良心の希薄化
「……おじちゃん、ちょっといい?」
リルパは静かに口を開いた。
「な、なんだろう? ど、どうかしたかい、リルパ?」
ドグマはガチガチ鳴りそうになる歯を必死にかみ殺しながら、そう答えた。
「ギデオンのことで相談があるの」
「ギ、ギデオン?」
やっぱりそうだ! あの若造は、何も知らないくせにこの街をリルパに売ったのだ!
「ギデオンは象牙が欲しいんだって。いま、それを手に入れられるのはおじちゃんだけでしょ?」
次の言葉は、容易に想像できた。
ギデオンにその象牙を与えたい。お前の地位を、ギデオンに譲れ……。
ドグマは全てを諦め、静かに目を瞑った。リルパの怒りを買って、ここで生きていくことはできない。フルールが倒れて十年あまりの間続いていたドグマの治世は、今日を持って終わりを迎えるのだ――。
「あの人が何か言ってきても、絶対に象牙を渡さないで」
「……は?」
ドグマは目を開けた。
「おじちゃんは優しいから、ギデオンに頼まれたら言うことを聞いちゃうかもしれないでしょ? だから、先に釘を刺しにきたの。ギデオンが何を言ってきても、絶対にカルボファントの象牙を渡さないで」
「そ、それはそうだ……あれはリルパのものであり、フルールのものだからな」
「そうだよ。あれはフレイヤのものなの。他の人間に使う余裕なんてない!」
リルパは、怒り心頭と言った調子でそう言う。
どうやら危惧していた事態とはまた違った展開になっていると気づいたドグマは、そこに希望を見出して、猫なで声を出した。
「ど、どうしたんだい、リルパ? そんな当たり前のことをわざわざ言いに来るなんて? 俺はずっとフルールの家来で、ずっとリルパのために働いてるんだ。ギデオンが何か言ったのかい?」
「……象牙を欲しがってる。他の女の人に使いたいって」
ぶすっとふくれっ面のリルパは、視線を下ろしてそう言った。
「そりゃあ、いけねえよ! ギデオンは気でも狂っちまったのか?」
「やっぱりおじちゃんもそう思う? おかしいのはギデオンだよね?」
リルパの身体から、『怒りの紋様』が消えていく。彼女は目に涙を浮かべていた。
「安心しな、リルパ。俺はずっとお前の味方さ。お前の言うことしか信用しない。もしギデオンがお前の命令だと言って象牙を取りに来ても、こう言って突き返してやるさ! 『リルパと一緒に取りに来い!』ってな」
そう言うと、今度リルパはカァッと頬を赤く染めた。
「……そうだよ。一緒にいたいのに、ギデオンはどうしてわたしを困らせるの? わたしは仲良くしたいと思ってるのに……」
目の前で困惑する少女の様子を、ドグマは神妙な面持ちで眺めていた。
リルパの表情は、確かに恋する少女のものだ。
どうやら、トバルの言っていたことは本当らしい……。
「自由を与えないことだ」
この状況は利用できる。内心でほくそ笑んだドグマは、リルパをあやすようにそう言った。
「……え?」
「『自分はリルパのものだ』って、そいつに理解させてやるのさ。何をやるにも、全てお前の許可を求めるようにする。お前の命令以外では動けないようにする。すると、そいつはすぐに自分の考えを持てなくなる」
「それで……」
「ん?」
リルパはもじもじと身体を揺らし、ドグマを上目づかいで眺めた。
「……それで、ギデオンはわたしのこと好きになる?」
「好きになって欲しいのか?」
「……し、知らない」
リルパは赤い顔のまま、ぷいとそっぽを向いた。
「少なくとも、他のやつのことなんて考えられなくなるさ。命令ってやつは、何とも不思議なもんでな。ずっと命令されて動く人間は、その行動の結果に対してさほど責任も興味も感じなくなっていく。命令されたからっていう理由で、自意識や良心を薄めちまって、命令を出したやつに責任を転嫁しちまうからだ。わかるかい?」
「……よくわかんないけど」
「お前の頭で考えさせてやるんだ。自分の考えを持たせるな」
リルパは興味津々と言った様子で、聞き耳を立てている。
「……ふうん?」
「次第に、命令しなくてもお前の考えを察することができるようになる。お前がどうして欲しいか、どうしたら喜ぶかがわかってくるんだ。お前が自分のことを好きになって欲しいと思ってるなら、当然の結果としてそいつはお前のことを好きになる」
「じゃあ、ずっと命令をしていればいいの?」
「そうさ。で、あんまり言うことを聞かないやつなら殺しちまえばいい」
「殺す……? ギデオンは殺さない」
リルパが真顔でそう言い、ドグマは慌てて言い繕った。
「それくらいの勢いが大事ってことさ! もちろん、本当に殺す必要なんてねえよ。でも、甘くしていると命令にならねえだろ? あくまで厳格に対応する必要があるってことだ……」
「そっか」
リルパはごしごしと目をこすって、そこに溜まっていた涙をぬぐった。
「お前の意のままにならねえことなんて、あっちゃいけねえんだぜ。ギデオンは最近やってきたばかりだから、まだここのルールになじめてねえ。でも、お前には俺がいる。そうだろ? フルールの忠実な家来だ。頼りにしてくれ」
「ありがと」
リルパはぎこちなくだが、ここに来て初めて微笑んだ。
「気持ちは落ち着いたかい、リルパ?」
「うん。おじちゃんに相談してよかった」
「そりゃあよかった! お前の喜びは俺の喜びだからな。ギデオンのことで何か困ったら俺にまた言いに来るんだ。目に余るようなら、俺が直接どやしつけてやるさ!」
「それはしばらく無理だと思うけど」
リルパが意味深な言い方をし、ドグマは眉をひそめた。
「どうしてだい?」
「ギデオンはしばらくノズフェッカにいるから。いま、あそこに向けてお城を動かしてるの」
「城を?」
じゃあ、どうしてリルパはここにいる? と一瞬思ったが、それはあまりにも愚かな疑問だった。リルパがその気になれば、ペッカトリアとノズフェッカの行き来など、ものの数分で済む。
大地は彼女の奴隷だ。
「ノズフェッカに何しに行くんだい?」
「知らない。ギデオンが行きたいって。ああ、でもおじちゃんのためとか言ってたよ」
「俺のためだって?」
あの若造は、まさか何かを企んでいるのでは……?
「……リルパ。ギデオンから目を離しちゃいけねえぜ? さっきも言ったが、ずっとお前が指示を出すんだ。あいつの自由にさせるな」
「……うん。ノズフェッカでは……で、できるだけ一緒にいようかな……? 初めて一緒に旅行するわけだし……」
そう言って、リルパはまた顔を赤くした。
 




