絶対防御
水の塊は、軌道を変えてギデオンを追ってくる。
両腕でガードすると、そこを硬いゴム毬のような感触が襲い、身体ごと大きく弾き飛ばされた。
ギデオンは、空中でバランスを崩して回転し、そのまま地面に落下した。
「ギ、ギデオン!」
リルパの声が空間に反響する。
水塊はひとしきり宙でぐねぐねと動き回ると、なおもギデオンに向かって突進を加えてきた。
跳ね起きて攻撃を躱したと思った次の瞬間、鋭角に軌道を変えた水塊が脇腹を打つ。
吹き飛んだギデオンは、しかし柔らかい感触に背中を支えられて眉をひそめた。
振り返ると、音もなく忍び寄っていたリルパが自分を受け止めているのがわかって、ぞっと戦慄する。
「な、なあ……!?」
「大丈夫、ギデオン!?」
大丈夫ではなかった。リルパの顔が近くにある。しかしよくよく考えてみて、彼女は「水塊との戦闘は大丈夫か」という問いを発しているのだと理解して、何とか気持ちを落ち着かせた。
「だ、大丈夫だ……俺は打たれ強い方だから……」
「あ……」
そのとき、何かに気づいたようにリルパが顔を赤くする。
「こ、これは不可効力だからね……? さっきのトロッコと同じで……」
「……?」
リルパは目を泳がせながら、ギデオンを抱き止める腕にぎゅっと力を込めた。
それは彼女にとってほんの些細な力配分だったのかもしれないが、ギデオンにとっては死活問題と言ってもいいプレッシャーだった。ギデオンは、自分が巨大な万力の中に捕らわれている様子を想像し、さっと青ざめた。
「ま、待て、リルパ! いまの敵はあの水だ! 俺じゃない!」
「……え?」
「なぁにをやっておりんす、お二方! いまはいちゃついてる場合ではありんせん!」
ロゼオネが飛び出し、猛然と迫る水塊に体当たりをかます。
弾かれたゴム毬のように水塊は飛んでいき、壁に跳ね返ってさらに勢いを増した。
空間を飛び回る水塊に気を取られたリルパの腕から、ギデオンは這う這うの体で逃げ出した。
「まったく、新婚旅行とはいえ、他の者の目くらいは気にしなんし?」
「し、新婚旅行だと……?」
「もちろん。旦那さまとリルパが一緒にお出かけになりんすよ? となれば、これは新婚旅行でありんす」
「わあ、ロゼオネのばか! どうしてそういう恥ずかしいこと言うの!? わたしの味方だって言ってたくせに!」
リルパがあたふたと手を振り回しているうちに、水塊は細長く形状を変化させ、鋭い槍状になった。そして猛烈な勢いをそのままに、切っ先をリルパに向ける。
リルパはいまだにロゼオネの方を向いていて、その攻撃に気づかない様子だった。
ギデオンはハッと息を呑んだ。
それは一瞬の出来事だった。
リルパを貫こうとしていた水の槍は――彼女の身体に触れたかどうかというところで、キラキラと光る膜のようなものに弾かれ、勢いよく地面へと落ちてしまう。
シャリシャリと無機的な音を立てて地面を滑っていったそれは、ほどなくして形状を失い、地面に小さな水たまりを作る。
「な、何だ……いまのは?」
呆気に取られるギデオンの問いに答えたのは、ロゼオネだった。
「何って、リルパが攻撃を防いだだけでありんすよ。リルパは、あらゆる悪意を弾き返す膜で覆われておりんすから」
「……何だと?」
「ああ、旦那さまはこれを見るのが初めてでありんしか? 『意膜』と呼ばれる絶対防御でありんす。リルのみが持ち得たという神聖模様の、一つの表現方法でありんすよ」
そのとき湖がまた盛り上がり、同じサイズの水塊が現れる。
しかし今度、それは一つではなかった。湖のいたる場所から抽出された水塊は、そこからさらに一点に集まっていき、どんどんと容量を増していく。
――叩きつける水。
この現象を初めて見たゴブリンが、そう直感的に名づけるのも仕方のないことだろう。
不定形ではあったが、それは巨大な水の棍棒だった。
ギデオンは、この現象に心当たりがあった。水が竜の姿になると聞いて、また別の魔物かと思っていたが、そうではない。
魔法薬師として各地を渡り歩いていた師に同行する途中、ギデオンはこの魔法生物に何度か遭遇したことがある。目に見えないこの生物は、特定の水辺に住みつくと、そこを縄張りと認識してほとんど動かない。
名を水の精霊という。
知能はほとんどないが、だからこそ厄介な相手ともいえる。恐怖でひるむこともなく、ただ周りで動き回るものに攻撃的な反応を示すだけだからだ。
(これは明らかにウンディーネだ。しかし、ウンディーネが竜の姿を取るとはどういうことだ?)
