監獄世界へ
囚人たちを監獄迷宮へ放り込むのは、週の頭である安息日の翌日だ。ギデオンの裁判は週末にあったので、薄暗い留置所で二日過ごす羽目になった。
じりじりした気持ちのまま移送当日を迎えると、ギデオンは目隠しをされて獄吏に連行された。
こちらの世界と監獄世界の狭間には『ピアーズ門』と呼ばれる回廊があって、そこを通ることで二つの世界を行き来できる。
視界は閉ざされていたものの、寒さに似た感覚があって、ギデオンは自分がいま絶望への一方通行とさえ言われるこの回廊を歩かされているのを悟った。どういう原理かこの場所ではマナを感じられなくなり、魔法が使えなくなる。
実は、このような感覚を覚えるのは今回が初めてではない。
というのも、監獄世界に入った囚人との面会を希望する人間も、同じような処置をされてこの場所を歩くからだ。
ギデオンは監獄に入る前、中にいる囚人と面会して、監獄内の世界がどうなっているかを念入りに調べ上げた。何の知識もないまま地獄へ落ちるほど、自分は馬鹿でもなければ不遜でもない。
※
「監獄内の生活? 何でそんなことを聞く?」
ギデオンが白羽の矢を立てたのは、メニオールというハーフエルフの女だった。
罪状を見てもそこまで悪人と思えなかったし、何より自分と同じ混血種というのが決め手になった。中途半端なやつは同じような境遇におかれていることが多いから、理解を得やすいと思ったのだ。
「本を書きたい。『迷宮探索記』という本を知っているか?」
ギデオンが訊ねると、メニオールは青い目をすっと細めて笑った。
「読んだことあるな。でも、あれは情報が古い」
「そうだろう。だからその最新版を書きたい。怖いもの見たさで監獄の中のことに関心を寄せる庶民だっている。きっと売れるさ」
「協力する報酬は?」
「欲しいものを言ってくれ。次の面会までに用意しておく」
「じゃあ金貨でいいか。フォレース金貨はこっちでも流通しているから」
メニオールの言葉に、ギデオンは意表を突かれた。
「何を驚いてるんだ? こっちにだって経済はあるし、貨幣だって発行している。フォレース金貨は信用度の高い良貨だよ」
「経済? この本にはそんなことは書いてなかったが……」
「だからそいつは古いってのさ。フルールって魔女が仕切るようになってから、監獄内は一気に発展したって話だ。そのとき私は入ってなかったから、古株に聞いただけだけどな」
監獄の中には凶悪な魔物はもちろんだが、他に『小鬼』という知的生物が繁栄しており、村や町に相当するコミュニティを形成しているらしい。
そしてピアーズ門にもっとも近いコミュニティの一つは、別の世界から幾度となく送り込まれてくる囚人たちを受け入れ、共生し、彼らの知識を吸収して高度に発展しているという話だった。
囚人の街、ペッカトリア。
ピアーズ門を出た囚人たちが最初に連れて行かれる都市は、そう呼ばれているらしい。
ペッカトリアはいま、二百年以上も前に監獄送りになったという巨人種の囚人ドグマによって、統治されている。
最初の統治者だった魔女フルールは、すでに権力の座を追われたようだった。
ギデオンが初日にハーフエルフのメニオールから聞き出したのは、大体そんな感じだった。
彼女と二度三度と面会を重ねるうち、ギデオンは監獄内の様々な知識を身につけたが、あるとき同じように彼女との面会を求めたとき、賄賂を渡して監獄内とのパイプ役をしてもらっていた獄吏は短く言い放った。
「許可できない」
「なぜだ? いままで何の問題もなかったはずだ」
「死んだからだ。先日、囚人メニオールの死亡告知があった。残念だったな。そんなに通い詰めるほどいい女だったのか?」
下卑た笑いとともに放たれた獄吏の言葉を、ギデオンは衝撃とともに受け止めた。
自分がいまから向かおうとしているのは、これまでの常識が通用しない別世界だ。
当然だろう。過酷な環境に加え、凶悪な囚人たちがはびこる世界……。
死は常に隣り合わせだ。
※
ギイィ――と、重い何かが開く音がして、ギデオンの意識を現実へと引き戻した。
目を覆う布を透過してくる光を感じる。
少し進んだところで、今度は背後で同じ音がする。最後に、ドシンと大きな音。
後ろ手の拘束が外されると、背後の獄吏が囁いた。
「もう目の布を外していいぞ」
「到着したのか?」
「自分で確かめろ」
