晴れた迷い
「……城のメイドたちが駆けつけ、各地で騒ぎを鎮圧しているようでございやんす」
「彼女たちが?」
「ええ。とはいえ、わたくしめどもは彼女たちと戦う理由がありやせん、すでに、表だって抵抗を続ける囚人は、ほとんどいなくなりやんしたから。先ほど修羅の如く戦い続けていたスカーが、死亡したという報告を受けやんした。それが、やつらの最後の抵抗でございやんす」
「そうか」
「潜伏する者も、いずれ見つけ出して確保できやんしょう。それで、この戦いは終わりでございやんす」
「わかった、ありがとう」
ギデオンはゴブリンの報告を受け、大きな息を吐いた。
事態は収束しつつある。昨晩からギデオンが捕えた囚人は、この病院にいるラスティ、シェリー、テクトルの三人を含めて十人ほど。
そのとき、ベッドの上に横たわるテクトルが身じろぎし、ギデオンは椅子から立ち上がった。
「……うっ……」
「目が覚めたか?」
「……こ、ここは?」
大やけどで生死の境をさまよっていたテクトルは、ギデオンの塗布薬による治療で回復し、ようやく意識を取り戻したようだった。
「病院だ」
「病院……? ああ、そうか……小鬼が持ってきた贈り物とやらが爆発して、それで……」
「あんたの事情は、他の囚人たちからある程度聞かせてもらった。あんたはずっと眠っていて、今回のペッカトリアの悪意に関わっていなかったってな。助かってよかったよ」
「お前が助けてくれたのか……? 確か、ギデオン……?」
「そうだ。こうして話すは二度目だな、テクトル」
「二度目……?」
テクトルは胡乱げに眉をひそめた。しかし、すぐに合点の行った顔になる。
「そうか、お前が来た日、ペッカトリアの門を開いたのが俺だったな……」
「ああ、その日俺と一緒にいたミレニアも、ここにいる」
テクトルは身を起こす。そして、そばに座るミレニアを見つけて目を丸くした。
「あれ、そいつは性病の女じゃないか」
「せ、性病……?」
言われたミレニアは、素っ頓狂な声を上げた。それから、さっと顔を赤くする。
「気にするな、ミレニア。彼はまだ記憶が混濁しているようだ。どうも君を、他の人間と勘違いしているらしい」
「え? 確か、お前が言ってただろ? その女が性病を持ってるって……」
「まだ寝ていろ」
ギデオンは決まりが悪くなって、蔓植物を操ってテクトルをベッドに縛り付けた。
あのときは、ミレニアのためを思ってそう嘘を吐いただけのことだ。それで彼女が、変な輩に絡まれなければいいと。
「お、おい、なんだこれ!?」
「あんたはまだ万全じゃない。寝ていろと言っているんだ」
テクトルはしばらくもがいていたが、それが無駄だと悟ったのか、あるいは身体に痛みでも走ったのか、抵抗をやめておとなしくなる。
「……なあ、ギデオン。ちょっと聞いていいか?」
「何だ?」
「俺はどれくらい意識を失ってた? つまり、その……もうピアーズ門から、新入りはやってきたか?」
「入所日の話か? それは明日だ」
ギデオンが入ってきた日を含めて、今日は七日目。囚人の入所は一週間に一度なので、明日ピアーズ門が開かれて、新入りがやってくることになる。
入所日が明日と聞いて、テクトルの表情が、パッと明るくなった。
「明日! そうか、そいつはよかった!」
「その日に何かあるのか? まさか、知り合いが入所してくるとか?」
「え、ああ、まあ、そんなところだよ……」
途端にテクトルは、ごにょごにょと言い淀む。
彼の態度は気になったが、いまのギデオンにとっては些細な問題だった。
というのも、彼の言葉でもっと重要な出来事を思い出してしまったからだ。
この世界に滞在して七日目ということは――つまり今日は、これから師がピアーズ門まで、ギデオンに面会を求めてやってくる日ということに他ならない。
ギデオンは胸を押さえた。
そこには、フェノムから譲られたペンダントがある。ギデオンがこの監獄に来た目的である、カルボファントの象牙が埋め込まれたペンダント……。
これを師に渡せば、自分の役目は終わる。
妹の呪いを解くことよりも大事なことなど、何もない――そのはずだ。
しかし、ギデオンの胸中には、依然として迷いが渦巻いていた。
フェノムは、この首飾りを渡すとともに言った。
お前はお前のやるべきことだけを考えろ、と。
彼の言葉に従い、これを使って目的を完遂してしまうべきなのだろう。
なのに、なぜこんなにも迷う……? なぜこうまで、自分の心は晴れない……?
