トーヘンボク
ほどなくして、少しだけ扉が開く。
「おお、リルパ、ようやく――」
扉の隙間に向け身を乗り出したペリドラが、中からにゅっと伸びてきた細い腕に捕まり、中へと引きずり込まれる。
「――は、はああ!?」
と、老メイド長は素っ頓狂な声を上げ、部屋の奥へと消えて行った。
そしてドアがまた、バタンと締め切られる。
ギデオンは、一瞬のうちに起こっためまぐるしい出来事に理解が追いつかないまま、一人その場にぽつんと取り残された。
すると部屋の中から、ひそひそと声が聞こえてくる……。
「……ええ、きちんと説明しなんした……安心しなんす……」
「……ペリドラも、ほんとにもう怒ってない?」
「……わっちもそこまで浅はかな小鬼ではありんせん……初めてのことに、リルパが戸惑うのは当たり前でありんす……可哀想な子……わっちは少し、厳しくし過ぎなんしたね……」
「じゃあ、これからはずっと優しくする……?」
「もちろん! もちろん、わっちはずっとリルパに優しくしなんすとも。わっちはいままでもこれからも、ずっとリルパのペリドラでありんす」
沈黙があり、それからまたごにょごにょと密談がなされたようだったが、今度はその内容までは聞き取れなかった。
「――旦那さま?」
突然、扉の向こうからペリドラの声が響いた。
「何だ?」
「リルパは、ギデオンさまが昨夜よく眠れたかどうか聞いておりんす」
「さっき答えたろ?」
「それはわっちが聞きなんしたこと。いまはリルパが聞いておりんす」
ペリドラの声には、有無を言わせない厳格な響きが込められていた。
「……よく眠れた」
「あの部屋は、リルパが旦那さまのためにと用意した部屋でありんす」
「……そうか、ありがとう」
「リルパ? ほら、旦那さまはリルパの優しいお心遣いに感謝しておりんす。嫌われてなどおりんせん」
またしばらく、謎の待機時間があった。なぜ朝っぱらから、こんなわけのわからないことをしているのか、自分でも疑問に思ったとき――。
ガチャリとドアが開き、部屋の中からペリドラと、彼女の身体を盾にして身構えるリルパが出てきた。
リルパは顔を真っ赤にしていて、ちらりとギデオンと目が合うと、完全にペリドラの背中に隠れてしまう。
「……おはよう、ギデオン……」
メイド長の背中の向こうから、か細い声が聞こえた。
「……おはよう、リルパ」
「ぺ、ペリドラ、行こ……!」
そう言うリルパの声は弾んでいた。
「旦那さまとお話しはもういいのでありんすか?」
「大丈夫だから……!」
「そうでありんすか? では、旦那さま。わっちらはこれで失礼しなんす。トバルさまとお約束があるご様子でありんしたが、お帰りは何時ごろになりそうでありんすか?」
「え、いや、遅くなると思う……」
「――はい? 何と?」
「もちろん、可能な限り早く帰るようにするとも……」
「それはようございなんした。リルパのお食事もありんすので、夕刻までには戻りなんし」
ペリドラはニッコリと微笑んだが、ギデオンにはそれが威圧的な態度にしか見えなかった。
ひとまず脅威から逃れたギデオンは、這う這うの体でトバルの元へと舞い戻った。
「どうしたギデオン? 随分と消耗しておるようじゃが?」
「……リルパとペリドラを同時に相手したんだ。消耗もする」
「おお、それは災難じゃった! ……しかし、さっきのはどういうことじゃ? ペリドラはなぜお前さんを『旦那さま』などと呼ぶ?」
「状況から察するに、俺はどうも、リルパのままごとに付きあわされているようだ」
「ままごとじゃと?」
「恋愛ごっこだ。女というのはませてるな、まったく」
ギデオンが不平を漏らすと、トバルはぶっと吹き出した。
「そうか、そうか! あのリルパもそんな年頃か! そう言えば、あの子ももうこの世に生を受けて十年……いや、十一年じゃったか? 意中の相手ができても不思議ではない!」
「笑い事じゃないぞ。こっちはまるで生きた心地がしない」
ギデオンはむっとして言った。
しかし、トバルはニヤニヤと笑い続けている。
「お前さん、リルパに何をしたんじゃ?」
「怒らせた。そして蹂躙され、血を飲まれた」
「それで?」
「それだけだ。俺はあいつに殺されたと思ったが、気まぐれで生かされたらしい。それ以降、ずっとこの状態だ」
「なるほどのう。つまりはお前さん、フルール並みということか。すごいことじゃないか」
わけ知り顔のトバルが、心底腹立たしかった。
「代われるなら、代わってやりたい。俺がいまどれほど切迫した気持ちでいるか、あんたにわかるか?」
「わかるわけがあるまい。お前さん、さては相当の実力者じゃろう?」
「実力者? いや」
ギデオンは頭を振った。強さとは、力をもって為したことの大きさだ。
「単純な力があるかどうかと聞かれれば、まあそれなりにとは言えるだろうが……」
「ほれ見ろ、そうじゃろうが? リルパはフルールの血の味を好むが、それすなわちフルールの身体に満ちたマナの豊富さに舌鼓を打っておるわけじゃ。リルパがお前さんの血を気に入ったということは、その身体にも同様にマナが満ち満ちておるということ」
トバルは器械の腕で、興味深そうにギデオンの腕を握る。
「ワシのような弱者に、そんな強者の気持ちなんぞわかるわけがあるまい」
ギデオンは、瞳術師のキャロルとミレニアが、自分を見てぎょっとしていたことを思い出した。マナの流れが見える者たちの瞳に、自分は異質な存在として映るらしい。
「マナの多寡で、強者と弱者が決まるわけじゃない。両者をわけるのは、魔法の使い方だ」
「もちろん、それはそうじゃろうがな」
「まあ、いいさ。あんたにあたっていても仕方ない。俺はリルパのような子どもじゃない」
「……ギデオン。これは老婆心じゃが、リルパを子ども扱いしてはいかんぞ。お前さんはままごとと言ったが、リルパは真剣なんじゃ。きちんとレディーとして扱わねば」
ギデオンは、また目の前の老小人をジロリと睨んだ。
「そんなものに付き合ってられるか」
「血気盛んなのはいいが、お前さんも随分と若そうじゃ。これまで、何人くらいの女と恋仲になったことがある?」
「女と? いや、一度もない」
「え……?」
トバルは目を丸くする。
「ああ、お前さん、ひょっとしてそっち系か? 男の方が好きとかそういう……」
「いや、そういう意味じゃない。恋愛自体が、俺の人生に必要のないものだったということだ。ただ、それがどういうものなのかは理解できる」
「で、では人を好きになったことはあるのか?」
「ないな。それどころじゃなかった」
「驚いたっ……!! お前さんの方が、リルパなどよりよほど子どもではないか!」
そう言われて、ギデオンはむっとした。
「恋愛がどういうものか理解していると言っただろ」
「それは耳年増みたいなもんじゃろうが! なんでリルパはこんなトーヘンボクを相手に恋愛なんぞ始めおったんじゃ!」
トバルは、この世の終わりと言わんばかりの絶望的な顔をしていた。
「うるさいぞ! 俺だって好きでこんな境遇に陥ったわけじゃない!」
「頼むからやけになるな、ギデオン。これはペッカトリアの危機じゃ。ワシからボスに伝えておく……大丈夫じゃ、お前さん一人に戦わせたりはせん……と思う、多分……」
トバルは無理やり笑顔を作り、チッチッチと笑った。




