ペッカトラス
フルールの部屋の窓から、ぺリドラは一夜にしてペッカトリアに現れた巨大な植物を眺めていた。
――なんという魔法! 恐ろしくもあり、同時に頼もしくもある。
ペリドラの隣で、彼女に肩を貸されて弱々しく立つ魔女フルールも、同じくその植物を見て好奇心に目を輝かせている。
「あれを、そのギデオンが作ったっていうのか?」
「その通りでありんす」
「二層世界の世界樹を思い出すな! あの世界には手を焼いた。何しろ、大地がない。あれほど私を怯えさせた場所はないよ」
「怯えさせた? フルールさまは、あそこでもいつもどおりに見えなんしたが」
「そう振舞っていたんだよ。私はこのとおり、か弱い女だ」
そう言って、フルールは体重をペリドラに預けてくる。
「よくそのような言葉を言えなんす。天下の魔女フルールさまともあろうお方が……」
「ハッハッハ! 世の中には、得手不得手というものがあるものさ。リルパ、お前も二層世界に行くときは、気をつけるんだよ」
「わたしは、二層世界になんか行かない。ずっとここにいるもん……」
話を振られたリルパは、フルールが寝ていたベッドに寝転がったまま、シーツで顔を隠してしまう。
「お前はもう大人だ。好きな人ができたんだろ?」
「そうだけど、フレイヤも好き。ギデオンに、この世界にいてもらえばいいの。そしたら、ずっとみんなで一緒にいられるから……」
「私は小さいころ、色々な世界を見て回りたいと思ったものだが」
「わたしは嫌なの」
すると、フルールは不平っぽい顔になって、ペリドラを見つめた。
「……我儘なやつだ。お前、甘やかしてるんじゃないか」
「誰かに似なんしたかね」
「私だって言うのか?」
フルールは、そう言ってまた笑った。
「……ギデオンと話がしたいな。会って、この目で確かめたい。リルパを導くに相応しい人間かどうかをな」
四層世界の最深部で何があったのかを、フルールはリルパの選んだ者にだけ話すと、ずっと言っていた。
フルールはそこでリルに会ったと言った。そして、リルパを身ごもったと。
だが、その正確なところを知る者は、いまこの世界でフルールしかいない。
ついに、自分の主が全ての秘密を明かすときが来たと感じたペリドラは、知らぬうちに背筋を伸ばしていた。
「ギデオンは、いまペッカトリアにいるんだな?」
「ええ」
「……しかし連れてくるには、少し問題があるようだな」
そう言うフルールは、視線を下げ、城の外に広がる草原を見つめている。
彼女の視線を追うと、ペッカトリアの方から二人の人間が歩いてくるのがわかった。
――一人はフェノム。
彼は手に布袋を持っていた。袋の下に、血としか思えない赤い液体が滴っている。
その隣を歩くのは、目隠ししたままのヤヌシス。
奇妙な組み合わせをペリドラが訝しく思っていると、フルールがぼそりと呟いた。
「……フェノムのあんな顔を見るのは、本当に久しぶりだ」
「はい?」
「初めて会ったときにも、あいつはあんな風に張り切った顔をしていたよ」
「初めて会ったとき……」
「覚えていないか? あいつが、私と戦いたいと言ったときさ」
随分と昔のことで、ペリドラはそのときのことがよく思い出せなかった。
とはいえ、知り合ったばかりのころのフェノムが纏っていた鋭利な空気だけは、ぼんやりと記憶の中に残っている。
剥き出しの刃物を突きつけられたかのような、強烈な圧迫感……。
「……フルールさまとリルパは、ここでお待ちを。すぐに旦那さまを連れてきなんす」
異変を感じ取ったペリドラは、主に向かってにこりと微笑むと、さっと身を翻して城の入り口へと向かった。
大急ぎで階段を駆け下り、二階の吹き抜けになったバルコニーからエントランスを見下ろしたとき、フェノムとヤヌシスが城に姿を現した。
「みな、ここから出て行きたまえ」
フェノムは、開口一番にそう言った。
いきなりの出来事に、周りの街娘たちがおどおどしながら顔を見合わせる。
「いまからここは戦場になる。死にたくなければ、この城から退避することだ」
「し、死にたく……? フェノムさま、いったい何を……?」
恐る恐るといった様子で、そばの街娘が訊ねた。
フェノムは答えず、ただ持ってきていた布袋を解いて中身を放り出す。
