招かれざる客
昨晩、狼の化け物にぼろぼろにされた病院は、すでに落ち着きを取り戻していた。
囚人会議を終えて、ひとまず白亜の建物の様子を見に戻ったシェリーは、小鬼たちの勤労意識の高さと団結力に改めて舌を巻いていた。
特にここの小鬼を束ねる小鬼、キリンキは今朝目が覚めてからずっと上機嫌で、率先して部下たちを介抱して回っていたらしい。どうやら、昨晩ひょっこりと訪ねてきたリルパと会話できたことが、よほど嬉しいようだった。
「そんなにニコニコして、ちょっと不気味よお、あなた……」
「リルパがわたくしめを必要としてくれたのでやんす。これを喜びと言わずに何と言うのでございやんすか」
リルとリルパに対する小鬼たちの感情は目を見張るものがある。彼らのためなら生命すらいとわないという、ある意味では妄信的とさえ言える信仰心を育んでいる。
「でも、そんなに笑いながら、患者のお腹を切ったりできるのかしら?」
「できますとも。むしろわたくしめがリルパと話したという事実を話せば、患者は羨ましがって痛みを忘れることでやんしょう!」
「ちゃんと麻酔をしてあげてねえ……」
キリンキはピカピカに磨かれた術用ナイフを点検してから、シェリーに恭しく頭を下げた。
「では手術に行って参りやんす」
どうも二、三日前に腹痛を訴える小鬼が担ぎ込まれたらしい。最初はまだ会話もできていたようだが、いまは熱にうなされて意識が朦朧としているという話だ。
そこで、キリンキがいまから切開手術を執り行なう段取りになった。
悪性の腫瘍ができている可能性もあり、患者の容体から見ても事態は一刻を争う。
医療魔法を使える者がいれば、そのような原始的な方法を取らなくてもいいのだが、ここは小鬼たちの世界だ。
シェリーもこの病院の世話にならないよう、普段から健康には気をつけていた。
「手術が終わったらもう私は帰ってるかもしれないけど、あとの処理はよろしくねえ」
「ええ。すぐにここを昨日までの美しい病院に戻してみせやんす」
キリンキが出て行ってから、気分屋のシェリーは先ほどの発言に反してあまり帰る気にもなれず、部屋の安楽椅子に腰かけて、長い間ずっと物思いにふけっていた。
もっぱら考えているのは、今朝ともに竜車に乗ってボスの宮殿に行った新入り、ギデオンのことだ。
若く危険な雰囲気を漂わせるギデオンは、シェリーの目にとても魅力的に映った。
きっとこれまで、彼は大きな恋愛など経験していないに違いない。もちろんこれは、女の勘に過ぎないが。
今年で二十六になるシェリーは、何度か大恋愛というものを経験している。
もうこの人しかいないという恋人が実は妻帯者であると知ったとき、思い余ってその恋人を殺してしまうこともあった。
シェリーが好きになった相手は、大体死んでしまう。みな弱く、シェリーの激情に耐えられないからだ。
でも、多分あのギデオンは違う……。
(何かきっかけが必要よね? ああ、早くあの狼の坊やが見つからないかしら……)
そんなことを考えているときだった。
「……シェリー?」
近くで突然声がして、シェリーは革張りの安楽椅子の上で飛び上がった。
「な、何よ、ラスティじゃない……驚かさないで!」
「ずっとノックをしてたんだけどな。あんたは心ここにあらずって感じだった」
「あら、そうなの? それは悪かったわあ」
シェリーは気を取り直し、一級身分の囚人ラスティに向け、ニコリと微笑んだ。
「それで、何の用かしら?」
「……実はさっき会議に出た狼のことであんたに話があってさ」
ラスティはひそひそと声をひそめた。
たったいま自分が考えていたことをラスティが口にして、シェリーは胸をときめかせた。
「――狼の坊やを見たの!?」
「見たってわけじゃねえんだけどよ。気になることがあって」
「気になること?」
「昨晩、俺はボスから伝令を頼まれて、スカーの兄貴の家に行ったんだ。そのとき家の中が滅茶苦茶荒れてて、確かに兄貴は『ここを荒らした狼には、まんまと逃げられた』って口にしたんだよ」
シェリーは息を呑んだ。
「どうして会議で言わなかったの?」
「いや、それは……」
ラスティは途端にもごもごと言葉を濁し始める。
きっとスカーに怖気ついたのだ、とシェリーはすぐにわかった。
あの会議中スカーは、自分が知っていることは何もないと強調し、その上でラスティに知っていることがあれば話すように言っていた。あれは、要するに脅しだったのだ。
「……スカーが怖かったのねえ」
「処世術さ。囚人同士がやりあえば、ペッカトリアのためにならねえ。だろ?」
強がりを言うラスティが、シェリーの目にはちっぽけに映った。
何て器の小さい男だろう……。
