破膜の訪れ
眠っていてギデオンのことを知らない最愛の人のために、ずっとリルパは、夢中で彼の話をしていた。
「――それでね? ギデオンがわたしのことを『殺す』って言ったの。そんなこと、できっこないのに!」
「それは、まだギデオンがお前のことをよく知らないときだろう?」
「うん。初めて会った日だよ」
「それはたんなる無知だ。だが、お前のことをよく知った上で『殺す』だなんて言い出すやつがいたら、気をつけるんだぞ、リルパ」
「どうして?」
「お前は、世界でもっとも強力な生き物と言ってもいい。お前たちは、周りから神と呼ばれたり、『世界種』と呼ばれたりする種族だ。お前たちというのはつまり、このダンジョンには、お前と同等の力を持ったやつらもいるってことさ。そいつらに会ったときは、気をつけなければならない」
「わたしはずっとここにいるの。そんな怖い人がいるところには行かない」
リルパは唇を尖らせてフレイヤの腰に抱きつくと、彼女の膝の上に頭を乗せた。
そのときベッドの下から地鳴りが聞こえ、ハッと顔を上げる。
「なんか、変な音がする……」
「……これは、戦いの音だ」
「戦い?」
「ペリドラが、大地穿ちを使っている。あいつが本気で戦うとなれば、よほどの事態だ」
「ペリドラが戦う? 誰と?」
フレイヤは答えない。
彼女の顔に苦悶の表情が張りついているのを見て、リルパは胸を痛めた。
ペリドラはギデオンを迎えに行ったはずだ。そこで、誰と戦うというのか? まさか、ギデオンと?
いや、さっきフレイヤとペリドラはフェノムの話をしていた。では、フェノムと?
しかし、ペリドラがフェノムのことを悪く言うところを聞いたことがない。
彼は昔、フレイヤと一緒にダンジョンの攻略に赴いた仲間という話だった。
「フレイヤ、ここで待ってて。わたし、ちょっと見てくるね」
「……気をつけろ、リルパ」
フレイヤはリルパの腕をきつく掴み、真剣なまなざしでそう言った。
「大丈夫、わたしは誰にも負けない。強いから」
リルパがフレイヤを置いて部屋を出たとき、階下から響く地鳴りがさらに大きくなった気がした。
廊下に亀裂が走り、フレイヤのいう「戦い」が激しくなっているのを感じる。
リルパは床に拳を思い切り叩きつけ、そこに大穴を開けた。
一階のエントランスまで吹き抜けになったのに気をよくし、そこに飛び込む。
寸刻をおいて着地したエントランスは――見たことがないほど荒れ果てていた。
リルパは首だけを動かして、右を見た。
擦り傷と切り傷にまみれたペリドラが、肩で息をしている。
「ペリドラ、どうしたの? 怪我してる……」
「――危ない!」
ペリドラが叫んだのと、リルパを覆う意膜がその「攻撃」を弾き返したのは同時だった。
「……ようやく現れたか、リルパ」
声のした方向に、ゆっくりと首を回す。
そこに立っていたのは、フェノム。
両手に剣を持ち、無数のさらなる剣が彼の周囲の空間に浮かんでいる。
それを見て、リルパはすぐに納得した。
「やっぱり、あなただったんだ? あなたが、ペリドラと戦っていたんだね?」
「本意じゃないとも。ただ、彼女が退かないというものだから」
「どうしてペリドラを傷つけるの? こんなに血が出てる」
リルパはペリドラに近づき、彼女を庇うようにして両腕を広げた。
背後から、ペリドラの囁き声が聞こえた。
「……リルパ、お部屋でフルールさまと待っているように言いなんしたのに」
「だって、うるさいんだもん」
「君を打倒しにきた、リルパ」
フェノムが手に持つ剣の切っ先を、リルパに向けて言い放った。
「わたしを?」
「そうだ。フルールを返してもらう。彼女は君のせいで苦しみ続けている。この城に閉じ込められ、肉体と精神の自由な精神を奪われている。許すことはできない」
そのとき、リルパの背後からペリドラが飛び出し、フェノムに大槌を叩きつけた。
鈍い轟音が響く――
「黙りんす! リルパ本人を前にして、まだそのような世迷言を口にするとは!」
「君の力の原動力は、いつもフルールへの忠誠心だったね、ペリドラ。もう終わりかと思ったけど、どうしてどうして、まだ動けるじゃないか」
フェノムは二本の剣で大槌の一撃を受け流すと、勢いをそのままに回転して、ペリドラを切りつけようとする。
リルパは一気に距離を詰め、ペリドラに代わってフェノムの剣を受け止めた。
「……わたし、あなたはペリドラのお友だちだと思ってたけど」
「そういう時期もあったかもしれない。彼女はフルールに尽くした。ぼくもそうだ。だが、君という存在が現れて、ぼくたちは決定的に異なる道を進むことになった」
フェノムは手に持つ剣を離し、代わりに空中に固定される剣を二本握った。そして恐ろしい速さで、それをリルパに向けて振り下ろす――が、やはりその攻撃も意膜が弾き飛ばす。
