プロローグ2
父をドライアド、母を人間として生を受けたハーフドライアドのギデオンには、とびきり優秀な双子の妹がいた。
名をオラシル。
ドライアドとしてあらゆる植物の祝福を受け、また人の魔法すら使いこなす神童として騒がれた彼女は、八年前――十歳のときに正常な時間感覚を失った。その症状は明らかに、当時不治の病とされていたツリーフォーク症のものだった。
周りの時間に比べて、自分の時間が十分の一ほどの速度になる病気。
のろのろ動き、断続した奇声のような言葉を話す患者が、樹人のようだと揶揄されて名づけられた。
「お前たちの身体には、ツリーフォークの血が流れてんだろ? ふさわしい病気じゃねえか」
妹の才能に嫉妬していた者の中には、鬼の首を取ったかのようにそう言うやつらもいた。
実際のところ、ドライアドとツリーフォークはまったくの別物だったが、確かに純粋な人間から見れば二つの種は縁者と言えなくもない。
人間の血を色濃く受け継いだせいか、ギデオンたちはほとんど普通の人間と同じ容姿だったものの、そもそも自分たちハーフドライアドという種が生まれたのすら奇跡と言っていいほど人間とドライアドは、生物種として遠い存在だった。
妹への畏敬の念は一瞬にして差別へと変わり、ギデオンたちは人間である母親を置いて生まれ故郷を去った。
彼女を治療する手段を探してギデオンは方々をさすらい、師であるマテリット・ミクロノミカに出会うまで二年かかった。
その間、妹は目に見えた成長をしなかった。なぜなら、ギデオンの二年――月にして二十四か月ほどは、妹にとっては二か月かそこらの時間でしかなかったからだ。
「妹を助けてください、先生。俺の身体でどんどん魔法薬を試してください。俺は魔法で植物を扱って身体の免疫を操作できますし、毒素を抜くことだってできます。傷つけば再生することだって。これだけいい実験体はいないでしょう?」
「馬鹿を言うな。そんな非人道的な方法を取ることはできない」
「俺は人間じゃありません。みなが俺をなんて呼んでいるか知っているでしょう? マンドラゴラだって。俺は人の姿をした植物なんです」
「私の前で、二度とそんな言葉を吐くな。お前は人間だ、ギデオン」
師にジロリと睨まれ、ギデオンは狼狽えた。
「そ、それはお約束します。けど、俺は絶対大丈夫ですから!」
気持ちばかりはやるギデオンは、ナイフで自分の腕に軽く切れ目を入れた。
赤い血がじわりと滲み出した次の瞬間には、すぐに傷跡が塞がっていく。
「……そんなことをしてもダメだ。お前に備わった栗色の髪も、深緑の瞳も、全て人間のものだ。何より、お前の血は赤い」
師はしばらくの間、ギデオンの提案する強引な方法に難色を示したが、ついには弟子の熱意の前に折れた。
それから『一田舎のまじない師』などという明らかに不当な地位にいた天才、マテリット・ミクロノミカが、『不世出の大魔法薬師』と呼ばれるほどの偉人になるまで躍進するのに、時間はそれほど必要なかった。
彼の輝かしい成果の陰には、弟子であるギデオンの多大な貢献があった。魔法薬の反応を効果的にしようと、ギデオンは様々な植物の力を借りるため、その種子や細胞を身体に取り込んだ。師と自分の二人は試行錯誤を繰り返し、その都度新しい薬を生み出していったのだ。
しかし、それらの成果は全てツリーフォーク症を治療するための副産物と言っていい。
全ては、オラシル・アゲルウォークの身体に巣食う病魔を追い払うため……。
そして長い年月をかけ、ついに師の剣がツリーフォーク症という難敵を捉えたとき、ギデオンはこれまでの暗澹とした世界が一気に開けた気になった。
それまでのギデオンは、どちらかというと自信のある性格ではなかった。昔から妹の陰に隠れ、妹が病に倒れてからはずっと差別の対象だったからだ。
(こんな俺にでも、できることがある!)
