ランページ・リキッド
城の外へ出ると、景色は一変していた。
荒野と草原の切れ目にあったはずの城は、いま海岸のほとりの砂利道に建っており、そばに打ちつける波の音が聞こえる。空気は冷たく、付近には硫黄と塩の香りが混ざり合った独特な匂いがした。
ギデオンは植物の蔦を編んで作った即興の防寒具の前を閉め、海岸の砂利道へと足を踏み出した。
砂利道の左手に海、右手には巨大な山脈があり、前方には都市壁があった。
壁の向こうには、もくもくと上がった煙の筋がいくつも見える。
そして都市壁前に多くのゴブリンたちが集まり、こちらを指差して何やらがやがやと騒いでいた。
「みな突然現れたフルールさまの城を見て驚いているようでありんすねえ」
そう言うのは、今日一日リルパの付き人を任されたロゼオネという女ゴブリンだった。
もちろんロゼオネの横には、片時もそのそばを離れまいと言わんばかりの態度で、彼女の手をしっかと握ったリルパがいる。
「そ、そこにいらっしゃるのはリルパ……? なぜこのような場所へ?」
ギデオンたちがゴブリンたちの集団に近づくと、彼らの一人が目を白黒させて訊ねた。
「ここに問題があると聞いた」
そんなギデオンの言葉を聞き、そのゴブリンはさっと青ざめた。
「も、問題などと! そのようなことがあろうはずがございやせん!」
「ああ、言い方が悪かった。ミスリル鉱山の様子を見に来たんだ。そこであなた方を困らせることが起きたと聞いたから」
ゴブリンはギデオンの足元を確認し、そこに足輪がないのを見て取ると、リルパとギデオンの顔をきょろきょろと見比べた。
どちらと話せばいいのかわからないという表情だ。彼らにとってリルパはもちろん崇高な存在だが、かといって一級身分の囚人も軽んじていいわけではないのだろう。
「……俺はリルパの命令で動いている。このことは、彼女の寛大な配慮の結果だ」
「ああ、そうでございやんしたか! あなたさまとリルパの目的は一つということでございやんすね?」
「そうだ。俺はギデオンという」
「リルパ! そしてギデオンさま! ノズフェッカへとようこそおいで下さいやんした!」
ゴブリンたちは深々とお辞儀をする。
「ちょいと待ちなんし」
そのとき、ロゼオネが口を開いた。
自分の名前だけ歓迎される者の中に入っていないのが気に障ったのかと思ったが、どうやらそういうわけではなさそうだった。
「リルパが何か言いたいそうでありんす……ふむふむ……ほう……」
ロゼオネの耳に、リルパが何やら囁いている。
「……旦那さま。いま、『リルパの命令で動いている』と言いなんしたね?」
「ああ、言ったが?」
もちろんそれは、話をややこしくしないための方便だが。
「リルパはその態度にとても満足されておりんす。引き続き、リルパの命令に従いなんす。旦那さまがそうするのが、リルパは何よりも重要だと言っておりんす」
「……? ああ、わかった……?」
リルパは何か命令を出したいということだろうか? 意味がわからず、ギデオンはその場で少し待ってみた。しかしリルパもその横にいるロゼオネも動かず、時間だけが過ぎていく……。
いつまでもそうしていることはできないので、ギデオンは気持ちを切り替えて、ノズフェッカのゴブリンたちに向き直った。
「……ああ、えっと……鉱山の奥で、魔物の巣を掘り当ててしまったとか聞いたが?」
「魔物? はあ、まあ、そうも言えるでございやんしょうが」
「そうも言える? どういうことだ?」
「掘り当てたのは現象でございやんす。それは叩きつける水と呼ばれておりやんして、もともとは海や湖で起こる現象でございやんす。水の塊が生き物のように動いて暴れ回る現象を、総じてそう呼ぶのでございやんすが」
「……水?」
と、言って、ギデオンは左手の海に視線をやった。
「ああ、そちらの海は関係ございやせん。もっとも、現象としては海原のどこかで起こってはいるのでしょうが。いま我々が直面しているのは、鉱山の奥にある地底湖で暴れ回るランページ・リキッドなのでございやんすよ」
「鉱山を掘り進めるうち、地底湖を掘り当ててしまったということか? そしてその水が暴れ回ると?」
「そのとおりでございやんす」
「ペッカトリアに救援依頼は出したのか? ……ああ、つまり、俺たちの他に救援の囚人が来ているのか、ということだが」
「いえ、それは……」
そのゴブリンはもごもごと口ごもった。
「来ているか来ていないかだけ教えてくれ」
「来ておりやせん、はい」
「では俺たちが助けになれるというわけだ」
