トラウマ
逃走者はうっそうとした森の奥へと、勝手知ったる様子でどんどん進んでいく。
周りの木々の中には見たことがない種もあって、ギデオンの知的好奇心を大いに刺激した。しかし、いまはそんなことを言っている場合ではない。
逃走者は何度か後ろを振り返り、追手をまいたかどうか確認している様子だったが、あいにくギデオンはまかれるどころか次第に距離をつめ始めていた。
ちらりと見えた逃走者の顔には、大きな傷跡があった。
監獄内にいる囚人を下調べする際、あんな特徴的な傷跡がある男の人相描きがあれば記憶に残っているはずなので、この監獄に入ってから魔物か何かにやられたのだろうと推測する。
傷の男は、背に矢筒を背負っている。
(あれで物陰から俺たちを殺そうとは思わなかったのか? 腕に自信がないのか、いや……)
そのとき、あたりに突然甘ったるい香りが漂い始め、ギデオンは眉をひそめた。
それは自分にとってトラウマとなっている匂いだった。
ハチミツの香り――幼いころ、ギデオンは蜂に刺されて死にかけたことがある。
まさか、あの逃亡者が自分のトラウマを知ってここに誘導したわけではないだろうが、ギデオンにとってあまりいい環境でないことは確かだ。
思わず吐き気を催したとき、視線の先で傷の男が矢筒から矢を抜き、右腕に装備された小型の自動弓につがえた。恐ろしい早業と驚く間もなく、自動弓から矢が放たれる。
身体を大きくよじって矢の一撃をさける――が、矢の先には尖った矢じりではなく、黒い丸薬が備え付けられていた。矢の軌道に、焦げ臭い匂いが残っている。
――火矢か!
ギデオンがそう直感した次の瞬間、背中に熱を感じた。
ゴウッ! というもの凄い音とともに背後にある何かが燃えだし、辺りにブンブンとあの嫌な音が響き始める。
火矢の炎は巨大な塚に燃え移り、その中から住民である羽虫を燻り出していた。羽虫はぞろぞろと這い出しては、次から次へと空中へと飛び上がった。
それは蜂の形をしていたが、これまでギデオンが見たことのあるどの蜂の魔物よりも大きなサイズをしていた。一匹一匹が、人の幼児くらいはある。
巣を燃やされた怒り狂った蜂の一匹がギデオンに飛び掛かり、右の脇腹に強烈な針の一撃を叩きこんだ。それが合図となり、蜂たちが一斉に群がってくる。
身体中にまとわりついた蜂たちにバランスを崩され、ギデオンは派手に転倒した。
「――くそったれめ!」
「……兄弟、この森には虫よけをして入った方がいいぜ」
ブンブンとうるさい羽音に混じって、男の声が耳に届く。勝ち誇った響きもなく、それが逆にギデオンの神経を逆なでした。
「……これで俺を片づけたつもりか? 俺に毒は効かない」
「知ってるよ。さっきの戦いぶりを見てたからな」
「お前の顔は覚えたぞ。俺からは絶対に逃げられない」
「そうかい? ま、せいぜい頑張ってくれ」
「お前の住む街の名前は、ペッカトリアだ。だろ? 俺もいまからそこへ行く」
そんなギデオンの精一杯の強がりを聞いても、傷の男には何の驚きもなかったらしい。
「だったら、忠告しておく。ラーゾンは殺すな」
飄々とした態度で肩をすくめると、彼は踵を返した。
森の奥へと消えていく男の後ろ姿を、身体にこびりついた無数の蜂たちにできた隙間から、ギデオンは歯ぎしりして見送るしかなかった。
(くそっ、逃走経路まで用意していたのか! あの場に残っていたのは、いつでも逃げ切れるという自信のあらわれか?)
とはいえ、こんな状態のままいつまでも悔しがっているわけにもいかない。
毒は注入されてすぐに浄化できるが、このままでは身動きが取れない。痛みは体内で作った薬で消しているが、こうして刺され続けているわけにもいかない。あの男の言葉を参考にするのは癪だが、虫よけをする必要があった。
ある食虫植物の中には、捕虫器に入った獲物の量によって、出す香りを変化させるものがいる。獲物の量が少なく、おびき寄せたいときには甘く魅力的な香りを。
逆に、これ以上獲物が捕虫器に飛び込めば、重量で自身の身体が危ういと判断したときには、虫が嫌う独特な悪臭を。
ヤヌステルプスというその植物の名前から、前者は気まぐれな呼び声、後者は気まぐれな脅迫と呼ばれている。
ギデオンはヤヌステルプスを体内で活性化させ、この気まぐれな脅迫の方を選択的に発散させた。
じわりと身体から滲み出した汗に虫を遠ざける成分が混じり、大気中に言いようもない香りが充満し出す。
これは個人的な感想になるが、この匂いはとりわけ人にとって悪臭と言うわけではない。ハチミツの匂いの方が、よほど気色悪い。
気まぐれな脅迫に混じって辺りに漂うハチミツの甘い匂いが、身を小さくしてじっと蜂たちがいなくなるのを待つギデオンに、幼き日のトラウマを思い出させた。
それは、ギデオンが初めて妹のオラシルに後れを取った日。
以後ずっと彼女に劣等感を抱き続けることになる、ある意味では始まりの日。
「お兄ちゃんは、私が守ってあげるから」
死にかけていたギデオンの中から蜂の毒を綺麗さっぱり消し去ると、妹は涙を浮かべながら抱きついてきた。
ギデオンがまだ物心がついたくらいのころから、双子の妹には魔法が使えた。数年後に訊ねてもオラシル自身はその事件を覚えていないというような、それほど二人が幼いころからだ。
「どうやったの? オラシル……」
「毒の消し方を植物に聞いたの」
「植物?」
「お兄ちゃんには聞こえない? 双子なのに、変なの」
それは純粋な疑問だったのだろうが、ギデオンの心に強烈な劣等感を植えつけた。
「でも双子だからよかったよね。お兄ちゃんに何かあっても、私が守ればいいんだもん」
「……俺は別にお前に守ってもらわなくたっていい。今日だって、自力で治せたんだ。余計なことするな」
「えっ……?」
「あんな小さい虫くらいで死ぬわけないだろ。お前のやったことはただのおせっかいだ」
「で、でも……」
オラシルは大粒の涙をぽろぽろとこぼし、ギデオンはようやく自分が恥の上塗りをしていることに気づいた。まさか生命を救ってくれた相手に、当たってしまうなんて……。
「ご、ごめん、オラシル……」
「ううん、大丈夫」
「……今度は、俺がお前を守るから」
「……うん」
目じりについた涙をぬぐいながら、オラシルはにっこりと笑った。
しかしギデオンの決意に反し、その日から二人の差は圧倒的に開くことになる。
これまでギデオンが通ってきたのは、全てオラシルがすでに通り過ぎた道にすぎない。彼女の後を追うことでしか、自分は力を身につけられなかった。
ハチミツの匂い――そして劣等感とともに心へと刻んだ、あの日の約束を思い出す。
(そうだ、オラシル。今度は俺がお前を守ってみせる)
――お兄ちゃんには聞こえない?
そんな妹の言葉を思い出しながら、ギデオンはゆっくりと立ち上がった。
羽音はやんでいた。