は滅茶苦茶で、論旨のすり替えもいいところだったが、一番厄介だったのは当のリルパがそれに丸め込まれつつあるように見えたこと……。
「――そのとおり、リルパ。温泉でありんすよお!」
「今度は邪魔などしなさんす……ね? お二人はお似合いでありんす。旦那さまがリルパの手を握る様子は、どんな名画よりも絵になっておりんした!」
「そう、逆に考えれば、わっちらはいまの光景の言わば生き証人!」
「邪魔をしたどころか、お二人の今後を支える最高のサポートをしたに過ぎなさんす!」
「……そ、そうかな……?」
リルパは途端に怒りを引っ込め、今度はもじもじし始める。
それから、ちらりとギデオンの方を見た。
嫌な予感がした。
ギデオンは助けを求め、メイドたちの顔を一人ずつうかがったが、全員がギデオンに向ける目は据わっていた。
味方を求め、辺りを見渡す。
幸運なことに、山から降りてきていたのはメイドたちだけではなかった。ノズフェッカの町民たちが、恐る恐るといった調子でこちらを見つめている。
「――もう大丈夫だ! 危機は去った!」
ギデオンが彼らに大声で呼びかけると、予想通り歓声が爆発する。
リルパに向かって駆け寄ってくるゴブリンたちの波に逆行して、ギデオンはその場を逃げ出そうとした。
「リルパ万歳! よくぞここまで成長し、リルとフルールさまの力を操れるようになりやんした!」
「リルパのアンタイオ万歳! あなたさまはこの街の救世主――小鬼たちの英雄でございやんす!」
彼らは逃げ出そうとするギデオンの身体をガシリと捕え、リルパの元へと引き戻してしまう。
「ま、待ってくれ! 俺は関係ない! 見てたろ? 竜を退けたのはリルパだ!」
「――万歳! 万歳!」
ギデオンは必死に逃げようとしたが、次から次へと集まってくるゴブリンたちにもみくちゃにされ、次第に抵抗する気もなくしてしまった。
次回より新章「脱獄」編がスタートします!
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