喜びの門
ヤヌシスとの生活は楽しかった。
これまで孤独の中で生きてきたフェレシスにとって、彼女の存在は何物にも代えがたい宝物だった。
しかし、ヤヌシスは彼女がメフィストという神から受けたという託宣の内容を、いつまでも話してくれなかった。
「あなたはまず、生きる力を身につけなくてはいけません、フェレシス。あなたは愚か者たちの中で、へりくだって生きる方法を押し付けられていました。しかし、これからは違うのデスよ。自分の足で立ち、自分の力で生きていくのデス」
「でも、私にはあなたがいるでしょう? あなたはとても強いじゃないですか、ヤヌシス」
「ワタシがいなくなったとき、あなたを守ってくれる者はいなくなります。世界には相変わらず愚か者が溢れ、神の御心を理解できない俗物な考え方が広まっているのデスからね」
「あなたがいなくなったときって……そんな縁起でもないことを言わないでください……」
フェレシスはヤヌシスの手を握り、甘えるようにそう言った。
同性であることなど、どうでもよかった。
フェレシスは、強く誇り高いヤヌシスに、恋をしていた。
「あなたには、強くなってもらわなければ困るのデス。あなたはメフィストの巫女なのデスからね。つまりは、ワタシの巫女ということデスが」
ヤヌシスのその発言は、彼女自身を神と同一視するもので、一見すると不敬なようにも思われたが、自然とフェリシスにはそれが受け入れられた。
道理で、ヤヌシスは慈愛に満ち溢れているわけだ、と。
「……ああ、ヤヌシス。あなたは……あなたこそが、メフィストなのですか?」
「ワタシの身体には、メフィストが宿っているのデス。正確には、そのお方と繋がる門が。とはいえ、一人でその門を開くことはできません。巫女であるあなたの力を借りないと」
「そのために、私は力を身につけないといけないということですね?」
「そうデスよ、フェレシス。ワタシに力を貸してください」
「もちろん、よろこんで……」
ヤヌシスの頼みとあれば、フェレシスはこの身の全てを捧げてもいいと思った。
それからフェレシスが自己の才能を目覚めさせ、大気を操る術を身につけるまで、二年の歳月を要した。
その間、ずっとフェレシスのそばには幸福があり、この生活が永遠に続けばいいとさえ思っていた。
「すばらしいデスよ、フェレシス! あなたはやはりワタシのゴルゴンなのデス! ワタシとともに、メフィストへとたどり着くのはやはりあなただったのデス!」
「私は、あなたに相応しい存在になれましたか、ヤヌシス……」
「もちろん!」
そう言って、ヤヌシスはフェレシスを抱き締めた。
甘い香りがして、フェレシスは一瞬びくりと硬直した。おずおずと、愛する少女の身体に手を回すと、この世の物とは思えないほど柔らかい感触が返ってくる。
ヤヌシスはフェレシスから身体を離し――そっとフェレシスの目隠しを外した。
「ヤヌシス……! な、何を……!?」
「ああ、まだ目を開けてはいけないのデスよ、フェレシス! あなたに、いまこそ神託の内容を話します。あなたの目の前には、これから困難な道が開かれることでしょう……しかし、ワタシがずっとついています」
ヤヌシスが一緒と聞いて、フェレシスはほっと安堵した。
「あなたが一緒なら、私はどれほどの困難にも打ち勝ってみせます……」
「すばらしい心がけデス。あなたはこれから、メフィストのために時間を集めなければなりません。メフィストをこの世界に降ろすためには、それだけの代償が必要なのデス。ゴルゴンの役目とは、偉大なるお方のために贄を探し、それらの時間を封じることなのデスよ」
「贄の時間を……封じる……?」
「その贄として選ばれる者は、もちろん誰でもいいというものではないのデス。あなたが愛し、あなたが大事に思うものを、神に捧げなければならない。その者たちの時間を吸い、ようやくワタシたちの神メフィストは、この世界で活動する時間を得ることができます」
「メフィストをこの世に降ろすことが、私に与えられた役目なのですね……?」
フェレシスは目を閉じたまま、うっとりと呟いた。
なんと素晴らしい役目を与えられたのだろう……これも全て、ヤヌシスの導きだ。
「そうデス。そして十分な贄を集めたとき、あなたはワタシを使って門を開くのです。ワタシの身体に宿る門を破り、メフィストを解放することこそがあなたの役目。しかし、それはいつでもいいというわけではありません。ただ闇雲に門を開いても、メフィストはあなたの集めた時間を食いつくし、すぐに門を閉じてしまうでしょう。そうならないために、あなたは別の門を探さなければならない。その者の門を奪ってこそ、メフィストは永遠になるのデス」
「あなたの他にも、門を持つ者がいるのですか?」
「ええ。神の数だけ門はあります。そしてそのあり方や、形式も様々なのデス。メフィストを永遠の存在にするためには、他の神の門を奪う必要があります」