何かを想像して形作ることなど、ウンディーネにはできないはずだ。
「……旦那さま、わっちらは下がった方がよいかもしれなさんす。リルパの邪魔になりんすよ」
湖の水が減っていると視認できるレベルまで、宙に多くの水を持ち上げたウンディーネは、自身の操る液体をいまにもこちらにぶつけようとしている。
「リルパにあの魔物を倒せるのか?」
「少なくとも、負けることはありんせん。先ほども言いなんしたように、リルパにはあらゆる悪意から身を守る絶対防御がありんす。リルパが人生で傷ついたのは一度だけ。崖から落ちて膝小僧をすりむいたときだけでありんすよ」
「崖から落ちて?」
「ええ。それは事故であって、誰かの悪意があったわけではありんせん。そのときのみ、『意膜』が働かなかったのでありんす」
「ということは……攻撃に何者かの意図がある限り、リルパは一切傷つくことがないと……?」
「そのとおりでありんす。攻撃の大小ではなく、攻撃自体が許されなさんす。それが人間を超越した、神の領域にいる者の力でありんすよ」
そんな怪物をどうやって倒せばいい? 無意識に攻撃をしかけろとでも言うのか?
思えば、リルパに攻撃を仕掛けたことはなかった。初めて墓地で遭遇したときも、とっておきを仕掛ける前に打ち負かされた。
いや、あの後に仕掛けた毒はどうだ? まさか、あのとき毒がリルパに効かなかったのは、その攻撃に自分の悪意が乗っていたからだったのか……?
いま対峙している敵はウンディーネであるにもかかわらず、ギデオンは視線の少し先にいる少女に戦慄していた。
リルパはそんな畏怖の視線をどう解釈したのか、ギデオンの方に向けて照れくさそうな笑みを浮かべた。
「ギデオン、さっき『俺には、リルパがついてる』って言ったでしょ……?」
「え……? あ、言ったかな……」
「……あれ、嬉しかったよ」
リルパは真っ赤になってぷいと顔を背けた。彼女が向いた方向には、ちょうど巨大な水の塊がある。
「……ギデオンは、わたしが守ってあげるから。あなたを傷つけたこの魔物は、許してあげない」
「ま、待て、リルパ! ウンディーネの身体はマナで出来ている! とらえどころのない魔法生物だぞ!」
精霊を相手にできるのは、体外でのマナ操作が可能な者だけだ。
ギデオンは瞳術師のキャロルによって身につけたマナコールによって、これまで何度か精霊を手懐けたことがある。
しかしそれは大人しくさせられるというだけで、彼らを完全に殺すことはできない。
叩きつける水を現象と呼んだゴブリンたちの考え方はある意味で正しく、精霊は人間が制圧すべき対象ではなく、共存すべき対象なのだ。
「……水がなくなればいいんでしょ?」
「……え?」
「湖の水が全部なくなれば、水は暴れようがない。そうでしょ?」
しかし、リルパはギデオンの忠告を聞こうともせず、湖の方に歩いて行く。
身体に、あの赤い模様を浮かび上がらせながら……。
「あ、う……」
突如として彼女の全身から放たれる圧倒的なプレッシャーを前にして、ギデオンは魂を削られるような心持ちだった。
巨大な水がリルパに襲い掛かる。
その瞬間、彼女の傍の地面が盛り上がり、彼女を包み込む盾となった。
ドゴン! と強烈な衝撃音が響き渡って攻撃が弾き返されたあと――さらに盛り上がった大地が液体に牙を剥く。
ギデオンは、地の底から溢れてくる巨大な力を感じた。
「こ、これはどういったことでございやんすか! こんなときに、じ、地震とは!」
「慌てることはなさんす! リルパは大地の魔女フルールさまの御子……すべては彼女の手の内でありんす……」
悲鳴を上げるウィンゼを、ロゼオネが諌める。
空洞の天井が落ち、横の壁が迫ってくる。せり出した大地はギデオンたちの身体を避けながら空間を食らっていき、湖へと迫っていく。
自身の存在する領域を狭められ、水は溢れようとしたが、盛り上がった大地がそれをせき止め、その身に水を吸収していく。
水たまりに乾いた土をかけ続ければ、そこはいずれ硬い大地になる。
いま目の前で行われているのは、まさにそれだった。ただ、圧倒的に規模が大き過ぎるということを除いて……。
大地の侵攻はなおも続いた。湿って水交じりになった泥をさらに塗り固めるようにして、乾いた土が次から次へと投入されていった。
そうやって湖が消されていく様を、ギデオンは呆然と見守っていた。
頭の中に浮かんできたのは、囚人技師トバルが言っていたこと……。
魔女フルールは岩人形という魔物を相手にしたとき、地の底からマグマを呼び寄せ、その魔物の身体ごと大地に塗り固めてしまったと。
話を聞いたときはあくまで他人事であり、どこか信じがたい力だと思ったものだが、こうして彼女の能力を受け継ぐ者の力を実際に自分の目で見てしまうと、あの話が嘘偽りではなかったのだと実感してしまう。
大地はフルールの奴隷であり――いまはリルパの奴隷なのだ。
ギデオンは、これまではおぼろげに感じるだけだったリルパの真の力を知り、さらに彼女を遠い存在だと思うようになった。
――リルパは異常だ。自分とは、力のケタが違い過ぎる。




