逃走者
「……てめえ、人間か?」
犬耳男が、ギデオンの方を見てぽつりと呟く。
「どういう意味だ?」
「バケモンじゃねえかって聞いてるのさ」
「人間だ。師の考えではな。そしてそれは、常に正しい」
「お前、その腕……」
「え?」
言われて自分の腕を見ると、三頭犬につけられた傷が癒え切ったところだった。
「やっぱりバケモンじゃねえか」
「俺はギデオン。あんたは?」
無視して手を差し出すと、ギデオンは嫌そうな顔をする犬耳男の手を強引に握った。
「……ハウルだ」
「そうか、ハウル。俺の力の源は植物だ。植物のことを知れば、お前も俺が大したことをやっていないと知るだろう。『理解できないものを排除するな』――誰の言葉か知ってるか?」
「知らねえよ」
「マテリット・ミクロノミカ。俺の師の言葉だ」
「知らねえよ」
てっきり相手が驚くと思っていたギデオンは、ハウルが返してきた言葉に戸惑った。
「――え? 知らない? 先生を知らないだと? お前この国の人間か?」
「てめえの常識を押し付けようとするんじゃねえよ、うぜえな! そんなどこの馬の骨ともわからねえやつ、知ってるやつの方が少ないんじゃねえか?」
「は? 殺すぞ。先生の侮辱は許さん」
「ああああああああああああ! 俺の芸術品があああああああああああああああ!!」
そのときラーゾンの叫び声が響き渡り、ギデオンはふいとそちらに意識を向けた。ハウルはその隙に、ギデオンの腕を振り払った。
「なんなんだよこの気色悪い生き物はよおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「おい、やめろ。それは俺のペットだ。正確に言うと、俺のペットの根っこだ」
言いながらギデオンは、三頭犬を捕縛する触手に、何度もナイフを突き立てるラーゾンに駆け寄る。
「この植物は、お前もこの三頭犬たちから救ったんだぞ。感謝こそされ、そんな扱いを受けるいわれはない」
「感謝ァ!? 感謝だとおお!?」
「あんたはさっき『三頭犬だ! 逃げろ!』って言っただろ。事実、自分も逃げ回ってた。だから助けてやったんだ。それとも、あれは演技か?」
「え、あ? ああ……」
ようやく我に返ったのか、途端にしどろもどろになって目を逸らすラーゾン。
彼の胸元に垂れさがった笛に手を伸ばすと、ギデオンはそれを矯めつ眇めつ見た。
「……いい笛だな? 今日は調子が悪かったみたいだが」
「い、いつもは鳴るんだぜ、へへへ……」
「残念ながらこっちのハウルには聞こえていたみたいだぞ。面白い芸じゃないか」
「――く、くたばりやがれ!」
ラーゾンが放ったナイフの一撃をかわすと、ギデオンはキュロースローゼにこの男を拘束するように命じた。即座に触手が伸び、ラーゾンの身体を縛り上げる。
「ひ、ひいいいい、た、助けてくれえええ!」
「助けろだと!? てめえ、自分からしかけといて――ぶっ殺してやる!」
「ハウル、あとだ。まだ息のあるやつがいれば治療する。手伝ってくれ」
気色ばむハウルを制止し、ギデオンは辺りに広がる凄惨な光景を示した。
「仕切ってんじゃねえぞ! てめえと俺は何の関係もねえだろうが!」
「いいから手伝え。殺すのはいつでもできるが、死んだら戻らない」
「――ちっ!!」
それから、二人は手分けして生存者を探して介抱した。
ギデオンは植物から治療薬と解毒薬を作って彼らに与え、何とか一命を取り留めることができた囚人は五人に及んだ。
その生存者の中にも、死体の中にも、印象的だったので覚えていたあのミレニアという黒髪の女はいなかった。
身切れた身体が無数に散らばっていたため、彼女も同じように満足なかたちを残さず死んでしまったのだろう。
あるいは、犬の腹に入ってしまったか――そんなことを考えながら他の生存者を探していたとき、ガサリと茂みの奥から当のミレニアが現れ、ギデオンを驚かせた。
「あ、あれ、あんた……」
「――え?」
「無事だったのか?」
「無事……? 私が……?」
自分でも不思議と言わんばかりの様子で、彼女は自分の手をしげしげと眺めている。どこか呆けているようにも見えた。
「ぶ、無事ですね……私?」
「どうやって犬たちから逃れた?」
「わ、わかりません。私は、何もしていません……急に身体に変なマナがまとわりついたと思ったら……」
ミレニアはそれからギデオンを見て、ぎょっとした様子で目を大きく見開いた。
「――あ、あなたこそ大丈夫なんですか!?」
「はあ?」
「そ、そんなに身体からマナを噴出させて……あ、いや、こんなことを言ってもわからないかもしれませんが……」
この娘は何を言っている? いまいち会話がかみ合っていない。
急に身体に変なマナがまとわりついたと思ったら……。
そんなに身体からマナを噴出させて……。
――マナ――マナだと?
