煉獄の太陽
水の精霊に憑依している状態では、リルパに勝ち目はない。
シャルムートは、すでにそのことを悟っていた。
どれだけ攻撃を加えても、リルパはびくともしなかった。そもそもの攻撃自体が打ち消されているようにさえ見える。
どうすればいい……? もう少しなのに……もう少しで、望みを果たすことができるのに。
焦って思考を巡らせるシャルムートの頭に、ペッカトリアで在りし日の魔女フルールを見た日の記憶が甦ってきた。
それは、いつものように教会グリムのエノクに乗り移り、生贄を探しているときだった。
エノクの目には、フルールの身体から溢れ出した豊富なマナと、それに引き寄せられるようにして彼女の周りを飛び回る土精霊ノームたちの姿が映っていたのだ。
(……土精霊ノーム! そうだ、他にも精霊がいるではないか!)
その思いつきは、シャルムートを興奮させた。
リルパはフルールの子だ。そして、大地を扱う力を受け継いでいる。
となれば、彼女の周りにも同様にノームがいるかもしれない。
竜を象るのが、水である必要はないのだ。
竜でありさえすればいい。
あの強力無比な防波堤を乗り越えるためには、このまま水精霊を操り続けるのは好ましいやり方ではない。
シャルムートは即座に決断すると、自分を乗せた水塊を高く飛ばし、上空からエノクを探した。もう一度、あの犬の身体を借りなければならない。
果たしてエノクは井戸のあるあの広場で、身を小さくして震えていた。
(臆病者め……お前はずっと臆病だった……しかし、最後の最後まで忠実だった……)
シャルムートは空から愛しげに愛犬へと語りかけると、彼のもとへと急いだ。
見ると、すでにウンディーネの身体はぼろぼろになっている。
マナでできた身体にはところどころ欠損が見られ、どの道これ以上の使用には耐えられなかったのかもしれない。
シャルムートは、咄嗟のところで決断した自分を褒めてやりたい気持ちになった。
(ウンディーネ……お前も俺の救済の役に立った。あとはどこへでも行くがいい)
シャルムートはエノクのそばに寄ると、もう一度彼の身体に滑り込んだ。
途端に、世界が眩しくなった気がする。
世界に溢れるマナが輝きを放ち――それを美しいと思った瞬間、目を開けていられなくなった。
刺すような光が、海の方向から照りつけている。
何とか目を薄め、視線を下ろし、やっとの思いでそこに何があるのか確かめようとした。
しかし、何も見えなかった。
ただ、海岸の近くに、太陽のように輝く何かがあるのだろうという直感だけがあった。
というのも、シャルムートはいまのいままでそこにいて、その場に立ちふさがる怪物と戦っていたからだ……。
(な、何てことだ……あれはリルパか……?)
シャルムートは呆然とした。
精霊の体を抜け、生身の肉体を得たせいか、突如として身体がぶるぶると震え始める。
マナの溢れる世界で見たリルパは、異常だった。
いや、平常時の彼女なら、エノクの目を通して見たことはある。
問題なのは、小鬼たちが『怒りの紋様』と言ってありがたがる、あの赤い模様を浮かび上がらせたときのリルパだ。
シャルムートはそのとき、あの状態になったリルパと対峙したとき、生き物の全身に震えが走る原因がわかった気がした。
彼女を視認できない。
それだけの輝きを放つ膨大なマナを、リルパは世界に放出している。
彼女の周りに、ノームはいるのだろうか? いや、ひょっとすると、ノームすら恐れて近寄らないかも知れない……。
輝きの中で、どこか恍惚としたまま、シャルムートはしばらくの間ぼんやりとマナの太陽を眺めていた。
目が焼け、視界が暗くなっていく。あれは、見ていてはいけない光だ。しかし、その光景から目を逸らすことができない。
……そんな暴力的な光との会合は、突如として終わりを迎えた。
目の前が真っ暗になり、シャルムートはハッと息を呑んだ。
自分がどこにいるかわからなくなり、身体を必死になって動かす。
「ああ、シャルムートさま……」
耳元で、慈愛の天使の声が聞こえた。
「マジェンタ……? お前がそこにいるのか……?」
「……目を覚ましたようだな、シャルムート」
暗闇の中、今度は冷たい男の声が響く。聞き覚えのある声だった。
「ぎ、ギデオンか……? どうしてお前がここにいる……?」
と、そこまで言葉を発して、シャルムートは自分が人間の言葉を発することができることに気づいた。
手を握ってみると、五本の指が動く感覚がある。
「な、なぜだ……俺はエノクの中にいたはずだ……あいつの目で、太陽を見ていた……」
「太陽……?」
「そうだ、太陽だ! お、俺は間違っていたかもしれない! 絶対的な存在をはき違えていたのかも……ああ……」
シャルムートは頭をかきむしった。息が荒くなっていた。
「お、俺が間違っていた……小鬼たちが正しかった……リルパこそ……リルこそが神だ……」
「いや、神はお前の心の中にしかいない。罰を求めるお前の心の中にしかな」
両の目から激しい痛みが伝わってくる。
シャルムートは何度も瞬きをしてみて、ずっと暗闇が晴れないことに気づいた。
目元をこすると、何かでべっとりと濡れている。
それが赤い血なのか、透明な涙なのか、もうわからない。
「シャルムートさま……あなたさまの目はもう……」
「いいんだ、マジェンタ。俺が悪いんだ」
シャルムートは暗闇の中で、彼女を抱き寄せた。
「……え?」
「太陽を見過ぎて、目が焼けてしまったんだろう。でも、目を逸らすことができないほどの美しさだったんだ……あの光景をお前にも見せてやりたい……いや、見せてやるとも」
「わたくしに……?」
「俺の夢で、一緒に。きっともう夢の中で、竜は現れないだろう……霧が晴れたとき、そこには太陽があった……きっと俺ではあの美しさを表現し切れない……でも、お前なら……」
「生きていてくださるのですか……?」
「生きるとも。お前も、あの活力ある光を全身に浴びてみるといい。あれは煉獄の炎……浄化の光だ……それですべての罪が許されるわけではないが……しかし……」
視界は相変わらず暗かったが、シャルムートの心には喜びが満ちていた。
「ああ、俺は誰かを愛する資格がない人間だった。でも、いまなら少しだけ自惚れることができそうだ……お前を愛している、マジェンタ……」
すると、マジェンタがすすり泣く声が聞こえた。
「わたくしも……わたくしも愛しています、シャルムートさま……」
「付き合い切れんな……」
そのとき、気まずそうなギデオンの声が響いた。
部屋から出て行こうとする足音に向け、シャルムートは慌てて声をかけた。
「……待て、ギデオン。お前はなぜリルパと一緒にいる?」
足音が止まる。
「……成り行きだ」
「彼女を利用できると思っているんじゃないか? でも、それは不可能だ。あの巨人のドグマも、彼女の扱い方を間違っている。リルパはこの世界の太陽だ」
「利用しようなんて思ってない。俺はあいつを排除しなければならないだけだ。目的のために邪魔な存在だからな」
「排除するだと? 自惚れるな。お前と彼女では、生き物としての格が違い過ぎる」
「……そんなことはわかっている」
ギデオンの声は冷たく、どこかふてくされているようにも感じたが、完全に諦観に染まっているというわけでもなさそうだった。
「……だが俺は、不可能という言葉が嫌いだ」
 