ごろんと床に転がったのは、人間の頭部だった。
それを見て、ペリドラは顔をしかめた。
見知ったその頭が、囚人エンブレンのものだと気づくまで、そう時間は必要なかった。
「ぼくは本気だ。三分だけ時間をあげよう。それ以後、この城に残っていた生き物は皆殺しにする」
わっと悲鳴が上がり、我先にと小鬼たちが城の出入り口に殺到する。
上を下への大騒ぎの中、ペリドラはバルコニーの手すりを乗り越え、一階のエントランスに降り立った。
「やあ、ペリドラ。君は残っていたのか。他のメイドたちと一緒に、ペッカトリアの鎮圧に向かったのかと思っていたよ」
「フェノムさま、これは何の真似でありんす……?」
「来るべき日が来たのさ。フルールを解放しにきた。彼女は、いままでずっと不当な扱いを受けてきた。そしてこれからも、ずっと同じ扱いを受け続けるだろう。救済する者が現れない限り」
「何をおっしゃっているのかわかりんせん……」
「この世界のあり方を変えにきたんだ。いまペッカトリアでは、ゴブリンたちが自分たちの頭上を覆っていた暗い天井を破壊しようとしている」
フェノムの手の上に、剣が形成される。
軽く手を振ると、剣がものすごい勢いで飛び出して行き、転がっているエンブレンの頭部を貫いた。
「……ぼくも同じことをしようと思っている。すなわち、この世界の悪しき天井……『神の子』を排除しようと」
「神の子? それは、リルパのことでありんすか?」
「他に誰がいるというんだい? 彼女が諸悪の根源だ。フルールは彼女のために自由を捧げ続け、ドグマは彼女のご機嫌伺いができるというだけの理由でゴブリンたちの上に君臨し続けた。この十年ほどの間、この世界はまっとうじゃなかった。それを正すときがきたんだよ」
「……不敬な。リルパを何と心得えなんす」
「怪物だ。打ち倒すべき、ね。ぼくはいままで数々の魔物を倒してきたが、ここまで準備に時間を要した怪物は初めてだよ。フルールをぼくたちに返してもらう」
その物言いに、ペリドラは強烈な嫌悪感を覚えた。
「リルパはフルールさまの娘……『返してもらう』というのは、どのような了見から発せられた言葉でありんしょう? フェノムさまの態度は、リルパからフルールさまを『奪う』ことになるのでは?」
「見解の相違かな。まあ、ここにずっとフルールを閉じ込め続けてきたのは、君でもあるからね。ペリドラ、ぼくは君もペッカトリアに来てくれるものだと思っていたんだよ。そう望んでいた、と言ってもいい。ゴブリンたちが反乱を起こせば、きっとこの城の者は鎮圧に動くとね。全員がいなくなった城で、ゆっくりと計画を進めたかった。ここに君がいれば、ぼくはきっと君への怒りも抑えられなくなるだろうという確信があったんだ」
フェノムは、大きく頭を振った。
「……君の顔は見たくなかった。昔、一緒に旅をした仲間として、君に怒りを向ける自分を想像したくなかった。だが、どうもそういうわけにもいかないらしい」
「勝手を言いなんす。わっちはフルールさまの忠実なる下僕。城を空け、主を少しでも危険な目に遭わせるなど、世界がひっくり返っても起こり得ぬことでありんす」
「フルールはずっと危険な目に遭ってきたじゃないか。その一因を担っていたのが君だ、ペリドラ。フルールを解放してもらう。彼女を、この怪物の檻から出さなければならない」
「フルールさまの幸福を、勝手な尺度で測られては困りんす」
言いながら、ペリドラは大槌を呼んだ。
主より与えられた、絶対的な『力』を。
身体の前に現れた大地穿ちを握り、ペリドラはぐいと肩に持ち上げた。
「……まさか戦う気かい?」
「城に訪れた悪意を、取り除かぬわけにはいかなさんす」
「無理だ、ペリドラ。死ぬことになるよ」
「死んでも受け入れられぬ物事が、この世には存在しなんす。フェノムさまは主を侮辱し、主の覚悟を侮辱し、主の夢を侮辱しなんした」
ペリドラはゆっくりと構えを取る。
「……三分デスよ」
そのとき、ずっと黙っていたヤヌシスが口を開いた。
街娘たちが逃げ出した城のエントランスは、シンと静まり返っている。
しかし、そこに満ちる空気は熱を帯び、いままさに爆発しそうなほど張り詰めていた。




