変貌する都市
メニオールとはぐれてから、ミレニアは一人、姿を変えつつあるペッカトリアの街をさまよっていた。
石畳が草花に覆われたかと思うと、建物の脇からメキメキと音を立てて木々が伸びてくる。
秩序ある文明が、自然に破壊されようとしている……。
どこに行けばいいのかわからず、不安なまま苔むした岩に座ろうとしたとき、背後から手がにゅっと伸びてきて、思わずハッと息を呑んだ。
「……静かにしろ」
何者かの手に口を押さえられ、ミレニアは震え上がった。
必死になって振り返ると、そこには見たことのある男が立っている。
初めてメニオールに連れられてスカーという男の家に行ったとき、一度訪ねてきた男。確か、メニオールには「ラスティ」とか呼ばれていたはず……。
「……お前のことは見たことあるぜ、メニオールが飼ってた女だ」
ラスティの方もミレニアのことを覚えていたらしく、囁くようにそう言った。
彼の瞳には、怯えが見て取れる。
注意深くきょろきょろと周囲を見回しながら、そこで起きていることが信じられないと言わんばかりの様子だった。
「騒ぐな、騒ぐなよ……」
ラスティは震え声で言いながら、ミレニアの口から手を離した。そして、おずおずと訊ねてくる。
「メニオールはどこだ? スカーの兄貴と一緒じゃねえのか?」
「わ、わかりません……」
「し、死んだのか? メニオールも兄貴も、さっきの竜の攻撃で……」
それを聞いて、ミレニアはさっと青ざめることになった。
「メニオールが死ぬわけありません! あの人が死ぬくらいの衝撃なら、私が生きてるのはおかしいでしょう!」
「じゃあ、きっと兄貴も生きてるな……ありがてえ……」
ラスティはその言葉に反して、表情を強張らせている。
「ここでいま、何が起きているんです?」
「わからねえ……まったくわからねえ……」
「そこら中から植物が――」
「だから、わからねえって言ってんだろ!」
ラスティはヒステリックに叫び、頭を抱え込んだ。
「なんなんだよ、これは……さっきの竜といい、この植物といい、ペッカトリアはおかしくなっちまった……俺たちのペッカトリアが……」
そのときミレニアは、ラスティが膝から血を流していることに気がついた。
「怪我をしていますよ! 早く、治療をしないと……」
「え?」
それで初めてラスティは自分が傷を負っていることに気づいたらしい。
ラスティがしげしげと自分の膝を見つめる中、ミレニアは服の袖を破り、彼の傷口にぎゅっと押し当てた。
「い、いてえ……」
「我慢してください。止血しないといけません」
それから、何か縛るものはないかと辺りを探したとき、ちょうどそばに細長い蔓植物が生えていることに気づく。
ミレニアは蔓をちぎると、それで男の患部に布地を縛りつけた。
「えっと、見た目は悪いですけど……応急処置くらいにはなっているはずです」
「なんだ、お前……? なんでこんなことをするってんだ?」
「なんでって、放っておくと大変なことになりますよ」
しかし、ラスティは訝しげな目でミレニアを見つめてくる。
「な、なにか魂胆があるんだろ? 俺に恩を売って、何かさせたいってわけだ……? みんなそうさ。俺はいつも、便利な使いっ走りってわけだ……」
「別にお礼欲しさに、こんなことをしたわけじゃありません。困っている人がいれば、助けようとするのは当然ではないですか?」
「大層な偽善者だな! 俺は騙されねえぜ!」
それを聞き、ミレニアはむっとして立ち上がった。
「じゃあお礼を要求します。いまから安全な場所に避難して、きちんと傷の手当てをしてください。そして、私を放っておいてください。これから、大切な人を探しに行かなければいけませんから」
ツンと言い放って踵を返すと、後ろからラスティの必死な声が響いた。
「――ま、待ってくれ!」
「……まだ何かあるんですか?」
「なあ、あんた、俺が悪かったよ。あ、ありがとう。助かったよ……」
振り向いたミレニアに、ラスティは目に涙を浮かべて言った。
「あんた、名前は……?」
「え? ああ……ミレニアです」
実際のところそれは偽名だったが、いまとなっては「ミレニア」こそが自分の本当の名前だとさえ思うようになっていた。
「あんたみたいな人間に会ったのは、本当に久しぶりだよ……誰かにこんなに優しくされたのなんて、この世界にきて初めてかもしれねえ……」
「そんな、大げさですよ」
「俺はここで、ずっと怯えていたんだ……怖いボスに……怖い囚人たちに……怖い兄貴に……」
ラスティはついに嗚咽を上げて泣き始めた。
大の大人が身も世もない様子で泣きじゃくる姿に慌てふためき、ミレニアはしどろもどろになった。
「……な、泣かないでください……ああ、あなたはとても怖かったんですね?」
「そうさ。俺は弱い人間なんだ……誰かの力を借りなきゃ、自分では何もできねえ……」
「人間はみんなそうです。自分一人の力で生きている人なんていませんよ」
男を励ましながら、ミレニアはふとメニオールのことを思い出した。
彼女は生きる上で、誰の力も必要としていないかもしれない。
気まずくなって、言葉を付け加える。
「えっと……そういう人もいるかもしれませんが、ほんの一例です。普通の人は、誰かと支え合って生きているものです……」
「支え合って……?」
ラスティはそう言ったきり、しばらく黙ってさめざめと涙をこぼしていた。
きっと、よほど怖い目にあっていたのだろう。人の善意に接しても、疑心暗鬼に陥ってしまうほど……。
「……ミレニア、一緒に病院に行こう」
ラスティが、沈黙を破ってぽつりと呟いた。
「病院ですか?」
「そうさ。ここは危険だ。闇雲に動き回るより、安全な場所でじっとしていた方がいい。そこからメニオールを探す使いを出せばいいだろ……?」
「でも……」
「見ろよ、ここは地獄に変わろうとしている……俺たちの身体を、いつ植物が蝕むかわからねえ……あんたが死んじまったら、メニオールを探すどころの話じゃねえよ」
ラスティはミレニアの手を取り、半ば強引に歩き出した。
「……俺はあんたに死んでほしくねえ。あんたのおかげで、俺にも守らないといけねえ人がいるのを思い出したんだ。その人は俺の方をちっとも振り向いてくれねえけど、それでも……」
「あなたにも、大切な人がいるんですね?」
「ああ、病院を管轄しているから、きっといまそこにいるはずだ」
「……わかりました。では病院へ行きましょう」
ミレニアは、メニオールの無事を祈るのと同時に、自分の非力さを呪った。
安全な場所にいて、彼女に見つけてもらうこと。
情けない話だが、それがいまのミレニアにできる最善の策だった。
メニオールを探して危険な場所を動き回ったところで、結果的にそれは彼女に迷惑をかけることになる。
ラスティは先ほど偽善という言葉を使ったが、身の丈に合わない正義感に酔いしれる行為こそが、まさにその偽善的な行動ということになるだろう……流石のミレニアにも、それくらいのことは理解できた。




