悪意なき攻撃
「賢者の石がこの世界にマナの流出点を開けるためには、まず石に大量のマナを吸わせなければならない」
フェノムのその言葉を聞き、ギデオンは、昨日彼が確かに同じことを言っていたのを思い出した。
――この究極物資は膨大なマナを吸い上げたとき、さらに多くのマナを求めて、未現なるマナの世界と、この世界の境にある薄膜に大きな穴を開ける――
「いま君が集め、ぼくに向けて放った途方もないマナが、賢者の石を起動させたというわけだ。これは誇っていいことだよ。本来、この石にそれだけのマナを短時間で吸わせるためには、別のマナの座が必要になると考えていたからね」
そう言って、フェノムは城に開いた大穴の方に目をやった。そこからは、土煙が舞う西の大地が見えた。
「あそこでも、そろそろ同じことが起こる――いや、とっくに起こっているようだね」
「な、何だと……?」
ギデオンは、震えながら言葉を返した。どうしても、このマナ中毒というやつには慣れない……存在自体を否定されたような感覚に襲われ、身動きが取れなくなってしまう。
「感じないか、ギデオン? あそこで二つの神が、いまマナの座を身につけて激しく争っている。その戦いの余波が、ここまで届いているようだ」
そう言われ、ギデオンはフェノムの視線を追った。
城の大穴から、風が吹き込んでくる。それがあの遠い地で行われている戦いの残滓なのだとしたら……。
身も凍るような思いがするのは、単にマナ中毒にやられているだけというわけではないのかもしれない。
「ぼくは賢者の石を、前もってあの場所に埋めていたんだよ。土煙の魔法が張られた荒野。神々の決戦は、そこで行われる必要があった。あそこには、ソラの目が届かないからね」
「ソラ……?」
その名前を聞き、ギデオンは困惑してしまった。
なぜいま、あの霊魂師の名前が出てくる……?
「ソラは土人形の兵隊たちを従えている。その者たちの目を通して、どんな場所でも監視できてしまう。ぼくにとっては、これが少し厄介でね。ソラはヤヌシスの奥底に眠るもう一つの魂に夢中で、ずっと彼女の屋敷に土人形を送り込んでいた。君は、ヤヌシスの屋敷を訪れたとき、その解決に協力すると言ったそうだね?」
「……ああ」
「そのとき、君はヤヌシスから、ソラが土人形を動かす魂から名前を奪っているという話を聞かなかったかい? そうすることで、ソラは魂を支配できるわけだが」
ヤヌシスからではなく、ギデオンはそのことを『長弓兵』という役割を与えられた土人形本人から聞いた。だが、いまそんなことを言っても仕方ないと思ったので、ただ黙ってコクリと首肯する。
するとフェノムは満足げに頷いて、言葉を続けた。
「名前を失った人形たちは、名前で管理されるあの土煙の魔法の中に、入ることすら許されない。普通の人間なら、入って迷うことくらいならできるだろう。だが、名前のない土人形には入ることさえできないんだ。これが非常に重要だった。自らが殺そうとする者を、ソラに確認できなくさせるためにはね」
「……あんたの言っていることが、いまいちよくわからないな」
「あの場にいまいるのは、ヤヌシスと誰だ? よく考えてみたまえ」
それを聞いて、ギデオンは眉をひそめた。
「……リルパだ。彼女がヤヌシスと戦っているんだろ?」
「そう。そしていまあの場所では、二つのマナの座から溢れたマナを吸って、賢者の石が第三のマナの座を作り出しているはずだ」
フェノムは悠然とした態度で、土煙の方を指差す。
「これから、ソラはその膨大なマナを使って、ヤヌシスに攻撃をしかける。彼女の魂を手に入れるためには、ソラ自身が彼女を殺したという実感が必要なんだ。知っているだろう?」
「……ああ」
「ソラの悪意はヤヌシスにだけ向けられ、そこにいる他の者に向けられることはない。ただヤヌシスを殺すためだけの攻撃だ。しかしその規模は凄まじく、あそこの地形すら変えてしまうほどになるだろう。その場にいる生き物は、間違いなく死滅する。もう一度聞くぞ、ギデオン。あの場にいまいるのは、ヤヌシスと誰だ?」
それで、ギデオンはようやくフェノムの言わんとすることを理解した。
そういうことだったのか。
「悪意が自分に向けられていなければ、リルパの意膜は発動しない……」
「そういうことだ。ぼくは昨日、リルパの意膜を突き破るための方法を二つ見つけたと言ったね? 一つは、彼女と同等の存在。そしてもう一つは、悪意なく彼女を攻撃する方法だ」
悪意なき攻撃……!