自分たちのやってきたことを改めて振り返ると、そこには人々の笑顔があった。新しく作り出された薬によって救われた人たちだ。
「ギデオン、この世界には不可能という言葉はない。それらは全て、解決される途中にあるだけだ」
「俺もそう思います」
そのときの師の言葉は喜びに満ちていたが、二日後に紡がれた同じ言葉は、まったく別の意味を孕んでいた。
――それは、慰めだった。
ツリーフォーク症を治療する薬は、妹に効かなかったのだ。
しかしギデオンの世界は、すでに開かれていた。この世に絶望などない。不可能という言葉もない。
治療は不可能とされていたツリーフォーク症ですら、いまや取るに足らない敵に成り下がっているではないか! この世界は進化を続けているのだ!
妹の病気がツリーフォーク症でなかったのなら、新しい解決方法を模索するまで。
マテリット・ミクロノミカの名は国中に響き渡っており、すでに様々な権力者との伝手ができていた。そんな師がギデオンのために連れてきてくれたのは、世界に数人しかいないという瞳術師の女だった。
東国カエイルラのお抱え魔術師、キャロル。
彼女の金色に輝く右の瞳は、魔法を形成するマナを見通すらしい。ずっとつけていた右の目隠しを外し、妹を一目見た瞳術師のキャロルは、最初にこう言った。
「……なんてこと、彼女には呪いがかけられているわ」
「呪い?」
「付与魔法というものがあるでしょ? それをより強めたものと言えばいいかしら」
「では……妹はやはり病気ではなかったのですか? ツリーフォーク症ではないと?」
「彼女の正常な時間が失われていることに関してなら、そう言わざるを得ないわね。人の時を遅らせる呪い……こんなものは初めて見るけれど」
「魔法で呪いを打ち消すことは可能ですか?」
「呪いをかけた本人以外には無理よ。呪いとは身体と同化してしまった魔法のこと……残念ながら、そんな魔法を無関係な他人が解くことは、不可能だと言われているわ。少なくとも、この世界では」
それは意味ありげな言い方だった。
「この世界では? どういう意味です?」
「ああ、期待を持たせるような言葉を使ってしまったわ。ごめんなさい。はっきり不可能と言った方がいいわね」
「俺は、不可能という言葉が嫌いだ! そんなもんはただの諦観にすぎない!」
感情的になったギデオンを、キャロルは驚愕した様子で眺めた。彼女がギデオンに金色の目を向けたのは、そのときが初めてだった。
「ま、マテリット……この子は何なの?」
「私の弟子だが」
「人間なの?」
彼女の声は震えている。
「もちろん、人間だ。私の弟子を侮辱するのはやめてもらいたいね」
「……じゃあ、なぜこんなにマナに溢れているの? 人とは思えない。まるで何千何万もの命が集合しているかのようだわ」
「そいつは多分、君の言葉どおり何千何万もの命が集合しているからだろう。ギデオンの身体には、様々な植物の種子や細胞が取り込まれている。彼は植物の加護を得た、ハーフドライアドだ」
師がキャロルを落ち着かせるのに、少しばかり時間がかかった。
ようやく平静を取り戻した彼女は、ギデオンの方をおずおずと見つめて言った。
「マテリット……あんたは魔法薬の発展のために、とんでもない怪物を生み出したのよ。その自覚はあるの?」
「先生に責任はありません。全部、俺が望んだことです」
「キャロル、私はギデオンに不可能はないと思っている。いくら望みが薄いとしても、方法があるなら話してくれないか?」
師の言葉に促されるように、彼女はこう教えてくれた。
「……この世界では無理だと言ったのよ。『監獄』の中には、呪いを解く方法があるわ。あらゆる不浄を取り除くアイテムがね」
「そのアイテムというのは、『監獄』の外には流通しないのかね?」
「数年前まではまだ入手しやすかったみたい。でも、特にこの数年はまったく出回らないって話よ。ま、王や貴族なら買えるかもね。こっちの世界ではそれぐらい価値があるものよ」
こっちの世界。
ギデオンはその日、世界が一つではないと知った。
『迷宮』と呼ばれる別の世界。その過酷な環境は主に、大罪人たちを閉じ込める監獄として利用されているようだった。
――流刑の地、監獄 迷宮――
「そこに行けば、妹を……オラシルを救うことができるんですね?」
「馬鹿なこと考えるなって言いたいけど……あんたなら可能かもね」
ギデオンの胸に新たな希望が宿ったのは、そのときだった。