圧倒的怪物
「……な、なんデス、これは?」
ギデオンの身体を覆う異常な発熱は、収まるどころかよりひどくなっていく。
そのとき、ギデオンが上空にいる自分にゆっくりと、先ほど確かに吹き飛んだはずの右腕を向ける。
猛烈に嫌な予感がした。
まずい……何がまずいかはっきりとわからなかったが、膨大な熱がもう一度その右腕に集まっているのを感じて、ヤヌシスはぞくりと背筋が冷たくなった。
あの行動を、何としても阻止しなければならない! 咄嗟にそう判断し、猛烈な風に乗って彼との距離を詰めた。
「――不気味なやつデスね、お前は!」
叫びながら、頬、胸、腹、手当たり次第に拳を叩き込む。
「不快! 不快! 不快デスよ! 『醜い』人間のくせに、この神聖なる神殿に足を踏み入れて――」
そこまで言って、ハッとする。
醜い『人間』……? この男は、本当に人間か……?
なぜ人間が腕を再生できる? そもそも、その前まででも、致命の一撃はあったはずだ。なのに、なぜダメージを受けている素振りさえ見せないのだ……?
殴られて顔を背けていたギデオンは、何事もなかったように顔を戻す。そして、ヤヌシスに向かって手を伸ばしてきた。
「う、ううあっ……!?」
思わず口から漏れ出た悲鳴とともに、ヤヌシスは上空に逃れた。
心臓が早鐘を打っている。
――と、次の瞬間。
広間の天井、壁面、床の石畳――ありとあらゆる方向から、太い木々が飛び出してきた。
神殿がきしみを上げ、そこは一瞬にして森と化した――上や横から生い茂る木の集まりを指して、『森』と言っていいのなら。
ヤヌシスは突如自分の前に現れた巨木に行く手を塞がれ、方向転換を余儀なくされた。
――右足に違和感を覚えたのはそのときだ。
いつの間にか、木々を伝って上空までやってきていたギデオンが、ヤヌシスの右足を掴んでいた。
「こ、この――」
風の刃で手首を切り飛ばしてやろうとしたそのとき、自分の世界が回転するのがわかった。
ギデオンは、両手でヤヌシスの足首を掴んで振り上げると、木こりが木に斧を入れるのと同じ要領で、ヤヌシスを巨木へと叩きつけた。
暗闇の中で火花が飛び、ヤヌシスは大きく息を吐き出した。
「――お? もう呼吸をしてもいいのか?」
ギデオンが言葉を発する。彼の身体の周りにある大気を操作する余裕など、いまの一撃でなくなってしまっていた。
その隙に、ギデオンはもう一度ヤヌシスの身体を木に叩きつけた。
「――ぐううっ……!! お、お前は……なぜ……?」
「俺は別に呼吸をしなくてもいいんだ。人間らしく振る舞うためにそうしているというだけで」
「で、ではやはり人間ではないのデスか……?」
「いや、人間だ。師の言葉によればな。そしてそれは、常に正しい」
淡々と言いながら、またギデオンはヤヌシスを木に叩きつける。
ゴンッと頭蓋に音が響く度に、ヤヌシスの意識は少しずつ刈り取られていった。
巨人種のような何事においても力任せな種族なら理解できる。しかし、いったいこの細い身体のどこにこんな力があるのか……?
混乱したヤヌシスは、この窮地から脱する方法よりも、そんなどうでもいいことを考えていた。
「……ちょっとした光と水分があれば、あとは身体の適当な物質を分解して活力を作ることができる。しかし普段やり慣れないことをすると、今度は作り過ぎた活力をどこに発散していいのかわからなくなる。俺はさっき、不格好に震えていただろう」
「は、発散……?」
「いまやってることだ」
ギデオンは今度、ヤヌシスの足を掴んで逆さ向きに宙吊りにすると、下になった彼女の顔を思い切り蹴りつけた。
こ、この男は化け物だ……! このままでは殺される……!!