「メフィストにとっては、他の神々ですら贄ということですね……?」
「ええ、そのとおりデス」
それを聞き、フェレシスはにこりと微笑んだ。
「素敵。私たちの神は、とても素晴らしいですね、ヤヌシス……いいえ……あなたこそが、メフィストでしたね……」
すると、ヤヌシスはフェレシスの頬に手をやり、そっと唇と唇を重ね合わせた。
「――あなたを愛しています、フェレシス」
「わ、私も、もちろん……」
フェレシスは、最愛のヤヌシスに口づけされたことが信じられず、あたふたしてしまった。
そして、目を開けたいという強烈な欲求を覚えた。
すぐそこにいるヤヌシスの『美しい』顔を、この目に焼き付けたいという欲求を……。
「ワタシたちは、今日一つになります。二人で一つの存在になるのデスよ。あなたはワタシの時間を止め、ワタシという存在を背負って生きていかなければなりません。そして、いつの日か訪れる戦いの日に、門を開くのデス」
「……そ、それはどういうことですか?」
「ワタシの身体には、メフィストへと繋がる門が宿っていると言ったでしょう? そのワタシと、巫女であるあなたが混じり合ったとき、メフィストへの門が開かれるのデス。ワタシの身体の一部を、ずっとあなたのそばに置いておいてください。そうすることが必要なのデスよ」
「あなたの身体の一部をそばに置くとは……どういう意味です?」
話が不穏な方向に進んでいる気がして、フェレシスは眉をひそめた。
「ワタシを石化し、心臓にあたる部分を切り出して欲しいのデス。ずっと、あなたのそばにいられるように。来るべき、戦いのときに備えて」
一瞬フェレシスは、愛するヤヌシスが何を言っているかわからなかった。
「石化……? あなたを石化すると……?」
「フェレシス、あなたはワタシの巫女。ワタシたちは二人で一つデス。メフィストもそれを望んでいるのデスよ」
「でも……」
「でも? でも、何デス?」
「それは、私があなたを殺すということになるのでは、ヤヌシス……?」
「馬鹿なことを。それは物質的な終わりに過ぎません。ワタシはいつでもあなたとともにありますよ、フェレシス。あなたの瞳で、ワタシは永遠になるのデス……」
永遠に。
その言葉は、フェレシスの心を強く惹きつけた。
確かに自分には、ヤヌシスの『美』を永遠にする力があるではないか、と。
「さあ、目を開いて、フェレシス。これから、ワタシたちは一つ。そしていつか、メフィストの門を開き、至上の幸福を手に入れるのデス……」
その言葉に導かれるようにして、フェレシスはゆっくりと瞳を開いた。
そこにいたのは、まだ幼い少女。しかしフェレシスの目には、彼女の姿が何よりも『美しく』見えた。
「ああ、ヤヌシス……あなたは『美しい』……この世界の何よりも……いいえ、あなたこそが私の世界です……」
目から涙が溢れた。涙はずっと閉じられていた瞼の奥から、とめどなく流れていた。
ヤヌシスは微笑んだまま、石化していく。
「忘れないで、フェレシス……ワタシたちは……二人で一つ……」
「ええ、決して忘れません。いつか、メフィストの元で永遠の幸福を手に入れましょう。それまで私はあなた、あなたは私です……」
フェレシスは、ヤヌシスの身体を強く抱きしめた。しかしあれほど柔らかかった彼女の身体は、すでに石化して硬くなり果てていた。
※
――フェレシスは、ゆっくりと目隠しを外した。
目の前の空間に、土煙が舞い上がっている。
ここが、決戦のために選ばれた大地だった。
空中から視線を下にやると、真っ白な髪をなびかせた少女が、鋭い目つきでこちらを睨みつけているのがわかった。
ゴルゴンの瞳を直視しても、リルパは石化する様子がない。
とはいえ、それはある程度予想していたことだ。
意膜のせいではないだろうが、この程度の力をはねのけるだけの耐性は備えているに違いない。もしくは、ギデオンの血を最近の主食にしていたためかもしれない。あの男には、石化の瞳が通用しなかったのだから。
しかし、そんなことはどうでもいい。
「あなたの門を貰い受けましょう……ワタシたちのメフィストのために……」
フェレシスは、フェノムから返還されたナイフを取り出した。
これこそが、ヤヌシスの心臓から切り出した神託器。そして、ずっとともにあるべきだった親友であり、恋人そのもの……。
フェレシスは、そのナイフを自分の肩に突き立てた。
痛みは一瞬で喜びに変わる。彼女に貫かれたという事実を前に、思わず吐息が漏れ出た。
肩から流れ出た血が垂れ、身体に赤い模様を描いていく……。
それは、リルパの『怒りの紋様』とよく似ていた。
そうして、喜びの門が開く――刹那、圧倒的なマナがほとばしり、フェレシスは神と一体になる確かな感覚を得た。
「さあ、リルパ……戦いましょう……」
ワタシはヤヌシス。
私はフェレシス。
そして――
「……わたしは、メフィスト」




