フェレシス
幼き日の記憶。
それは、彼女にとって最愛の人との最後の別れの場面だった。
「×××××、あなたはワタシの巫女。ワタシたちは二人で一つデス。メフィストもそれを望んでいるのデスよ」
「でも……」
「でも? でも、何デス?」
「それは、私があなたを殺すということになるのでは、ヤヌシス……?」
「馬鹿なことを。それは物質的な終わりに過ぎません。ワタシはいつでもあなたとともにありますよ、×××××。あなたの瞳で、ワタシは永遠になるのデス……」
※
――ヤヌシスはゆっくりと目を開いた。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。
とてもいい夢を見て、心が高揚していた。
夢の中では彼女の姿をいつでも「見る」ことができた。
実際のところ、ゴルゴンの瞳を持つ自分が直に彼女の姿を見たのは一度だけ。
それは彼女との別れのときだった。
心の中に刻み込まれた彼女の美しさは、いまだにヤヌシスを幸福な気持ちにさせる。
寝ぼけた頭を左右に振り、辺りに気を配ると、ピット器官が背後と左右にある石の冷たい感触を捉えた。
前方からは、鉄格子の冷たい感触が返ってくる。
それで、自分が巨人の宮殿の地下に身柄を拘束されたことを思い出した。
どれだけの時間眠っていたのだろう?
もう囚人会議は終わったのだろうか?
そんなことを考えているとき、閉じられた暗い世界の中に、コツリコツリと足音が近づいてくるのがわかった。
不気味な体温を持つ生き物が、地下牢に姿を現す。
人間だ――いや、少なくとも、人間のかたちをしていることだけは確かだ。
しかし、ヤヌシスはその人間が、常軌を逸した怪物か何かではないかとずっと疑っていた。
――名をフェノム。
男の姿を見て取ったのか、隣の牢にいる先客が声を弾ませる。
「……フェノム!?」
「やあ、ソディン」
巨人の息子にそう返すフェノムの声色は、親愛の情に満ちているように思えた。
「ど、どうしてあんたがここに……?」
「君がここにいるとギデオンに聞いたんだ。彼にぼくのことを話したのは君だね?」
「ひょっとして、迷惑だったかい? 兄貴はきっとフェノムの力になってくれると思ったんだけど……」
「ああ、ぼくは怒っているわけじゃないよ。すばらしい出会いだった。彼はとても魅力的な人だね」
フェノムがそう言うと、ソディンはますます嬉しそうにして身を乗り出す。
「そうだろう? 兄貴は何て言ってた? フェノムに協力してくれるって?」
「彼には彼のやるべきことがあるさ。ぼくは彼の決断を尊重するよ」
「そうか……」
「それはさておき、君をここから出そう。ここもいずれ戦火にまみれることになるだろう。いまのうちに、ぼくの屋敷に避難しておきたまえ」
「まさかユナグナのやつ、もう行動を起こしたのか……」
「まだだけど、もうすぐだろう。ユナグナの考えとは違ったかたちで、すでに戦いの火蓋は切って落とされた。彼らの大義となるべきギデオン自身が、ペッカトリアに戦いを挑んでしまったからね」
「兄貴が……?」
「ああ、それこそがギデオンの下した決断だというわけだ。ユナグナは、これに乗じるつもりらしい。ペッカトリアで革命が起こり、ドグマは権力を失う。ソディン……気の毒だが、君の父親は終わりだ」
それからしばらく、場には沈黙があった。
隣の牢から、すすり泣く声が聞こえてくる。
「フェノム……俺はここに置いて行ってくれ。俺は最後まで親父と一緒にいるよ……あんな人でも、やっぱり俺の父親なんだ」
「ここで死ぬ気かい? 君はノスタルジアに行きたいと言っていたじゃないか」
「俺はいいから、その代わりにヴァロを守ってやってくれ。あいつはまだ何もわかっちゃいないガキだけど、だからこそ俺よりはマシだ。俺は親父のやっていたことを見て見ぬふりをしていた。報いを受けるべき人間なんだ」
「悪いが、ぼくはそう思わない」
「――フェノム!」
ソディンが驚愕の声を上げる。
彼の入る牢の鉄格子が、一瞬にして砂のような細かい粒子になり、サラサラと崩れ落ちた。
「ぼくと来るんだ、ソディン。君は死なせるには惜しい人間だ。ドグマのことを思うのならば、なおさら生きるべきだろう。このままでは、彼はただ悪名とともにこの世界の歴史に刻まれることになる。君がそれを変えたまえ」
「ううぅっ……!!」
ソディンがひときわ大きな泣き声を上げ、フェノムは彼の大きな身体を抱き締めた。
それからフェノムは、ちらりとヤヌシスの方に目をやった。
「……やあ、フェレシス」
一瞬、それが自分に向けられた言葉だと思わなかった。
フェレシス……? それは何だろう? なにかの名前だろうか?