ギデオンが答えを出せずにいると、血相を変えたゴブリンの娘が病室に飛び込んでくるのがわかった。
まだ若い。華やかに着飾っており、まるで何かのパーティーの帰りのようだった。
「ギデオンさま! ギデオンさまはどの方でありんす……?」
「俺だ。どうした?」
「おお、あなたさまがギデオンさま! リルパのアンタイオでありんすね?」
「そうだ」
「た、大変でありんすよ、ギデオンさま! フェノムさまがご乱心を! 城に姿を現すやいなや、そこにいる者を皆殺しにすると息巻き、囚人さまを実際にお一人手にかけなんした!」
「何だと……?」
ギデオンは、さっと青ざめた。
とはいえ、驚いたわけではない。昨日彼と話したときから、予想はついていたことだ。
ついにフェノムは、行動を起こした。
彼の目的。リルパを排除し……フルールを取り戻すために。
「……やつの狙いはリルパだ。彼女が危ない」
ギデオンは呻いた。
フェノムはリルパ打倒のために、長い時間をかけて準備を整えてきた。
リルパの力の源は、マナの座と呼ばれるマナの流出点ということになるらしい。
そしてそれと同等のものを、フェノムは人工的に作り出すことに成功した。
賢者の石――昨日、彼が見せてくれた輝く物質を思いだし、ギデオンは身の凍る思いがした。
あの男は底知れない恐ろしさを持っている。それは、かつてギデオンがリルパに感じていた恐怖よりも、さらに大きいかもしれない……。
「ギデオン? 大丈夫ですか?」
ミレニアが心配そうに、ギデオンの顔を覗き込んでくる。
「ああ、大丈夫だ……俺は、大丈夫だよ……」
「とても顔色が悪いですよ。少し横になった方がいいのでは?」
「そんなことをしている時間はない」
ギデオンは切迫して、ミレニアの手を取った。
「教えてくれ、ミレニア……俺はどうすればいい?」
「え?」
「俺には罪がある。その罪を償うために、この世界に来た」
オラシルに悪意を向けた罪。それを償うために、ギデオンはこの監獄にやってきた。
「だが、その罪を償うためには、俺はこの世界で新しく罪を背負うことになる」
――君は君のやるべきことだけを考えたまえ。
フェノムの言葉に従うことは、この世界に根づく問題を放棄することを意味する。
フェノムはリルパをこの世界から消し去ろうとしている。ゴブリンたちにとって、信仰の対象であるリルパを……。
見て見ぬふりをしていいのか……? この世界は、ギデオンたちの世界からきた囚人たちによって侵略を受けた。文化を破壊され、ろくでもない秩序を押し付けられてきたのだ。
ギデオンはそのとき、多神教の神殿の天井に刻まれていた、あの画を思い出した。
ラヴィリントや他の神に混じり、ひっそりと赤い紋様を身につけていたリルの姿……。
あれこそが、侵略だ。文化の破壊に他ならない。
あの光景を見ておきながら、このまま素知らぬふりをして、彼らの文化の象徴であるリル――その子女であるリルパを、ゴブリンたちから奪わせてもいいのだろうか……?
「私には、あなたの悩みがわかりません。でも、さっきも言いましたよね? 罪を償いたいと思っている人には、その機会が与えられるべきだと」
ミレニアがそう言って、ギデオンはハッと息を呑んだ。
「あなたはとても優しい人です、ギデオン。そして、きっと正しい選択を選び取ることのできる人です」
「正しい選択を……」
――だが、これだけは覚えておくといい。正しいと信じることをやろうとする行為は、いついかなるときも正しい。
それは、フェノムの言葉だった。
――強い弱いとかじゃありません。そこには、お互いの立場や位とかも必要ありません。誰かを大事に思うことは、理屈じゃないと思います。
そして、ミレニアが先ほど口にした言葉を思い出す。
彼らの言葉をそれぞれ胸に刻んだとき、ギデオンは自分の心を覆っていたモヤのようなものが、さっと晴れた気になった。
「……そうか、俺は彼女を守りたいんだ」
「え?」
「俺は、彼女に傷ついて欲しくない。最近、ずっと自分の気持ちがわからなかった。多分、彼女が俺よりも、遥かに強い力を持っていたからだろう。無意識のうちに、彼女が俺なんかに守られる必要などないと思い込んでいたから……だから、自分の考えがわからなかったんだと思う」
ギデオンは、目の前に立つミレニアをじっと見つめた。
「彼女をこの世界から奪うことに、やはり正当性を感じない。それは、俺の教わった正義に反することだ」
言葉にしてみると、それは当たり前のことのように感じた。
愛や恋という感情ではないだろう。尊敬や崇拝という感情でもない。
ただ、ギデオンはリルパという存在が、この世界に必要だと感じていた。
「……力のあるなしじゃない。力のない者が、力のある者を守りたいと思うことだってあるはずだ。そうだ、そんなことは当たり前だ」
ギデオンは、そのことを教えてくれたミレニアの手を、強く握り締めた。
「――ありがとう、ミレニア。俺は俺のやるべきことが、いまはっきりとわかった」
迷いは晴れ、ギデオンの目の前には道が開けていた。
それは、戦地へと続く道だった。




