絶望と光
――あなたが象牙で救いたいという人は、東国カエイルラの姫君でしょう?
――カエイルラの姫はいま呪いに犯されているという噂です。あなたは彼女のために象牙が必要なのではないのですか?
そんなミレニアの言葉を思い出す。
どうやら、カエイルラの姫君は呪いに苦しんでいるらしい。
しかし、そんなことはギデオンにとって関係のない話だった。
ギデオンは妹のオラシルを救うために、この監獄世界にやってきたのだから……。
「……カエイルラの姫君? どういうことです?」
しばらくしてから、ギデオンはマテリットの言葉を怪訝に思って訊ねた。
その問いに答えたのは、彼の隣に立つキャロルだった。
「私がカエイルラのお抱え魔術師だという話をしたでしょ? 私はずっと姫を救う方法を探していたのよ。呪いを解く方法をね」
「それが何です?」
「カルボファントの象牙を手に入れるためには、どうすればいいのかずっと考えていたの。それさえあれば、姫の呪いを解くことができる。でもここ最近、象牙はまるで私たちの世界に流通しなかった。だから、誰かが監獄に直接取りに行くしかないって、そう思ったのよ」
「危険な役目だ。誰にでも任せられるものではない。監獄の中には未知の生態系があり、さらには凶悪な囚人たちがひしめいている。送り込むならば、強靭な人間でなければ」
マテリットは笑顔のまま、そんなことを言う。
「ま、待ってください、先生……俺には、いまいち話が理解できません……」
「その役目に選ばれたのがお前ということだ、ギデオン。お前は監獄世界を生き抜き、象牙を手に入れる。カエイルラの姫を救うためにな」
「しかし、俺はオラシルを救うために……」
「彼女は単なるツリーフォーク症だ。象牙などなくても治療することはできる」
それを聞き、ギデオンはポカンと口を開けた。
「ツリーフォーク症……? オラシルがツリーフォーク症ですって……?」
「そうとも。私たちが長年かかって治療薬を作り上げた難病だよ」
「でも、オラシルには薬が効かなかったじゃないですか……?」
「薬を投与したのは私だ。わかるか、ギデオン? あのときお前の目の前で彼女に投与したのは、単なる栄養剤だよ。もし本物の治療薬を投与していれば、たちまち彼女はツリーフォーク症から回復していただろう」
「ど、どうしてそんなことを……?」
「まだわからないかね? オラシルの不幸は、呪いによって引き起こされていると見せかける必要があったということだ。そうすれば、お前は妹を救うために監獄に入り、カルボファントの象牙を手に入れてくるだろう。お前は妹のために身体を差し出し、自分を実験台にして魔法薬を完成させようなどと考えるやつだ。ならば今度は自分の危険を顧みず、監獄に向かうだろう、とな……。事実そうなった」
ギデオンは、自分の胸中にむくむくと嫌な予感が膨れ上がってくるのを感じた。
あり得ない……そんなことは絶対にあり得ないはずだ……。
まさか、師が自分を騙そうとしていたなどと……。
マテリットは象牙のペンダントをうっとりと見つめながら続けた。
「私とキャロルの利害が一致したんだよ。彼女は自分の仕える国の姫君を救う方法を探していた。そして私は、自分の地位を脅かす弟子を排斥する方法を探していた。監獄世界は、まさに私たちの願望を叶えるのに相応しい場所だった」
「先生の地位を脅かす……? ど、どういうことです?」
「私は片田舎の魔法薬師だった。それが本当の私で、私に相応しい姿だ、ギデオン。しかしお前が現れてからというもの、私はたちまち世界に名をとどろかせるほどになった。身の丈に合わぬ服を着せられ、過大な評価を受けたのは全てお前の才能によるものだ。だが、私は新しい地位と生活を享受することにした。私には才能がなかったが、幸運があった。いまの世の中には、幸運だけで成功している者などごまんといるからな。私も、その仲間入りをしようとしたわけだ」
「待ってください……先生に才能がないなんていうのは、あまりにも謙遜が過ぎるというものではないですか……? 先生は、難病を克服する薬をいくつも作り上げ、多くの人々を救いました……誰も成し遂げられなかったことを……」
「それを可能にしたのは誰だ? 私にできることなど、物質同士の調合くらいだ。理論の構築は、全てお前と、お前のその強靭な肉体がやってのけた。このままではいけないと思ったよ。表向き、私の成果と言われているあらゆるものが、実は他の人間によるものだと世間に知られるわけにはいかないと思った。せっかく手に入れた夢のような地位を、失ってしまうからな」
「せ、先生はそのようなことを言う方ではないはずです……ああ、これはきっと何かの冗談でしょう……? そうやって、俺をからかっているんだ……」
「お前がずっと見ていたのは私ではなかった。自分の中にある理想を、マテリット・ミクロノミカという人間に重ね合わせて見ていただけだ。違うかね?」