まさか、そんなことが可能だとは……そしてギデオンはまた、ぶるりと身震いした。
――不可能を可能にするのが、錬金術師。
「ぼくは最近、もっぱら最後の詰めの部分である、リルパへの攻撃方法を考えるのに躍起になっていた。トバルの魔法器械を研究したりして、どうやれば一番マナを逃がさずに、単純な力へと変換できるかを試行錯誤してね。そうして結局、単純な爆発がいいという結論に辿り着いた」
フェノムは、肩をすくめて続ける。
「マナを純然たる力に変えるには、それが一番だ。説明するよりも、見た方が早いだろう。いまに、ソラは凶悪な爆弾を起動させる。彼女はただ自らの欲求に従い、ヤヌシスの魂を手に入れようとするんだ。結果、意図せず哀れなリルパを巻き込んでしまうというだけでね」
「そ、そんなことはさせない……」
ギデオンは震える身体を必死に律し、一歩を踏み出した。
「無駄だよ、全てが遅きに失している。だが、君は見事だ。いまのぼくと違って、君はこの膨大なマナの溢れる空間では、息をするだけでも苦しいはずなのにね」
「……俺は彼女を守ると誓った! それが俺の正義に基づく行為だ!」
ギデオンは身体からとある植物を生やした。
呪いの茨――マナを吸い、別種のマナへと変換して吐き出す植物。
鎧のように張り巡らせた呪いの茨に、ただマナを吸うことだけを命じる。正常な呼吸ができない植物はすぐに枯れてしまうが、そのときはまた同じ植物を生み出せばいい。
雀の涙ほどだが、辺りのマナ濃度が下がり、同時に寒気が少し引く。
これなら、何とか動ける……!
そう思ったギデオンはフェノムに向かって、また一歩を踏み出した。
そして、すぐにまた寒気が襲ってきて硬直する。マナの流出点に近づくにつれ、マナの濃度は上がっていく。とても、対処できるものではない……。
フェノムは、必死にもがくギデオンに、憐れむような目を向けた。
「ぼくは長い間、今日のために計画を進めてきた。必要な場所に駒を配置し、いま敵の王を詰んだところだ。全て終わったんだよ。ぼくたちがやっていたのは、最初から盤外の戦いだったんだ。もちろん、それにも意味はあると思うけどね」
フェノムが生み出した黒い刺突剣の一撃が、ギデオンの肩を捉えた。
パッと、赤い血が舞う。
「――お、お前は傲慢だ、フェノム!」
「ぼくは最初から、自分の理想だけを追い求めて動いてきた。それが正しい行為だと確信してね。神にも、この世界にも従う気はない。それを傲慢と言われるのならば、きっと傲慢なのだろう……だがその傲慢を否定できるのは、より大きな傲慢だ。ぼくの正義に抗いたいなら、言葉ではなく力で示したまえ」
もはや勝負は決していた。
ギデオンが動けないうちにも、フェノムは空間に黒い剣を生み出し続ける。
「せめて君には、ここでぼくと一緒にリルパの最後を見届けて欲しかったんだけどね。どうやらそれは、ますます君を苦しめてしまう結果に繋がってしまうようだ。いま、ぼくが楽にしてあげよう――」
フェノムがさっと手を振り下ろす。
空間に溢れた全ての剣の切っ先が、鎌首をもたげる蛇さながらに、ギデオンの心臓に向く。
……それからのことは、一瞬のようにも永遠のようにも感じられた。
荒れたエントランスに、無数のきらめきが走る。
降り注いだ黒い剣の雨が、ギデオンの身体を蜂の巣にしていく。
「……君とは、また違ったかたちで会いたかったね。それならば、いい友人になれた気がするのに」
フェノムは、ぽつりと呟いた。
ギデオンの体躯は、立ったまま剣で地面に縫い付けられていた――その途方もない力の前では、崩れ落ちることさえ許されなかったのだ。




