破滅的思考
シャルムートはマジェンタの身体にすがりつき、涙をこぼしていた。
「地底湖が崩壊してしまった……ウンディーネの住処が……」
「それが、ギデオンさまたちの意向ということですか?」
「そうだ……あいつはおかしいのだ。小鬼をどう扱おうが、俺の勝手だ! お前もそう思うだろう、マジェンタ……?」
「もちろんです。私はシャルムートさまの奴隷ですから」
「違う! お前は奴隷なんかじゃない! 俺はもう人間を虐げたり、傷つけたりしないと決めたんだ……」
マジェンタは、優しくシャルムートの頭を撫でた。
彼女の柔らかい身体を抱き締めいているときだけ、シャルムートは落ち着くことができた。
「もう神を挑発する必要なんてない。俺は罰を与えてくれる存在を探し求めていた……それで神を試すようなことをしていただけなんだ。神の真似事をして、人を傷つけていた。でも、もうそんな必要なんてないんだ……」
「きっと神も理解してくれていますよ」
「そうだろうか……? 俺は人を傷つけたいなんてこれっぽっちも思っていなかったし、いまも思っていない。ただ、会いたかっただけなんだ。ほ、本当だよ……」
もはやシャルムートの中で、他者に取り憑いて自殺することは単に湧き上がる欲望を押さえきれないだけのことだったが、それを認めるのはどうしても難しかった。
本当なら、人間の中で死を感じたい。
にもかかわらず、小鬼で我慢しているのだ。
「俺はまだ許されないのか……右腕一本では、罰として足りないと? お前の見せてくれる夢の中で、まだ竜は俺を襲ってくる……」
「シャルムートさまは罰を欲しているのです。それだけ、シャルムートさまが優しいということですよ。本当に悪い人間というのは、罪の意識がない人間です」
「俺は罪人だ……そうだ、罪人なんだ……」
シャルムートはマジェンタの美しい顔を見上げた。
「だからこそ、もっと苦しまなければならない。そうだろ……?」
「それがシャルムートさまのお望みであれば、苦しむべきでしょう」
「な、ならば、ウンディーネを逃がすわけにはいかない……」
シャルムートは口笛を吹いた。
すると、すぐに開け放たれた扉から現れた教会グリムのエノクが、シャルムートの近くに駆け寄ってくる。
「いい子だ。またお前の体を貸しておくれ。お前の目ならば、ウンディーネを見つけることができる……」
シャルムートの魔法には、他の生物へと自分の意識を植えつける力がある。
そしてそれだけでなく、憑依した対象からまた別の対象に意識を移し直せるところに、他の憑依術師の魔法にはない大きな特徴があった。
まずは自分から、もっと身軽で迅速な動きができるエノクへと意識を憑依させる。
そのあとは様々だ。
たとえば、エノクから小鬼へ。
たとえば、エノクからウンディーネへ。
そうして他の生き物たちの体を渡り歩くことで、自分から遠く離れたところで事を起こすことができる。
「ウンディーネを見つけてきたとして、今度はどこで飼うおつもりですか?」
マジェンタの質問は、シャルムートを困らせた。
ウンディーネの住まいとして、地底湖はぴったりだった。水の量もほどほどにあり、なおかつ閉じられた空間で他に逃げ場がないという。
「わからない……せっかくあの精霊は、いい場所に住みついていたというのに……」
ウンディーネの身体に精神を降ろしたシャルムートは、その精霊の力を利用して水細工をしていた。
神の似姿――すなわち竜のかたち。
マジェンタのような画力がないために、自分で現世に竜の似姿を描き出すことは諦めていた。
しかしそんな折、イメージだけで水を特定のかたちに象ることのできるウンディーネに出会ったのだ。
そのときから、シャルムートは自分で竜を作ることに夢中になってしまった。
「……ウンディーネを逃がすわけにはいかない。象られた竜は、俺に必要なものだ。俺のような罪人は、ずっと竜に見張っていてもらわなければならない。そうやってしか、俺は罰を得られない……そうだろ、マジェンタ?」