「先生は偉大な方です……俺をずっと導いてきてくれた方です……」
ギデオンは絶望的な気分になり、頭を抱え込んだ。
これはきっと夢だ……。自分はいま、きっと悪夢を見ている……。
気づくと、ギデオンの瞳からは涙が零れ落ちていた。
そんなギデオンを見ても、マテリットは表情を変えなかった。依然として酷薄な笑みを張りつけたまま、尊大に言い放つ。
「もちろん、偉大であろうと思っている。私はこの栄光ある地位を誰にも譲る気はない。お前が手に入れたこの象牙を使えば、カエイルラの姫君を救える。カエイルラの国王はその報酬として、私に望みの領地と爵位を与えると約束してくれた。私はそこでみなに称賛される魔術師として、半ば隠居生活を始めるつもりだ。表舞台に立って、ボロを出すようなことがあってはならないからな」
「――貴様のせいだ、キャロル! 貴様が先生によからぬことを吹き込んだんだ!」
ギデオンは格子を掴み、マテリットの横に立つ女に怒気を向けた。
するとキャロルは肩をすくめ、口をへの字に曲げる。
「私は最初、あんたに象牙の入手を依頼しようとしたのよ? でも、それではあんたを動かせないって、マテリットが言うから。『金を積むよりも、もっと簡単な方法がある』ってね。私はもともと、こんな方法を取る気はなかったのよ」
「嘘を吐くな! 貴様が先生をたぶらかした! 先生は偉大な方だ!」
「黙れ、ギデオン。そこまで私を敬愛していると言うのならば、私のためにお前ができることを教えてやろう。それは、そちら側の世界で大人しく死ぬことだ。二度と私の目の前に現れるな」
マテリットのその言葉で、ギデオンは格子を握ったまま、ずるずると崩れ落ちた。
師の意志は決定的だった。誰かに指図されたというわけではなく、自らの考えで弟子を騙すつもりだったのだ……。
「嘘だ……これは何かの間違いだ……」
「何も間違いなどはない。実際のところ、お前の働きはすばらしかったぞ、ギデオン。私はずっとお前に怯えていたが、無理をしてでも使い続けた甲斐があったというものだ。お前は最後まで私の役に立った。私の立場をこれ以上なく高め、そしてその立場をより強固にしてくれた。だが、もう用はない」
「――救え、オラシルを!」
ギデオンは顔を上げ、格子ごしにマテリットに掴みかかった。
しかし、彼はさっと身を翻して手の届かない場所まで下がってしまう。
「ツリーフォーク症ならば、すぐに治療することができるはずだ! オラシルをいますぐ救え! それが俺を利用したあなたの、当然の責務だ!」
ギデオンは歯ぎしりし、格子を掴んで揺さぶった。
しかし、いくら力を込めても、格子はびくともしない。疲弊し切った身体では、体内からマナを呼び起こすこともできなかった。大気のマナもミスリルに吸われ、ギデオンはなす術もなく、もがいた。
「もちろん、救ってもいい。だが、それはお前が死んだことを確認してからだ。彼女のことを思うなら、すぐに死ね。そして、私を安心させろ」
「オラシルを治療するのが先だ! あいつの元気な姿を確認すれば、すぐにでも死んでやる! ここにオラシルを連れてこい! 彼女を救え!」
「残念ながら、お前は自分の立場をわきまえていないようだ。いまのお前は大罪人だ。国家に楯突いた、悪逆非道の男。そんな男が、この救世の賢者、マテリット・ミクロノミカと交渉しようなどと……」
マテリットはキャロルに目で合図し、背後の扉に向かって歩いて行く。
「ごめんなさいね、ギデオン。ま、ゆっくり監獄世界を楽しんで」
「ふざけるな! 貴様らを殺してやる! こんな監獄を抜け出すのなどわけはない! これから、ずっと怯えて生きるがいい! 俺が必ず貴様らを殺しに行く!」
「馬鹿なことを考えるな。もしお前が脱獄したなどという話を聞けば、オラシルを殺す。わかるな? お前が自分の命よりも大事に思っている妹が死ぬのだ。彼女のために、いまのお前にできるのは、その監獄の中で静かに朽ち果てることだ」
「黙れ! 貴様を必ず殺してやる! 殺してやるぞ、マテリット! 俺の信頼を裏切った罪を必ず償わせてやる!」
ギデオンは燃える目で師を睨みつけた。
マテリットはそんなギデオンを見て、ニヤリと笑った。
「なんとでも言うがいい。ではさらばだ、かつての弟子よ」
最後にそう言い残すと、マテリットは部屋を後にした。
※
面会室で一人、大声で泣き叫んでいたギデオンは、不測の事態を察してやってきた衛士たちに取り押さえられて、ピアーズ門の外に放り出された。
この門をいまにでも破壊し、フォレースへと帰還したかった。
なのに、なぜ身体に力が入らない? 自分にマナの座を開く力が宿っているというのなら、いまこそがそれを発揮するときだというのに……。
ギデオンはふらつきながら、ペッカトリアに向かって歩いた。
だが、そこに行って何をするというのか?