ヤヌシスはそのとき、自分の生命と宗教的信念を秤にかけることになった。
ゴルゴンの最後にして最強の武器、石化の瞳を解放することでしか、もはやこの化け物を排除することはできないだろう。しかしそれをすると、『醜い』人間をメフィストのもとへと送ることになる。
メフィストの敬虔なる信徒として生きてきたヤヌシスには、それがあまりにも耐え難い背信行為のように思われた。
「ああ、メフィスト……許してください。いまのワタシには、この試練を乗り越える術がどうしても浮かばない……そうだ、石臼を使いましょう……石臼でゴリゴリと、存在自体がなかったことになるまで……その石像を、粉々に砕いてしまえばいいのではないデスか……?」
「ブツブツうるさいぞ。俺はお前と違って、おしゃべりはあまり好きじゃない」
ヤヌシスは決断し、その目の覆いを取り去った。
「……うるさいのはあなたデスよ……ワタシは許される。メフィストの友にして、彼女の敬虔なる信徒なのデスからね……」
逆さ吊りのまま、ヤヌシスは視線を上げてギデオンの目を見つめた。
ギデオンもヤヌシスの瞳を見返してくる。
「……思っていた通りだ。お前はやはり綺麗な顔をしている」
「あなたは『醜い』ですね……しかし……ふっふふふ……焼けた顔の皮膚が再生していることには、もう驚きませんよ」
ヤヌシスは青痣だらけの顔で。悠然と微笑んだ。
「――初めまして、ギデオンさん。そして、さようなら」
「――ツリーフォーク症という病気を聞いたことがあるか?」
突然、ギデオンはそんなことを言い出した。
「……な、何? ツリー……?」
「罹患した者の時間がゆっくりになってしまう病気だ。その症状が、ツリーフォークのように見えるとして名づけられた。俺は、とある方がその病気の根絶を成し遂げるための助力となれてな。お前はここが長そうだから、その魔法薬の存在を知らないかもしれないが」
「――何の……何の話をしているのデス!」
ヤヌシスは怪訝に思って、ギデオンの瞳をもう一度凝視した。
ギデオンもまた見返してくる。そして、何食わぬ顔で自分勝手な演説を続けた。
たったいま、おしゃべりが好きでないと言っていた口で……。
「その病気に立ち向かう前に、打ち倒すべき病魔があった。人の時間を完全に止めてしまう病気で、ゴルゴンやバジリスク、コカトリスの瞳によって引き起こされるものだ。その病気を治す方法を先生が探し出すのに、二年かかった。そして、その石化症薬に改良を加えながら、先生はツリーフォーク症の魔法薬を作ることができたというわけだ」
ギデオンはその話をするとき、そこはかとない得意顔を浮かべていた。
「つまり石化症薬は、ツリーフォーク症薬のプロトタイプにあたる。存在の時間がゼロになるという極端な症例の研究こそが、時間異常を引き起こす他の病魔を駆逐するための、文字通りのゼロ地点になったわけだ」
しかしヤヌシスは、そんな話を聞いてなどいなかった。この男がいつまで経っても石化しないことに、どうしようもない不安を覚えていたからだ。
「な、なぜだッ! なぜお前は石化しない!」
「お前の瞳は、俺にとって脅威ではない。俺は、ノスタルジアですでに開発された石化症薬の投薬を受けている。もっと言うと、その薬の実験段階からな。お前がメフィストを崇拝するように、俺もあるお方を崇拝している。俺とお前の力の差は、そのまま崇拝する方の力の差かな?」
「――メフィストを愚弄するのか!」
ヤヌシスは逆に吊られた体勢のまま、空気の刃をギデオンに放った。
しかし、刃は硬質な金属音とともに砕け散ってしまう。
「見せてやると約束したな。いま俺の身体の表面を纏う鋼鉄の鎧がアダメフィストだ」
「……え?」
「俺には、お前の全てが通用しない」
そう言うと、ギデオンはヤヌシスの身体をぐいっと引き上げ、今度は首に手をかけた。
首を締め上げる力がギリギリと強くなってくるのを感じて、ヤヌシスは震え上がった。
二人の顔が近づき、ギデオンの瞳には怯えた自分の『醜い』顔が写っている。
偽装を暴かれ、本当の力も通用せず、最後の頼りだった石化の瞳も効かない……。
ヤヌシスの瞳がいま間近にとらえているのは、正真正銘の怪物だった。