「シャルムートさまがそうお考えになるのであれば、きっとそのとおりなのでしょう。罪はその人の中にしか存在しませんから」
「お前は本当によくできた人間だ。お前の才能を、俺のような罪人に使わせてしまって悪く思ってる……」
「いいえ。わたくしは、ずっとシャルムートさまのおそばにいられれば幸福です。それ以上のことは望みません」
シャルムートはじっとマジェンタを見つめた。
「お前は本当に美しい……しかし俺は悪魔だ……罪に汚れきった悪そのものだ……」
「悪魔などではありませんよ。ずっと奴隷として生きてきたわたしに、自由を与えてくださった天使です」
「天使? 俺が? ……いや、いや、違う。いまになって告白するが、俺はお前に憑依して、お前の中で死んでみたいと思ったことがある。お前のような美しい女の中で死ぬ感覚は、俺にとってたまらない快楽なんだよ……」
「では、我慢されていたのですか?」
「……そうさ。我慢していたんだ。許しを得るためにな。俺は打算的な人間だ……」
しかしマジェンタはそれを非難することなく、ただシャルムートの震える手を優しく握った。
「我慢する必要などなかったのに。シャルムートさまの喜びはわたくしの喜びです」
「やめろ、マジェンタ……お、俺は……俺はどうすればいいのかわからない……」
肯定されることは、いまのシャルムートに強い混乱しか引き起こさなかった。
自分は否定されるべき人間で、罰を受けるべき人間なのに……。
「罪を償うことなんてできやしない……俺がこれまで犯してきた罪は、それだけ重いんだ……欲求を抑えることが解決につながると思った……でも俺にとって、愛と罰は同じなんだよ。小鬼の中で死んでも、自分を苦しめているのか、ただ欲望のはけ口に使っているのか、次第にわからなくなった……」
「罪の意識というのは、ときに甘美な味を人に与えるものでしょう? それは異常なことでしょうか?」
「わからない……俺は許しを得たいのか、ただ罪の意識に酔っていたいのか、わからないんだよ……」
――わからない。
それは、いまの状況だってそうだ。
ウンディーネを探しに行こうと思った。
しかし、ウンディーネを見つけ出して、それでどうなるというのか。
精霊にずっと憑依して、その場に押さえつけていることはできない。
その後、目を離した精霊がどこに行くかと言えば、結局のところ大量の水が溢れる海だろう。
あの地底湖が失われてしまった以上、もうウンディーネは遅かれ早かれシャルムートの手から零れ落ちていく定めにあるのだ。
何ができる? あの水の精霊を利用できるのは、あとたったわずかの間しかない。そのわずかな間に……。
必死になって思考を巡らすシャルムートに、天啓のような閃きが訪れた。
ひょっとすると、それは神の声だったのかもしれない。
「マジェンタ……」
「なんでしょう?」
「……仮に……仮にの話だが……俺と死んでくれと言ったら、一緒に死んでくれるか……?」
「もちろん」
ためらいなく答えたマジェンタを、シャルムートは強く抱き締めた。
「……俺はお前と一緒ならば、許しを得られるかもしれない。ああ、そうか……俺はなぜ、生きながら許しを得ようとしていたんだろうか……」
そのとき、目の前にかかっていた霧が晴れ、パッと視界が晴れた気がした。
どうかしている。なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう?
「竜はずっと俺を追ってくる。当たり前だ。俺の心に、竜という名の罪悪感があり続けるのだから……」
そう言ってシャルムートが微笑むと、マジェンタも微笑みを返した。
「……やっと答えを見つけたぞ、マジェンタ。俺は竜に殺されなければならない」
「お供します。あなたの夢を叶えることが、わたくしの何よりの望みなのですから」
シャルムートは呪われた人生の最後の最後で、本当に愛することのできる家族を見つけ出した気になった。
マジェンタは奴隷などではない。
彼女こそ、本当の天使だ。