まさかこいつ、マナの動きが見えるのか?
瞳術師のキャロルが初めて自分を見て驚いていたときのことを思い出して、ギデオンはハッと息を呑んだ。
ミレニアの左の瞳が、金色に輝いている。キャロルと同じだった。
「……ちょっと待ってくれ。あんたもしかして、瞳術師か?」
ギデオンが興奮して訊ねると、今度はミレニアが息を呑む。それから、彼女はさっと目を伏せた。
「そ、そういう呼ばれ方があるということは知っています……」
「信じられない。輝きの瞳の持ち主は世界に数人しかいないという話だったが……」
ミレニアは俯いたまま押し黙っている。ひょっとして、事情があるのだろうか?
希少な存在であることは、彼女が監獄に入れられたのと何か関係があるのかもしれない。
彼女は罪状を訊ねられた際、「何もしていない」と言っていたが、にもかかわらず監獄行きというのはあまりにも妙だ……いや、彼女の話を頭から信じるわけにもいかないが。
「まあそんなことはいまどうでもいい。俺はギデオンという」
「え、あっ……私はミレニアといいます」
ミレニアはパッと顔を上げ、またギデオンを見てギョッとした。こんな反応をされると、瞳術師の見る世界というものがどのようなものか、本格的に気になってくる。
「俺のことなら何の心配もない。こういう体質だから。それよりもいま、生存者を探していたところだ。生きてる人を見なかったか?」
「いえ、私も茂みの奥でいまようやく動けるようになって……なんであそこにいたんでしょう?」
「あんたが知らないのに、俺が知るわけないだろ」
短く言って、ギデオンはミレニアを連れてハウルのもとに戻った。
そこには、無数の死体と血だまりがある。むごたらしい光景を見て何か反応するかと思ったが、ミレニアはただ眉をひそめ、瞳の奥を暗くするだけだった。
(死体に慣れてるのか? ますますわけのわからない女だ)
魔法薬学にかかわるものとして、ギデオンは師の傍らで多くの死体を見てきた。ただ人が死んでいるだけだというのに、最初は恐ろしく、何度も嘔吐したものだ。
戻ってきたギデオンの隣に無傷の女がいるのを見て、ハウルは驚いた様子だった。
「おいギデオン、なんだこの女は?」
「生き残りだ。それより、ラーゾンを殺してないだろうな?」
ハウルは舌打ちし、顎をしゃくって示す。バラの魔物に縛られたラーゾンは、青ざめた顔をしていた。
「ラーゾン、なんで俺たちに犬をけしかけた?」
「別に。意味が必要か?」
ラーゾンは必死の形相だったが、声は彼のそんな表情にふさわしくないほど静かだった。
「さっきから、何を聞いてもこの調子なんだよ。馬鹿なら馬鹿らしくしゃべればいいものを、妙に落ち着いてやがる……」
ハウルは、胡乱気な様子だ。
ギデオンは身を乗り出し、互いの息がかかるほど顔を寄せてラーゾンの目を覗き込んだ。
「俺たちを殺そうとしたな? その報いを受ける気は当然あるんだろうな」
「脅してるつもりか、坊や。てめえらもはやく監獄に慣れないとな」
「ドグマの差し金か? お前たちのボスなんだろ」
ギデオンがカマをかけると、ラーゾンは目を大きく見開いた。しかし、やはり返ってきた声はどこまでも落ち着いている。
「俺を殺すとボスがお前を殺す」
「やっぱりドグマの命令か」
「いや、ボスは関係ない。てめえらの顔を見て、むしゃくしゃしたんだ」
人が変わったかのようなラーゾンの態度にギデオンが戸惑っていると、おずおずとした様子のミレニアが口を開いた。
「あの……この人、付与魔法をかけられているようですが……」
「付与魔法?」
「身体にマナが張り付いています。ほらここの……この右肩のところに」
「へえ、驚いたな。どんな魔法かわかるか?」
「いえ、そこまでは……」
「――操られてるんじゃねえか?」
ハウルがぼそりと呟いたとき、ラーゾンの目がさっと横に動いたのをギデオンは見逃さなかった。彼が目をやった方向には、やはりうっそうとした茂みがある。
「……そういえば、ハウル。あっちに生存者がいるかどうか、見に行ったか?」
「いや、行ってないな」
「そうか」
次の瞬間、ギデオンは茂みに向けて走り出した。その先でガサリと大きな音がして、逃げていく人影を見つける。
(仲間がいたのか! だが、なんでこの場にとどまってた? ラーゾンを救うためか? だったら、俺たちが場を離れたときに救出できたはずだ――)
「お、おい、ギデオン!」
「まだ他に誰かいるかもしれない! 見張ってろ!」
ハウルにそう言い残すと、ギデオンは逃走者の追跡を開始した。