スカーに頭の上がらない小心者。
そもそもの話として、ラスティの魔法は誰か他の人の魔法に寄生しなければ成立しないという弱々しいもので、彼はその寄生先としてスカーを選んでいるという話だった。ゆえに最初から、力の源泉であるスカーを相手にしても勝ち目がないのだ。
「ペッカトリアのためって言うなら、あの場できちんと話すべきだったわ。しかも、どうしていまになってそれを、私にだけ伝えてくれるってわけ?」
「あんたが困ってるようだったから」
「それでどうしたいのかしら? あんたが怖くて仕方がないスカーと、こんなにか弱い私を争わせようって言うの? どうしてお前は狼のことを黙ってる! って」
「違う! 違うよ、シェリー。俺はつまり……」
うんざりしながら、シェリーは目の前であたふたと顔を赤くするラスティを眺めた。
この囚人が自分に好意を持っていることは知っていた。生娘でもあるまいし、そういうことは大体、男たちの普段の視線や態度でわかるものだ。
「俺はこれから、兄貴と協力して狼を探そうと思ってる! あんたには、そのことを知っといてもらいたかったんだ!」
「あら、そういうこと? 勇ましいのねえ」
「危険な化け物だ。こういうのは男の仕事さ。だろ?」
「嬉しいわあ。でも、殺しちゃだめよ?」
シェリーが微笑みを作って言うと、ラスティはきょとんとした顔になる。
「なんでだ? あんたに手を上げたやつだぜ。こんなに青痣だらけにしやがって、許しちゃおけねえよ。ぶっ殺してやる」
「だめ。生きたまま連れてきて。あの坊やは、ギデオンへのプレゼントにするんだから」
「ギデオン……?」
ラスティの目に、さっと嫉妬の炎が宿るのがわかった。
「あの新入りか。あいつは随分と生意気なやつだ。近々、ここのルールを叩き込んでやらなきゃいけねえと思ってたところだぜ」
「馬鹿なことを考えるんじゃないわよ? あんたなんかじゃ、喧嘩を仕掛けてもギデオンに勝てっこないから。アルビスと墓地で戦って勝てる? ギデオンは勝ったわ」
「わけねえよ、あんなジジイ。やろうと思えばいつでもやれたさ」
「そう?」
「――お取込み中のところ申し訳ございやせん」
そのとき部屋に別の声が響いて、シェリーはやんわりとラスティを手で制した。
そこにいたのは、キリンキだった。
「どうしたの、キリンキ? 手術中でしょ?」
「いえ、せっかくシェリーさまがまだおられるご様子でやんしたので、急ぎお伝えした方がいい案件かと思いやんして」
キリンキは嬉しそうにニコニコしている。
「どういうこと?」
「ちょっとこちらへ」
手招きする小鬼に連れられ、シェリーは仏頂面のラスティを置いて席を離れた。
「ちゃんと手術は終わったの?」
「開腹して異物は取り去りました。縫合は他の者がいま行っておりやんす」
「途中で抜け出してまで、私に伝えたいことって何なのかしら?」
「シェリーさまは宝石がお好きだと思い出しやんして。あの愚かな小鬼は、宝石を飲み込んでいたのでございやんす! 腹に妙に硬いしこりができていると思えば、その正体はなんと宝石だったのでございやんす!」
「まあ、なんてことかしら!」
「とても美しい宝石でございやんすよ! それに大きさも素晴らしい。シェリーさまに献上すれば、きっとお喜びになられると思った次第でございやんす」
「あなたはいい子ねえ、キリンキ……上司思いの部下を持って、私は幸せだわあ」
宝石と聞いてうきうきしたまま、シェリーは別室に足を踏み入れた。
それから、すぐに木彫りの机の上で輝きを放つ宝石に気が付くと、うっとりとその美しさの虜になった――次の瞬間、背筋にぞくりと悪寒を覚えて全身を強張らせた。
「どうでございやんしょう? 見事な宝石だと思われやせんか?」
「こ、こんなものを、あの小鬼は飲み込んでいたというの……?」
「そうでございやんすが? どうかされやんしたか?」
「あの宝石が何なのか、あ、あなたは知ってるの、キリンキ……?」
「いえ、恥ずかしながら、そういうことには疎いのでございやんす。ずっと医療ばかり勉強しておりやんしたから」
シェリーは驚愕したまま、突如として自分の管轄に飛び込んできたそれを、恐る恐る掴み上げた。
間違いない。
一見して宝石にしか見えない『これ』は、とある魔物の牙を運搬しやすいように砕いて加工したものだ。
魔力を帯びた炭素鉱石を食べる習性をもつというその象は、極めて硬質で美しい牙を生やす。その牙には神秘の力が宿っており、あらゆる邪悪を払いのけることができるのだと。
シェリーは改めてその招かれざる客を見て、ゴクリと喉を鳴らした。
――これは、カルボファントの象牙だ。