目隠しを外すと、そこには巨大な森があった。木々を縫って、土面の道が森の奥へと続いている。
目を上にやると、日が輝いていた。背後には荘厳な造りの城があり、ギデオンはいまその城門から出てきたようだった。
フォレースの留置所から歩いた距離を考えると、あり得ない光景だ。
「なるほど、これが監獄の中……迷宮と呼ばれる世界か」
誰にというわけでもなく、ギデオンはそう呟いた。
城門の前には、他に連れてこられた囚人と思われる者たちがたむろしている。
数は三十人ほどいるだろうか。みなもう拘束を解かれており、この空間の他に彼らを縛るものは何もなかった。
※
監獄に入って一年になる囚人のラーゾンは、ボスであるドグマの命を果たすため、かつて自分も通ってきたピアーズ門――小鬼たちに言わせれば『神聖なる神殿』ということになるらしいが――その近くで身を隠していた。
「……なあ、兄貴、本当にやるのか?」
ラーゾンは同行者に向け、不安げに語りかけた。
顔に大きな傷があるその男は、仲間内では傷の男と呼ばれ、何十という殺人の罪を背負ってここに落ちてきた札付きの極悪人だった。
しかし監獄では、重い罪の人間ほど一目置かれる。
大量殺人犯のスカーは、違法生物の飼育というパンチ力に欠けた罪で捕まったラーゾンよりも、ここでは遥かに信用があった。
「あのデブの言うことは絶対だ。そうだろ」
そう言って、スカーは顔を歪めた。傷のせいで不格好だが、どうやら笑っているらしい。
「デブって、ボスのことか? めったなこと言わねえでくれよ、兄貴……」
「はっは……お前をリラックスさせてやろうと思ってな。オレはお前を信用してねえが、お前の魔法と飼い犬は信用してる……ボスもそうだ」
「だから、こいつらは飼い犬じゃねえって! みんな俺の家族だ! シロ、クロ、ポチ……」
ラーゾンは、近くで伏せる利口な犬たちの名誉のため、声を張り上げた。
「どいつがシロで、どいつがクロだ?」
「ニュアンスでわかるだろ? こっちの白いのがシロで、黒いのがクロ……」
「それぞれ頭が三つあるが、名前は一つずつでいいのか?」
「そういう面倒くさいこと言わねえでくれよ」
ラーゾンはうっとりしながら、優しく三頭犬の一頭を撫でた。もともとの世界でキメラは違法だったが、監獄の中には何の制約もない。生命同士を練り合わせ新しい種を生み出すのを、ラーゾンは芸術だと思っていた。
「……オレより、お前の方がよっぽどイカレてると思うぜ……」
「お、俺は兄貴みたいに人を殺したことなんてねえよ!」
「犬たちは何人も噛み殺したんだろ? とにかく、お前の家族に噛みつかれちゃかなわん。オレはここでお前の仕事を見守ってるからよ」
スカーがラーゾンの右肩に手をポンと置くと、シロの首の一つが低く唸った。
「おい、ダメだシロ! お前が噛むのはその人じゃねえよ!」
「任せたぞ。今回入所してくるやつらは、全員殺すように言われてんだからな」
スカーの言葉を聞いて、ラーゾンは改めて暗澹たる気持ちになった。自分たちが任されたのは、今週の新入りたちを全員始末することだ。何とも後味の悪い仕事ではないか。
「……なあ、兄貴はボスから、今回の仕事をやらなきゃいけねえ理由とか聞いてないのか?」
「聞いてねえよ。ただまあ、外とのやりとりがあったんだろ。生きてるだけで、よほど都合の悪いやつがいるってことだ」
「なんでリルパにやらせない?」
リルパというのは、ここのボス巨人のドグマが飼いならす怪物だった。というよりも、唯一その怪物をコントロールできるところに、ドグマの権力の全てがあった。
小鬼たちの言葉で『リル』は神を意味し、『リルパ』はその子どもにあたる。もといた世界を含めて、あれほど圧倒的な怪物はいないと断言できる。
「ボスの考えでは、リルパはここの秩序なのさ。だから今回みたいな汚れ役はなしだ」
「まだガキだろ?」
「ガキだからだ。不当な殺しをリルパが覚えたらどうする?」
それを聞いて、ラーゾンは震えあがった。あまりにもぞっとする話だった。
「余計なことを考えるな、兄弟。お前は黙って仕事を果たせ。いいな?」
「わ、わかったよ」
相変わらず、この世界は狂ってやがる。
(皆殺しだと? 人の生命を何だと思っていやがんだ!)
狼狽した心を落ち着かせるため、ラーゾンは自分の作り上げた芸術品をもう一度眺めた。