「ぼくは君も迎えに来たんだ。先ほど君の屋敷に行ったんだけど、使用人たちから君がここに向かったきり帰ってきていないと聞いてね」
「ワタシに何か用デスか?」
「君にこれを渡しに来た。目隠しを取りたまえ」
そう言って、フェノムは懐から何かを取り出す。
「……あなたを石化したくありません」
「それは実にありがたい心遣いだね」
「あなたのためではありませんよ。メフィストのためデス。あなたは『醜い』……そんな者を、彼女の元におくるわけにはいきませんからね」
「メフィストの元に、か。君の神殿を見させてもらったよ。よくもあそこまで、時間を集めたものだ」
フェノムのその言葉は、ヤヌシスを激怒させるのに十分だった。
あの神聖な場所に、この男は立ち入ったというのか?
「――ワタシの神殿を見た? 勝手に?」
「いいから目隠しを取りたまえ、フェレシス」
フェノムは、いましがたソディンと接していたときには一切感じさせなかった、冷たさを帯びる声でそう言った。
「ぼくには君の瞳の力は効かない。よって、君がメフィストに不敬を働くようなこともない。ただ、ソディンの目だけは見ないでやってくれ」
男の放つ圧倒的な凄みに気圧され、ヤヌシスは大人しく目隠しを外した。
しかし、視界に入ってくる光は少ない。ここは地下牢なので、当然といえば当然だが。
目の前に、若々しい男が立っている。
ヤヌシスがフェノムの顔を見たのは初めてだった。
それからしばらくじっと見つめ合っていたものの、確かにフェノムの身体には何事も起こらないようだった。
「……はじめまして、フェノム」
「やあ、はじめまして、フェレシス」
「そのフェレシスというのは、いったい何なのデス?」
「これを受け取ればわかる」
フェノムが自分の手に目を落とし、ヤヌシスは訝しく思いながらも彼の視線を追った。
――そして、ハッと息を呑む。
「君がかつて失ったものだ。この監獄世界に入ったとき、押収というかたちで」
フェノムの手には、小ぶりなナイフが握られている。
それは、ずっとヤヌシスが求めていたものだった。
親友の形見。神の形見。
「あ、ああ……」
歓喜とともに、呻き声が出た。
ヤヌシスは、自分が涙を流しているのに気づいた。
「君はずっと彼女に忠実だった。この世界でも、ずっと彼女に敬虔な祈りを捧げ続けた。忠実な神官にして、敬虔な巫女だ。君の信仰心とあれだけの時間があれば、世界に彼女を下ろすこともできるだろう」
そんな言葉は、もはやヤヌシスの耳に届いていなかった。
震える手で、フェノムの持つナイフに触れる。
そのとき、失った親友と、失った自分自身を同時に取り戻す。
――そうだ、私はフェレシス……。
――ワタシはいつでもあなたとともにありますよ、フェレシス――
彼女の言葉を、正確に思い出す。
頭にかかっていて霧のようなものが、さっと晴れたような気がした。
「ああ、私のヤヌシス……私は、ずっとあなたに忠実でした……」
この暗澹とした世界の中でも、ずっと彼女の名を守り続けてきたのだ。
フェレシスは、嗚咽とともに膝から崩れ落ちた。
「……ああ、私のメフィスト……」
このナイフが、156話「二人の道」でフェノムがギデオンに示したナイフになります。長々と引っ張って申し訳ございません<(_ _)>
次回より新章「英雄の目覚め」編がスタートいたします! いよいよ魔女フルールが目覚め、最終決戦が始まります。改めまして、ここまで読んでいただいたことに感謝の意を!