「助け……? ああ、なるほど……そ、そうでございやんすね? もちろん、大きな助けでございやんす……」
はっきりしない態度のゴブリンに、ギデオンはリルパの威光をちらつかせてみようかと思った。しかし、力ずくで物事を解決するのでは彼女と同じだと思って顔をしかめる。
「すまない、答えにくいことを聞いてしまったようだ。俺は力ずくというのは好きじゃない。そんなことをするやつは、人から恨みを買っていずれ手痛いしっぺ返しを食らうからだ」
半ば意固地になってそう言うギデオンの言葉は、目の前のゴブリンと同時に、リルパにも向けられていた。
皮肉が通じたかどうかちらりとリルパの方に目をやると、ギデオンの方をじっと見ていた彼女は、さっとロゼオネの身体に隠れてしまう。
「……ここを治めている囚人に会わせてくれ。それくらいならいいだろ?」
ギデオンがゴブリンに向き直ってそう言うと、彼はパッと表情を明るくした。
「ああ、偉大なるシャルムートさまに! しかし、お会いできるかどうかはわかりやせんよ。あの方はランページ・リキッドが現れてからというもの、自室にこもりきりなのでございやんす……」
「なぜ?」
「地底湖のランページ・リキッドが、竜のかたちをして暴れ回るからでございやんす。おいたわしいあの方は『竜が追ってきた。竜が追ってきた……』とそう言って、ぶるぶるとお震えになるのでございやんす」
「竜が追ってきた? どういうことだ?」
「シャルムートさまがおっしゃられることには、昔あの方は、ペッカトリアで竜に襲われたことがあるようでやんして……」
そう言って、ゴブリンは眉を寄せた。
「竜というのは、竜車を引くようなあの地竜のことか?」
「いえ、雄々しい翼を持つ巨大な飛竜だったとか……」
それを聞き、ギデオンはそばに立つメイドに訊ねた。
「……ロゼオネ。ペッカトリアに、そんな飛竜が現れたことがあるのか?」
「わっちの記憶ではありんせんねえ。飛竜のお話と言えば、わっちの生まれ故郷でもある東の街、イステリセンの暴竜が有名でありんすが」
「暴竜?」
「フルールさまに討伐された竜で、あの方の本気の怒りを買ったことから『フルールの怒り』と呼ばれる竜でありんすよ。とはいえその竜が現れたのは、わっちが生まれるより随分と前でありんすが」
なるほど、魔女フルールにも色々と英雄譚があるらしい。
関心しながらも、ギデオンはひとまず話を戻した。
「君はシャルムートと会ったことがあるか?」
「街で見かけたことはありんす。あの方は、二年ほど前までペッカトリアで暮らしておりんしたからね」
「……優しいおじさんだよ!」
リルパの大声が響いた。そんなに声を張り上げなくても聞こえるのに、と思うほどの声量だった。気でも引きたいのか、あるいは悪意でもあるのか……。
ただ、彼女の必死そうな様子を見て、ロゼオネは苦虫をかみつぶしたような顔になると、ギデオンをジロリと睨みつけた。
「どうして旦那さまはわっちに聞きなんす! まず、リルパに聞くのが筋というものでありんしょう!」
「え? あ、ああ、そうか。すまなかった……」
ギデオンはひとしきり狼狽してから、改めてリルパに訊ねた。
「……リ、リルパ? 君はその飛竜を見たことがあるのか?」
「ないけど」
……ないのか。
なら、どうして会話に入ってきた?
ギデオンは激しく困惑したが、リルパの考えを推し量ることなど不可能だ。
わからないことだらけだが、とりあえずいまはこの街の問題を調べるのが先だと思った。ひょっとすると、それがミスリルの供給に異変を起こし、ペッカトリア良貨の価値下落と何か繋がっているかもしれない。
「……ずっとこんなところで話しているわけにもいかないから、ひとまず都市に入れてもらってもいいだろうか」
「ああ、もちろんでございやんす! ペッカトリアの囚人さまをお迎えできる栄誉を得られるだけでなく、リルパのご尊顔まで拝見できるとは! ノズフェッカは、あなた方を歓迎いたしやんす!」
「ちょいと待ちなんし」
そのとき、またロゼオネが待ったをかけた。
今度こそ彼女は、自分の名前だけ歓迎される者の中に入っていないのが気に障ったのかと思ったが、またしてもそういうわけではないようだった。
彼女は神妙な顔つきをしている。
「……街に異常がある。それは把握しなんした。……ところで、温泉は?」
「はあ? ……いえ、温泉は平常運転でございやんすが」
「――わあ、やった! 温泉でありんす! リルパ、温泉に行きなんす!」
途端にロゼオネは、リルパの手を握っている方の手をぶんぶんと振り回した。