「ペリドラはフルールという枠組みの中に、君という存在を置いた。だがぼくは違う。ぼくは君をどうしてもフルールの一部だとは思えなかった。君がやっているのは侵略としか思えなかった、リルパ。君は、フルールの自由を侵す侵略者に他ならない」
「耳を貸してはいけなさんす、リルパ!」
ペリドラが叫び、また大槌を振り回す。フェノムはそれを躱したが、ペリドラはそこで攻撃方法を変えた。
空振りの勢いに身体を任せ、大槌を軸にして回転して見せたのだ。
遅れて繰り出されたペリドラの蹴りをまともに受け、よろよろと後ずさるフェノム。
リルパはすかさず、隙だらけになったフェノムの懐に飛び込んだ。
そして腰を落とし、グッと拳を握りしめる。
「……君は滅ぼされるべき怪物だ」
「よくわからないけど、あなたはこれでおしまい」
一気に右腕を前に突き出す。
その拳は、フェノムの身体をやすやすと貫通した。
遅れて生じた衝撃の波が、その錬金術師を吹き飛ばす。フェノムの身体はエントランスの壁に激突し、そこからもうもうと土煙が上がった。
リルパは、フェノムの青い血で濡れる自分の拳をペロリと舐めた。
「……変な血。あんまり、おいしくないね……」
「そんなことをしている場合ではありんせん!」
叫びながら、ペリドラはキッと上空に目を向けた。
その方向から、パチパチパチ、と拍手の音が降ってくる。
「お見事、お見事、流石は神の子というわけデスか……」
視線を上げると、空中に人が固定されていて、リルパはおやっと思った。
そこにいたのも、見知った顔。
ヤヌシスだ。
「ああ、『醜い』……少し見ないうちに、あなたは随分と醜くなりましたね、リルパ……とはいえ、あなたは美醜に捉われない存在。あなたの存在自体が、我が主にとって最高の捧げものになるのデスからね……」
彼女が小さく掲げる腕の周りには、竜巻のような大気の渦ができている。
圧縮された空気――直感的にその現象の本質を見抜いたときには、ヤヌシスはすでに腕を振り下ろしていた。
凄まじい勢いで飛んでくる空気の塊に、リルパは拳を叩きつけた。
一瞬、手に痺れが走り、何事かと眉をひそめる。
圧縮された空気が一気にはじけ、辺りに暴風をまき散らす。
気づいたとき、リルパはその攻撃に吹き飛ばされていた。
身体に受けたダメージはほとんどない。しかし体勢を立て直したとき、リルパの頭を占めていたのは大きな混乱。
「……どうして意膜が発動しないんだろう? あなたの考えているのは、そんなところデスか?」
言いながら、ヤヌシスがゆっくりと地面に降下してくる。
「あらゆる悪意をはねのける絶対膜……その神の力を、なぜたかが人間が打ち破ることができるのだろう、と。答えは簡単。いまのワタシも、あなたと同等の存在だからデス――」
ヤヌシスは風に乗って爆発的に加速し、言葉を置き去りにする。次の瞬間、彼女はリルパの頬に拳を叩き込んでいた。
リルパは凄まじい衝撃に耐えきれずに吹き飛ばされ、ごろごろと地面を転がった。
口の中に、以前一度だけ味わったことのある感覚が広がっている。
足を滑らせて、崖から落ちた日……膝小僧を擦りむいたとき、リルパはその感覚が「痛み」と呼ぶものだと知った。
唾を吐き出すと、そこに赤いものが混じっていた。
「ふっふっふ、破膜の味はいかがデス? 初めては、信じられないほど痛いもの……」
ヤヌシスが、悠然とした態度でこちらに向かって歩いてくる。
「……あなたの相手はワタシがしましょう、リルパ。とはいえ、ワタシたちがここで戦えば、こんな城など吹き飛びます。それはあなたにとっても、都合が悪いでしょう。この城には、あなたの大好きなフルールがいますからね」
「……あなたも、わたしと戦いたいの?」
リルパはゆっくりと立ち上がった。目の前の女を、きつく睨みつけながら……。
「ええ、あなたを殺してさしあげますよ」
――だが、お前のことをよく知った上で『殺す』だなんて言い出すやつがいたら、気をつけるんだぞ、リルパ。
リルパは、フレイヤの言葉を思い出していた。
――敵は、こんなにも早くやってきた。
「場所を変えましょう。ついて来てください」
ヤヌシスの身体が、ふわりと浮き上がる。
リルパは、ペリドラの方をちらりと一瞥した。
「……フレイヤと一緒に待ってて、ペリドラ。すぐに戻ってくるから」
「リルパ、挑発に乗ってはいけなさんす……」
「『わたしを殺せる生き物なんて、この世に存在しない』……ペリドラがずっと言ってたことでしょ?」
リルパは、にこりと微笑んでそう言った。
「そ、それはそうでありんすが……」
「大丈夫、わたしは誰にも負けない。わたしはフレイヤと、ペリドラの子だから」
ヤヌシスが大気の渦を放ち、城の壁に大穴を開ける。
その穴をふわりとくぐって先導する彼女を、リルパは追いかけた。
ヤヌシスは、西へと――土煙の舞う荒野に向かって飛んでいた。