もはや象牙は必要ない……いや、もともと必要なかったのだ。
ずっと騙されていた。ずっと踊らされていた。
病魔に苦しむ妹が、あんな人間の手中に収まっているという現状を考えると、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「……ギデオン?」
そのとき、鈴のような声が響いた。
顔を上げると、森の小道の先に真っ白な髪をなびかせる少女がいた。
その少女の姿は、大きく歪んでいる。それで、ギデオンは自分がまだ泣いていることに気がついた。
「……どうしたの? どこか痛いの?」
少女は心配そうな顔で、こちらに近づいてくる。
ギデオンは涙を拭って、視界の歪みを正した。
「ああ、リルパ……」
その少女は見紛うことなく、ギデオンが守ると誓ったリルパだった。
もう『前夜繭』から出てきたのか?
フルールはどうなった?
疑問は次から次へと溢れてきたが、彼女の顔を見た途端、どういうわけかギデオンの心を支えていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
ギデオンは膝から崩れ落ち、大地に額をこすりつけて泣き続けた。
「……泣かないで。悲しいことも苦しいことも、私が一緒に背負ってあげる。私たちは一緒に歩いて、この世界の全てを知りに行くんだよ。わたしたちの世界は、遥かなる旅路の果てに広がってる」
そう言うリルパの声は、慈愛に満ちていた。
「俺は弱い人間だ……大切な人を守ることすらできない……」
「わたしは守ってくれたでしょ? わたしはさっきまで、暗闇の中でずっと震えていたの。自分が何者かわからなくなって、どこに行けばいいのかわからなくなって。でも、フレイヤの声が全てを教えてくれた。あなたが、わたしのために戦ってくれたことも」
「フルールはいま、どこに……?」
リルパは自分の胸に手を置いた。
「ここに。これからは、ずっとわたしと一緒にいる」
それで、ギデオンは全てを察した。フルールは自身の全てを振り絞り、娘であるリルパを危機から救ったのだと。
フルールは、何と強い女性だったのだろう。こうして彼女は、きちんと取り戻すべきものを取り戻した。目的を果たせなかった自分とは、何もかもが違う……。
そして最愛の母親を失ったにもかかわらず、こうして涙ひとつ流さず、前を向いていられるリルパは、何と強い少女なのだろう……。
「行こう、ギデオン」
そう言って、リルパはギデオンを優しく抱きしめた。
「あなたはわたしの全て。わたしの全てはあなたのもの。わたしはあなたの苦しみを貫く槍となり、あなたを苦しみから守る盾になる。だから、わたしにあなたの苦しみをちょうだい」
ギデオンは、泣きながら震え声を絞り出した。
「君とはいられない……俺は人を不幸にしかできない……」
「あなた自身がわたしの幸福なの。大丈夫、きっと全てが上手くいく」
リルパは身体を離すと、ギデオンの瞳をじっと覗き込んだ。
彼女の頬は朱に染まっている。
そんな少女の様子に、ギデオンはこれまでに感じたことないほどの美を感じた。
見つめ合って、どれくらいのときが流れただろうか。
時間が止まったように感じ、全ての音が消え去っていた。
リルパの瞳にはギデオンだけが映り、ギデオンの瞳にはリルパだけが映っていた。辺りに存在する他の一切が消え去り、いまこの世界には二人だけしかいないような気がした。
……それから、リルパはギデオンの唇に、自分の唇をそっと重ね合わせた。
これにて監獄世界と象牙にまつわる一連の騒動は、一区切りとさせていただきます!
ここまでだとちょっとビターエンドっぽくなってしまいましたが、物語全体を通しての結末はハッピーエンドとなる予定です。
ともあれここまで拙作をお読みいただき、誠にありがとうございました。みなさまのおかげで、私自身とても楽しく書くことができました!
続編執筆への大きなモチベーションになりますので、ブックマーク登録やポイント評価をいただけると幸いです<(_ _)> それでは、また会う日まで!




